第2話 なまえ 其のニ

 私の名前。十文字綾。


 本当に可愛いと思うもの。


 同じデザインで揃えられた文房具。

 木漏れ日が差す木々に、ちょこんと止まる雀たち。

 小さな小川のせせらぎの音。

 パ行が使われた同級生の名前の響き、

『ぱせり』


 とても厳ついと思うもの。


 大皿に乗ったとんでもない大きさの料理。

 黒い毛並みのドーベルマン。

 川の上流にある見上げるほど大きな岩。

 私の名前、『十文字』


 どうしてこうなってしまったのだろう。


 私の周りの景色はモノクロームで、時間が過ぎていくのを、ただ、じっと待っている毎日。部屋の中にいる時だけ、色付いたもと通りの世界。ノートに私が思うものを書いている時だけが、唯一、生きていると実感する。

 だけど、なんだか今日はそれも上手くいかない。『ぱせり』という名前を思い出すと、とても胸が苦しい。考えないようにすればするほど、記憶がどんどん蘇る。



 ぱせりちゃんは、私が小学五年生の時のクラスメイトだった。いつも笑顔で、周囲には人が集まり、とても楽しそうだった。

 私は自分から話しかける事が苦手で、なかなかその輪の中に入ることが出来なかった。

 

 うらやましかった。ねたましかった。


 だから、私は彼女に嫌がらせをした。


 私は、体育の時間に、忘れ物をしたという口実をつけ、誰もいない教室に戻った。自分の筆箱から、お気に入りのクマのキャラクターのシャープペンシルを取り出し、それをぱせりちゃんの筆箱の中に入れた。そのシャープペンシルは、とても珍しいもので、私がそれを使っているのを見た周りの女の子たちは口を揃えて、「いいなー」と言っていた。

 教室に戻った私は、みんながいる中で、私のシャープペンシルがないという事を騒ぎ立てた。みんなが心配そうにする中、ぱせりちゃんが、筆箱の中に見付けたものを私の所に持ってきた。


 私は聞いた。


「どこにあったの?」


 ぱせりちゃんは笑いながら正直に答えた。


「私の筆箱の中に入っていたよ。どうしてなのかわからないけど」


 それを聞いたクラスのみんなは、ぱせりちゃんに向けて、冷たい視線を送っていたのを、私は鮮明に記憶している。


 次の日から、ぱせりちゃんの周りに人は居なくなった。それどころか、ぱせりという名前が変だと言いがかりをつけられ、ノートをゴミ箱に捨てられていたり、体操着を隠されたり、机に落書きをされたり、酷い嫌がらせにあっていた。


 ぱせりちゃんは、いじめられるようになったのだ。


 私も始めは、一緒になって、嫌がらせに加わった。自ら進んで、嫌がらせをしようとは思わなかったが、シャープペンシルを盗まれた被害者として、そうするべきだと、周りの目が訴えていたように感じた。


 日に日にエスカレートする、ぱせりちゃんに対するいじめに、私は耐えられなくなってきた。そのキッカケを作ったのは、自分であるという事に罪悪感を感じずにはいられなかった。


 一向に止まないいじめにも拘らず、ぱせりちゃんが学校を休む事は一度もなかった。

 私は、彼女に謝りたい気持ちで一杯になった。でも、そんな事をしたら、もしかしたら私もいじめられてしまうと思うと、とても恐かった。


 ある日、忘れ物を取りに教室へ戻ると、ぱせりちゃんが掃除当番を任され、たった一人で掃除をしていた。先生の姿もなく、教室にはごみ箱のごみが撒き散らしてあった。

 それを目の当たりにした私は、罪の意識から、何も言わずに一緒に掃除を始めた。ぱせりちゃんも、何も言わずにただ一生懸命に掃除をしていた。掃除が終わり、教室を出る時、ぱせりちゃんは私に一言、声をかけた。


「掃除、手伝ってくれて、どうもありがとう」


 その時のぱせりちゃんの笑顔があまりにも眩しすぎて、私は、ろくに返事もしないで走ってその場を去った。



 そんな事を思い出していると、ぱせりちゃんが今、どうしているのかという事が気になり始めた。


 私は、今、学校に行くのがとても辛い。


 学校には、私の居場所なんかなくて、周りの人たちから受ける嫌がらせが耐え難い苦痛なのだ。


 当然の報いなのかもしれない。


 私がいじめられているという事は。


 私は、家にいても落ち着かないので、街の図書館に行った。だからといって、何も目的はなかった。ただ、時間が流れていくのを待つだけ。でも、また明日が来るのかと思うと、恐くて仕方なかった。

 

 三階の一部に勉強できるスペースが設けてあったので、学校の課題を持って行き、そこでやることにした。大きな机を三、四人で共有するといったもので、私は空いている椅子に鞄を置いて勉強道具を机の上に出した。 

 すでに一人、私の向かい側で勉強している女の子がいた。私と同じ高校生だと思った。ふと、その女の子に目を向けると、ちょうど、その子もこちらを見た。


 目があった。


「あっ!」


 私は、思わず声を上げてしまった。目の前にいたのは、ぱせりちゃんだった。ぱせりちゃんも私に気が付いたらしく、にこりと微笑んでくれた。しばらくお互い、机に向かい勉強していた。時折、目が合い、その度にくすくすと笑い合っていた。


 ぱせりちゃんが荷物をまとめていたのを見て、私も急いで勉強道具を鞄にしまった。

 二人で一緒に図書館を出て、近くの公園に寄った。


 私は、謝らなきゃいけないという思いで、頭の中が一杯になり、うまく言葉が出なかった。公園のベンチに座りながら、私が黙っていると、ぱせりちゃんが唐突に話し始めた。


「私にとって、あの時の事は、すごく辛くてあまり思い出したくない事だけど、綾ちゃんが、掃除を手伝ってくれた事だけは、本当に嬉しかったから、忘れたくない事なんだ。だから、今日も目が合った時、綾ちゃんの事、すぐに気が付いたよ」


 ぱせりちゃんは、あの時と変わらない笑顔を私に向けてくれた。


 それを見て私は、今、謝らなければいけないと感じた。


「私、実は今日、ぱせりちゃんの事を思い出していたの」


 私は、順番に一つ一つ説明しようと考えていた。だが、続ける言葉がなかなか出てこない。ぱせりちゃんは、不思議そうな顔で、私を見て、こう言った。


「何を思い出していたの? ぱせりって名前が、変だったとか、そういう事?」


 私は真剣な顔をぱせりちゃんに向けた。


「ぱせりという名前が変だなんて、一度も思った事ない! 本当にすごく可愛い名前だと思ってた。私、ぱせりちゃんがすごく羨ましかった」


 私は必死だった。


 ぱせりちゃんに、許してもらいたいという気持ちで、必死だったのだ。


「ありがとう。でも、私は、ぱせりっていう名前が、好きではないの。嫌いでもないけど、なんだか、よくわからない。だから、綾ちゃんの方が、私には羨ましいよ」


 ぱせりちゃんの意外な答えに、私は、さっきまで頭に整理していた、ぱせりちゃんへの謝罪の言葉を忘れてしまった。自分の憧れていた、ぱせりちゃんに、羨ましいって言ってもらえた事が、とても嬉しかったのだ。


 結局、その後は他愛のない話で盛り上がり、ぱせりちゃんに謝ることが出来なかった。だけど、また、図書館で一緒に勉強する約束を交わした。


 帰り道、モノクロームの街並みに差し込む夕陽は、オレンジ色に輝いていて見えた。

 次は絶対に謝ろうと心に決めて、私は軽快に坂道を下りて、家路を急いだ。




— — — — — — — — — — — — — — —


 最後までお読み頂きありがとうございます。

次も読んで頂けると嬉しいです。気が向いたら応援などもして頂けると泣いて喜びます。







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