Chapter5 臨戦

Chapter5-1 影森

「あなたの名前は?」

 幼い少年は名前を訊ねられた。手に持ったクマのぬいぐるみを握りしめている。室内は学校の教室みたいで、十数人の少年少女たちがいる。


「かげもり、じん」

 か細い声だった。皆、少年を見るが、その目は誰も見ようとしなかった。

 ここは孤児院だ。彼の両親は事故で亡くなった。それから、ずっと一人だった。握りしめているクマのぬいぐるみは、その日の晩に孤児院の別の子供に奪われた。


 いじめっ子だ。大部屋に敷かれた布団で少年が眠る中、ぬいぐるみを盗み出すのは容易いだろう。

 翌朝、建物の裏手にあるため池にぬいぐるみが浮かんでいるのが発見された。少年は泣き叫び、悲しみに包まれた。数日後、そのぬいぐるみははさみでズタズタに切り裂かれて、孤児院のトイレに捨てられた。


 少年は絶望した。両親を亡くし、自分がたどり着いた先ではいじめられている。先生、と呼ばれる人は少年のことを救おうとしたが、うまくは行かなかった。

 その少年が思春期を迎える頃だった。何年も笑うことはなく、ただただ翌年に控えた卒業の日を待つだけの日常を過ごしていた。


 いつも通り、少年はいじめられていた。誰も救おうとせず、終わる日が来ること以外に生きる意味を見出せなかった。

「お前、泣きも笑いもしないよな」

 体格のいい彼は、ぬいぐるみをズタズタに裂いた犯人だ。肉付きのいい腕は、そのまま少年の首元に伸びた。


「ほら泣けよ」

 かけられた指は、力を込めて喉元を圧迫する。

 少年は思った。ぼくにもこうやって振える力があれば、誰にも、何にも恐れずに済むのに。


 最後に、こいつらを殴ってやればよかった。そう思った瞬間、なぜか全身の苦しみが消えた。死んだのか、閉じていた瞼を開くと、目の前にはぼくの首を絞めている彼の姿があった。

 ぼくは、彼の腕を掴んだ。


「な、なんだ!?」

 そうして、関節とは逆の方向にやると、パキっと音がした。彼は、突然何が起こったのかわからない様子だったが、声をあげて泣き叫んだ。

「い、痛い! 何すんだお前!」

 ふと、近くにチェーンが落ちていることに気が付いた。多分、倉庫から誰かが持ち出す際に落としたんだろう。


 彼が痛みにもがき苦しむ隙に、左手でチェーンを拾った。長さは自分の背丈くらいはありそうだった。

 鞭のようにチェーンを振るうと、さっきまでは威勢がよかった彼が恐怖という感情をあらわにした。


「ねえ、どんな気分」

 まるで子犬のように怯え、萎縮しているようだ。

「ぼくはずっと、今の君のようだったんだ」

 彼の顔面を、右手で作った拳で殴りつけた。思いのほか手が痛い。知らなかった。人を殴ると、自分も痛いんだな。


 そうして、チェーンを首に巻きつかせ、思いっきり締め上げた。自分にはこんなに力はなかった。だが今は不思議と溢れ出る。

 自分が全力でチェーンを引くのに夢中になった。思えば、この孤児院に入れられてからこれほど熱中したことなどなかった。

 気がつけば、チェーンが絡んでいたものが、ただの肉塊になっていた。




 まぶたを開くと、あたりはすでに真っ暗になっていた。そうだ、見回りを部下に任せ、車内で仮眠をとっていたのだった。

 なぜ今更、あの時のことが。そうだ、あれはキッカケだった。どこからか市ヶ谷のエージェントがこの件をもみつぶす代わりにその子を預かりたいと言ってきたのだ。孤児院は喜んで俺を差し出した。それから訓練施設で地獄のような訓練が待っていた。だが、孤児院よりはマシだった。


 昔のことを思い出す。もう、あの日みたいな弱虫の自分はいない。誰にも脅かされない、圧倒的な力で支配する側の人間になるんだ。

 携帯が着信音を鳴らす。


「楯山か」

『申し訳ございません。ロストバゲージを逃しました。見知らぬ炎使いもいます』

「炎使い?」

『両手に拳銃を持ったポニーテールの女です』

「そいつも一緒に行動していたのか?」

『はい。恐らく赤坂のハンターかと』

 赤坂、アメリカにしては動きが早過ぎるが、ハンターは窓際族だと聞いている。


「ならば、我々と対立することになるな」

『一人でチームを半壊させられました。強敵です』

 どうやら、十分な脅威だ。

「こっちにも炎使いはいる。それに二重使い(デュアリスト)だ。撃退には十分」

『はっ』

「楯山、威力偵察ご苦労。迎えはすでに手配した、お前も早く佐世保入りしろ」

 通話を切ったあと、窓を少し開けた。流れてくる潮の匂いが、不思議と落ち着きを与えてくれる。まるで嵐の前の静けさだ。




 ***

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