第3話 なまえ 其の三

 私の名前は、田中武雄という。


 私が勤める会社は、小学校、中学校、高等学校で使用される、教科書、副教材の出版、販売を仕事としている。


 この会社に勤めてから二十数年、同期入社した同僚たちは、皆揃って、会社の一翼を担う役職に就いている。

 私一人だけ、営業部の係長という少々、肩身の狭い位置にいる。

 それでも、同僚に肩を並べられるようになりたいという思いで、日々、仕事に取り組んでいるのだが、どうも、私は、出世に向かない人種だという事を痛感している。


 出世出来る人間というものを、私なりに分析してみた。そこには、三つの要素があると考えている。

 

 一つは、仕事の功績を自分だけのものとして、アピールする事が出来るという事。

 一つは、八方美人で人に取り入るのが上手いという事。

 一つは、部下といった目下の者へ、強い物言いができるという事。


 私には、一つも当てはまらないものばかりだ。一言でいうと、私は、いいひと、なのである。

 いいひと、の前には必ず修飾語を伴う。例えば、どうでも、都合の、使い勝手が、というように。


 私が担当した私立高校に、教科書を採用してもらったときの事である。何度も足繁く通い、やっとの思いで漕ぎ着けたものだった。何度か手伝ってもらった部下に、報告書を頼んだのだが、部下は都合のいいように自分の功績として、私を飛び越え、個人的に仲の良い部長に取り入って、報告書を提出した。私は、部下に強く言うこともできなかった。次の年に出た辞令で、部下は課長となり、私の上司となった。


 私に、出世欲というものが無いわけではないが、他人を蹴落とすなんていう事は、到底できない。私は、私のやり方で認めてもらうしかないのだ。

 私にだって、仕事に対する誇りはある。学校で採用してもらうからには、教員にも、生徒にも、本当に良いものを提供したいという思いがある。だからこそ、そこに信頼関係を築き、忌憚きたんの無い意見を出してもらい、更なる教育の発展に繋げていきたい。


 今度の仕事は、最近、通い始めた私立高校で、数学の副教材を検討してくれているから、それをなんとか採用してもらえるようにと営業している。

 今日は、その学校の、数学の主任の先生と面会の約束をしていた。


 久しぶりの大口の仕事を前に、私は、約束の時間より三十分早く到着し、先生の授業が終わるのを待っていた。

 程なく、授業を終えた先生が戻ってきた。先生は、職員室前で待つ私に気が付いて、声を掛けてくれた。 


「これは、田中さん。お待たせしてしまったかな。では、こちらに」


 穏やかで心地よいその口調は、きっと、生徒からも信頼されているのだろういう事を感じずにはいられない。


「お世話になります。今日は、新しく改訂した教材もお持ちしましたので、以前お持ちしたものと比べて頂き、ご意見を聞かせて頂けるとありがたいです」


 私は簡単な挨拶をして、先生の後について行った。小さな応接室に案内され、私は鞄の中から、用意した副教材一式を机に並べた。

 一つ一つ丁寧に心を込めて説明したつもりだったが、先生の反応は今ひとつだった。


「あまり、先生の要望には添えないものでしょうか? 問題点があれば、何なりとご指摘ください」


 私の言葉には、少々、熱がこもっていたかもしれない。先生は、困って、黙ってしまったように見えた。

 少しの沈黙の後、先生はため息を吐いた。


「いや、そうじゃないんだよ。わからないかな。この前、誠意を持って対応してもらいたいと言ったのは。言葉の裏をよんでよ。わかるよね。田中さんも、空気読めないね」


 先生から出た言葉にはいつもの穏やかさはなく、むしろ、苛立ちが溢れていた。

 私は何の事か全くわからずに、先生に尋ねた。


「言葉の裏とは、一体どういう意味の事をいっているのでしょうか。皆目見当もつかないので、教えて頂きたいのです」


 私は、自分の誠意を精一杯出して、頭を下げた。


「本当にわからないかね。困ったものだね。いいかい、教材を採用するってことは、田中さんのところにも大きな利益を生むよね。それは、私の助けがあってのことなんだから、それなりの見返りが、あってもいいって事じゃないかな」


 先生が曝け出した本性は、自分の耳を疑うほど、予想だにしないものだった。

 だからといって、私はそれを、間違っていると強く言う事も出来なかった。


「会社に持ち帰り、検討させて頂きます」


 そう言うのが、やっとであった。


 会社に戻る気にもなれず、私は自宅へと足を向けていた。

 いろいろな事が、頭の中をぐるぐるしていた。果たして、私の誠意は間違っていたのだろうか。私が今までしてきた事は、意味を持たない事だったのだろうか。


 私はこの仕事に向いていないのかもしれない。


 そう考えながら、緩やかな坂道をゆっくりとくだった。ふと空を見上げると、夕陽も薄っすらと、僅かな赤色が残る黄昏時であることに気が付いた。


 家について、インターフォンを鳴らしたのだが、誰もいないようだ。

 玄関の鍵を開けて、家に入って、部屋の明かりもつけず、私はリビングのソファーに腰を下ろした。

 見たい番組があったわけではない、ただ無意識にテレビをつけた。テレビから漏れる光に反射したのは、棚の上に飾られた家族の写真だった。

 一つは、最愛の妻と私の二人で写っているもの。もう一つは、かけがえのない娘と私の二人で写っているものだ。

 三人の写真はない。撮ることが出来なかった。妻は娘を産んですぐに死んでしまったから。


 写真を手に取り、私は、妻と過ごした日々に、想いを馳せていた。二人で北海道に旅行した時の、最高の笑顔が写真には残されていた。目を閉じて、その時の光景を思い浮かべると、妻の言葉が蘇ってくる。


『あなたは、とてもいいひと。私にとって、心から寄り添える、信じてもいいひと。これからも、ずっと一緒にいてくださいね』


 私は、身体中が熱くなり、嗚咽まじりに、声を上げて泣いた。


 どれくらいの時間が経ったのかは分からない。涙は止まり、なんだか、いつのまにか頭の中はすっきりとし、晴れやかな気持ちだった。


 私はソファーから立ち上がり、上着を脱いでネクタイを緩めた。

 軽装に着替えて、部屋の明かりを灯し、冷蔵庫を開けて、そこから冷えたビール瓶を取り出した。そして、軽快に栓を抜いた。

 トクッ、トクッ、トクッというビールをコップに注ぐ音がとても心地良かった。

 妻の写真に向かいコップを掲げた。


「ありがとう。これからもよろしく」


 私は写真に向かい乾杯をした。


 娘が帰ってきたら妻の話をしよう。君のお母さんは、隣にいたらとても居心地のいいひとで、私たちへの想いにあふれていた人だということを。ビールを口に含みながら、そんなことを思っていた。


「ただいま!」


 娘が帰ってきた。


「ごめん、お父さん。ご飯、急いで作るから」


 そう言って、あわてて、台所に向かう娘を、私は呼び止めた。


「ぱせり、ご飯はいいから、こっちに来ないか」




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