12 Moe

 目が覚めてまず視界に入ってきたのは、見慣れない高い天井。

 ああ、そうか。ここはわたしの家じゃない。

 そう気づくのに数秒かかった。

 そのまま動かずに横たわっていると、香ばしい匂いが鼻を突く。

 トースト。

 おぼろげに、そのイメージが頭の中を過る。

 数年前までは、ほとんど毎日のように嗅いでいた匂い。

 お兄ちゃんが死んで、お父さんとお母さんが壊れてしまって以来、嗅ぐことのなくなった、匂い。

 懐かしい匂いだ。

 ん?

 懐かしい?

 ホントに?

 ふと思う。

 懐かしい、と、焦がれる、は、おんなじ意味なんだろうか。

 懐かしい、なら、無防備に焦がれるべき、なんだろうか。

 懐かしい、は、無条件にポジティブに直結する感情ってことで、片付けちゃっていいんだろうか。

 なんだか、よくわからない。

 ただただわたしは、ふつう世間では快く迎え入れられるであろう懐かしいという感性を、素直に飲み込めないでいる。その感性に向けて、ほんのわずかではあるけれど、敵意みたいなものすら感じる。

 それはお父さんのせい?

 お母さん?

 それとも、お兄ちゃんの?

 やっぱり、わたし自身のせい、なのかな。

 わからない。

 そんなどうでもいいことに思考を巡らせていると、不意にそこに、コーヒーと、ほんのりあまい暖かな匂いが混ざった。

 それを嗅ぎ取ったからなのか、不毛な思考から逃げ出したかったからなのか、曖昧なままにわたしは、ようやく半身をゆっくりと起こした。

 わたしのいる、生活感の漂う窓際のベッドの数歩先には、業務用のデスクや椅子が並べられた、事務所のような、無機質な風景。更にその奥には、再び生活感の溢れるキッチン。なんだか、アンバランスな空間。

 そしてそのキッチンに立つ、男の後ろ姿。

 少し忙しなく動くその背中を、わたしはしばらくぼうっと眺めていた。

 「やっと起きたか」

 タクヤは振り向かないまま、言った。

 「料理とか、するんだ」

 タクヤの背中に向けて、返す。

 「料理ったって、ただのトーストとスープだよ」

 笑ったのか、肩が上下に何度か揺れた。

 「それでも、なんか意外」

 わたしも、思わず笑みをこぼす。

 振り向いたタクヤは、トレイにあれこれ乗せてわたしたちの間にあるデスクまでくると、その上に皿やカップを並べた。

 わたしものっそりとベッドから出ると、タクヤの対面まで歩みより、車輪のついた事務用の椅子を気怠げに引いて、並べられた料理の前に座った。

 ふたり分のトーストとコーヒーと、ほんのりと湯気の立つカラメル色の、これは、オニオンスープ?

 「食べていいんだよね?」

 「ヤらしてくれんなら」

 「まだ言うんか。バカ」

 わたしは問答無用でトーストを手に取り、角を乱暴に噛る。それを見ながら、ハハ、と短く乾いた、それでいてどこか柔らかい笑い声をあげて、タクヤも目の前に腰かけると、スープを一口、啜った。

 食べながらわたしは、改めて部屋の中を見渡し、そしてやっぱり、思う。

 「アンバランスだろ?」

 わたしの思考を先回りしたみたいに、タクヤが言った。

 「悪趣味とまでは言わないけど、なんかね、違和感」

 「ジンに言わせるとさ、これが一番効率がいいんだって」

 トーストを頬張りながら、わたしと同じように、タクヤも部屋の中を見渡した。


 昨日の夜、マーキュリーに“宣戦布告”したわたしたちは、池袋のランジンの中華料理店に戻った。

 二階の自分の部屋を貸すと言って、ジンは一階の店の椅子を並べてベッド代わりにして、そこに横たわった。タクヤもそれに倣い、ランは屋上にある自分の部屋代わりのプレハブに引っ込んでいった。

 さすがに申し訳なくて、わたしが店で寝ると言うと、ジンは笑って無言のまま、しっしとペットをあしらうように、手首を振った。


 「ジンってさ、もしかしていいヤツ?」

 わたしが聞くとタクヤは言葉で返す代わりに、少し困ったふうに笑んで見せた。笑んでいるのに今にも泣きそうな、迷子の子供みたいな弱々しさを携えた笑みだった。

 そして、わたしをじっと見据える。

 そのまなざしは、確かにわたしに向けられているのだけれど、まるでわたしを見ていないような、わたし以外の誰かを見据えているような、不思議な雰囲気を湧き立たせていた。

 「使えそうなヤツは身内に取り込む。それだけだ」

 不意に視界の外から声がした。目線をその方向に向けると、いつの間にか部屋に入ってきていたジンが、そこに立っていた。

 いつも後頭部でひっつめている銀色の長髪は、今は結ばれないまま垂れ下がっていて、窓から零れる陽光を反射して、きらきらと淡く光っていた。

 ジンの背負う空気、みたいなもの。それは、昨日の夜、マーキュリーのリョウと対峙したときに帯びていたそれとは、全く異質のものだった。

 「使えそうってわたしが? わたしのどこが?」

 そう尋ねるわたしの問いかけにすぐには答えず、ジンは無言でキッチンまで歩み寄ると、コーヒーポッドを手に取ってカップにコーヒーを注いだ。

 「やっぱりそういう自覚は、ないか」

 コーヒーを一口啜ってから、ひとりごちるように、ぼそりと、ジンが言う。

 「ない。全然」

 そう答えると、ジンもまた、タクヤのように、笑んでいるのに泣きそうな、不思議な笑みを浮かべた。

 「だよな、そりゃ、ないよな。あるわけがない・・・」

 消え入りそうな声で言って、ジンはもう一口、コーヒーを啜る。

 「あるわけないんだけどね」タクヤが割り込んでくる。「でも気持ちはわかるよ」

 ジンは物憂げな笑みを更に深めて、タクヤの言葉を飲み込むように、小さくゆっくり、何度かうなずく。そして意味深にわたしに一瞥を投げてから、まなざしを窓の外に向けた。

 「なんなのそれ? 意味わかんないんだけど。何のこと言ってるの?」

 タクヤとジンを交互に見て、問いただす。けど、ふたりとも何も、答えてはくれなかった。

 その時ふと、わたしは感じとる。

 たぶん、きっと、わたしの知らない誰か。

 ここにはいない、でも、タクヤとジンの中にははっきりと存在する、誰かの気配を感じる。

 タクヤとジン、ふたりの表情。

 言葉の間と声色。

 零れ落ちそうで零れ落ちない、ふたりが口の中に留めている何か。

 わたしに向けられているようで向けられていない、焦点がどこか曖昧なまなざし。

 それらがごちゃ混ぜになって、窓から差し込むやさしい朝の陽の光の中、タクヤとジンの間の空間に、ぼんやりと、どこかやさしげな、柔らかな人影が浮かび上がった、ように、わたしは錯覚する。

 そう、きっとそれは、錯覚だ。

 まだ寝ぼけているわたしが、勝手に抱いた妄想だ。

 そう思おうとした。思い込もうとした。でも、ダメだった。

 それくらいその錯覚は、ホントはそこに何もないくせに、誰もいないくせに、くっきりとした存在感をわたしに示していた。

 不思議な感覚だった。

 その気配は、わたしに向かってすっと近寄ってくると、まるでわたしの中に溶け込んでくるように、淡く掻き消えながら、わたしと交わった。

 そして、無意識のまま、わたしの口から言葉が零れる。

 「マサヤを、支えてあげて。見捨てないで、あげて」

 誰?

 その言葉を口にするのは、誰?

 わたしをわたしじゃなくして、わたしに喋らせたのは、誰?

 身動きがとれない。

 金縛り?

 でも、身体が強ばってるわけじゃない。

 怖さも、ない。

 むしろどちらかと言えば、心地いい。

 何かに優しく包まれているような、あの歌舞伎町を揺蕩たゆたうマーブル模様の膜とは全く違った、何か。何て言えばいいんだろう。“神聖”って、こういうことを言うんだろうか。そんな気もするし、そんな仰々しいものじゃない気も、する。

 そしてその気配は、わたしの中の、ずっとずっと奥の方に吸い込まれていくみたいに、どんどんちっちゃくなって、消えた。同時に金縛りみたいな感覚からも、解放された。

 なんだったんだ、今のは。

 タクヤとジンを見ると、ふたりとも何かに驚いたように目を見開いて、わたしを見ていた。

 「―――雨桐ユィートン

 しばらくの沈黙のあと、絞り出すような声で、ジンが言った。

 イートン?

 ユイトン?

 中国語の発音だったからなのか、よく聞き取れなかった。

 でも、何故かわたしは耳慣れないその響きに、懐かしさを感じた。

 トーストの匂いを嗅いだ時とちがって、その響きが懐かしくて、焦がれた。

 その正体が何なのか、これっぽっちもわからないけれど。

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