第14話
老田が実家に帰ると、そこは自分の記憶と何一つ変わらずに残っていて、自分が飛び出したあの日と同じように見えた。
しかしそんな甘い現実が老田に待っていることはなかった。
家に帰ると、静まり返って人の様子が無かった。そんなことはないと思い、家の中をあちこち見て回っていると、受け入れ難い現実がそこには待っていた。
母親の遺影と骨壺がそこにはあった。
それを見つけてたじろいでいた老田に、誰かが声をかけてきた。老田の父親だった。
「帰ってきたのか」
父親は、老田の記憶よりもはるかにやせ細り、小さくなっていた。
「ごめんなさい、帰ってきました」
老田はまず両手をつき頭を床に擦り謝罪した。それがただの自己満足であっても、謝意を伝えずにはいられなかった。
「やめろ、もういい。よく帰ってきたな。腹は減ってないか?」
父親は拍子抜けするほどあっさりと老田を許した。穏やかな顔で老田の事を気遣う、それを受けて老田は涙が枯れる程に泣いた。父親は黙って老田の背中を撫で、母親の遺影に向かって手を合わせていた。
母親は、老田が出て行った日から落ち込むことが多くなり、その心労が祟ったのか病気をして、あっという間にこの世を去ってしまった。父親は老田に激しく怒っていたが、母親が今際の際に発した言葉で考えを改めることになった。
「あの子が帰ってきたら、家に上げてご飯を食べさせてあげて、きっとお腹がすいているから。そして二人でゆっくりお茶を飲んで一杯話すの、あの子のすべてを許してあげるのよ。私たちだけは、何があろうとあの子の最後の味方なんだから」
そう言い残して母親は亡くなった。
「俺はその言葉を聞いて恥ずかしくなった。志郎の事を叱りつけるばかりで、どんな事がしたかったか、何を求めていたのか知る事ができなかった。許すのは俺じゃない、志郎俺の事を許してくれるか?」
二人は両手を固く握り合ってお互いを許し合った。そして久々に家族で食事をして、食後にはお茶を飲んで話した。遺影の前で二人で手を合わせて母親を想った。老田はやっと家に帰ってきた。
「おいちゃんはお父さんと仲直りできたんだね」
琥珀は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、嬉しかったよ。て、おいおい藤吾、お前何泣いてるんだ」
藤吾は大粒の涙を流し、鼻から鼻水を垂らして泣いていた。泣いていて声にならないので、久しぶりに筆談した。
『老田さんが仲直りできてよかった』
書かれた内容に老田はぐっと下唇を噛んだ。涙をこらえぎこちない笑顔を藤吾に向け「ありがとな」と言った。
「それからな、親父と色んな話をしたよ。もうあまり時間も残っていなかったから」
老田は話の続きを始めた。
老田の父親は病を患っていた。しかしそれを悲観することなく、いずれ来る自分の運命を受け入れて、家庭菜園を楽しんでいたり、茶飲み友達と過ごす時間を作ったりと、穏やかな日々を過ごしていた。
母親の骨壺を墓に入れずに置いたのは、一緒に墓に入りたいという父親の願いだった。
「志郎が帰ってきてくれてよかったよ、その時はよろしく頼むぞ」
老田はその最期の親孝行までにできる事を、父親と一緒になってやった。畑仕事も教わって一緒に育てた。茶飲み友達との会合にも顔を出して、今までのお詫びをした。村の人たちはそんな老田を温かく迎えて許した。
ある日、老田は父親に連れられて出かけた。向かった先はあの秘密の場所、老田が琥珀を見つけて、琥珀が藤吾を助けたあの場所だった。
「昔ここでお前とよく遊んだよ、川が綺麗で開けてて日当たりもいい。母さんが弁当を作ってくれてピクニックもしたな」
老田は小さい頃の記憶だが、朧気にそのことを覚えていた。
「お前はここが好きで、旅行に連れて行ってやるって言ってるのに、ここがいいって言ったこともあったんだぞ」
父親は楽しそうに笑いながら話す。
「親父が川で足を滑らせずぶ濡れになったよな」
「お前がそれを面白がって、一緒にずぶ濡れになって母さんに怒られたな」
「びしょびしょで帰ったら、すぐに風呂に入れって怒鳴られたっけ」
「川で遊ぶときは大人が注意しないとって、俺もずいぶん叱られたよ」
二人は顔を見合わせて笑い声をあげる。
「志郎、俺は多分もうそろそろだ」
父親が突然に切り出した。しかし、老田は驚かなかった。ここに連れられてきたことで予感していたからだ。
「俺は親父に親孝行できたかな?」
「出来たとも。色んな思い出をたくさんくれた。両手じゃ抱えきれない程沢山だ。こんなに担いでいけるか心配だけど、母さんにも分けてあげないとな」
父親は立ち上がって老田に言った。
「志郎、お前は大勢に迷惑をかけてきた。その事は忘れちゃならない。だけどその事に囚われてもダメだ。お前は誰かの味方になってやれ、家族を作れ。きっとそれがお前の心を救うから」
父親はそれから見る見る内に体調を崩していき亡くなった。しかし死に顔はとても穏やかで、満足そうに微笑んでいた。老田は約束通り最期の親孝行を果たして、父親と母親を遠い空の彼方へと送った。
「これが俺の思い出の旅路さ、お前たち二人にはどうしても話しておきたかった」
話し終えた老田は、少し横になると言って自室に戻った。残された二人は老田から語られた思い出の数々に中々言葉が出なかった。
「こ、琥珀さんは聞いたことありましたか?」
最初に口を開いたのは藤吾だった。
「ううん、私もここまで詳細には聞いたことないよ」
「じ、自分から色々と語る人でもないですからね」
琥珀は藤吾の言葉に頷いた。老田は普段無口な性格だし、過去を吹聴するような人でもない。
「あの秘密の場所は、私たち皆を繋いでいたんだね」
「は、始まりも、終わりも素敵な思い出も辛い思い出も、あの場所から始まっていたんですね」
琥珀は少しの間目を閉じた。そうして思う、老田の父親は言葉にして伝えることが遅くなってしまった。最期には間に合ったが、一緒に過ごせる時間は足りなかった。想いは言葉で伝えなければ「いつか」は待ってくれない、琥珀は覚悟を決めて目を開いた。
「藤吾さん、少し縁側に出ない?」
そして藤吾と琥珀は、いつもの二人の場所に並んで座る。長い間話していたから、空は暗み薄ら星が瞬く。
「き、綺麗ですね」
藤吾は言った。
「藤吾さんは星が好き?」
「こ、ここに来るまであまり眺めた事がありませんでした。下を向いてばかりで勿体ない事をしました」
「でも今、ここで空を見て星を綺麗だって言える。それでいいんじゃないかな?」
「はい、琥珀さんのお陰です」
琥珀は意外な顔をした。藤吾が言葉を詰まらせずはっきりと物を言うのは珍しい。
「私のお陰?皆のお陰とかじゃなくて?」
「僕を見つけてくれたのは琥珀さんです」
藤吾の真っ直ぐな眼差しを受け、琥珀の心は昂った。
「私藤吾さんの事が好き。貴方といつまでも一緒に居たい」
琥珀の想いはもう止まらなかった。言葉にして伝えなければ、それが今、まさにこの時だと思った。
藤吾は顔を真っ赤にして俯いた。そして何度も顔を上げて琥珀の顔を見る。そんな様子を琥珀は真っ直ぐに見つめていた。暫しぐっと押し黙って藤吾は目を閉じる。そして考える、自分も琥珀と一緒に居たい、いつまでだってそうしていたい、一緒にいて力になれればこれ程幸福な事はない、答えはもう心で決まっていた。
「僕も琥珀さんの事が好きです。離れたくありません、一緒に居たい、共に生きたい」
二人の間にはもう言葉は必要なかった。どちらからともなく顔を寄せ、ゆっくりと大切に互いの唇を重ね合わせた。
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