11 Aiko
アタシにとってシンイチロウって、なんだ?
好きとか嫌いとか、そういう感情の外側にいたってのは、間違いない。だってアタシの心を満たしてたのは、タクヤなんだから。シンイチロウに抱かれたのは、タクヤが埋めてくれない寂しさを、代わりに埋めてもらうため。それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、男と女って、不思議だ。
愛のないセックスなんて世の中に溢れてるけど、例えばアタシとパパの植草さんみたいな、仕事上の関係とは別のところでその儀式を通過すると、絆と言うか情と言うか、好きとか嫌いとかって感情とは別の、なんだかぼんやりとした繋がりみたいなものが、出来上がる気がする。
身内とか家族とか、そこまで強固じゃないにしろ、本質的にはそれと同じ感じの、繋がり。特にシンイチロウとアタシの場合、多分アタシが孕んじゃったのはシンイチロウのコドモなわけで、そのせいかアタシたちの間のそれは多分、ぼんやりが若干、ほかのぼんやりより輪郭がはっきりしたものだった気がする。
だから、なのかな。
ショックだったんだ。
シンイチロウが落ちてしまった“現実”が、アタシを打ちのめした。
そしてそのショックは、自分でもびっくりするくらい、アタシのホントの、一番大切だった気持ちまで、覆してしまったんだ。
寂れた雑居ビル。
その一室。
シンイチロウは古めかしいパイプベッドの上に横たわっていた。
あの路地でエルメスたちに連れていかれてから、ほんの数日。たったそれだけの時間で、人はこれほどまでに変わり果てることができるのかってくらい、シンイチロウは痩せ細っていた。
身体のあちこちに、まだ真新しく生々しい、赤黒い縫い傷がある。それが、弱々しい呼吸で僅かに上下して、その度に、ひくひくと小さく震える。震えると傷の周りの赤黒い染みが濃さを増して、そこから染み出るねっとりとして濁った血が、どろりとシンイチロウの肌の上を流れ落ち、シーツに染みていく。多分それは、幾度となく繰り返されていたんだろう。シンイチロウの身体を象るように、濁った赤い染みのラインがシーツに描かれていた。
シンイチロウのおぼろげなまなざし。
白目と黒目の境目がどろりと溶けたように曖昧なラインを引き、その焦点はぼやけ、弱々しい照明が照らす天井に向けられたまま、動かない。
何も捉えようとしていないそのまなざしに、アタシはなんだか、何故か、胸が締め付けられた。
この瞬間までホントにちっぽけだったアタシの中のシンイチロウの存在が、途端に爆発するみたいに膨らんでいった。
「ねえエルメス、これ、エルメスたちがやったの?」
シンイチロウにまなざしを向けたままエルメスに問いかけたアタシの声は、弱々しく震えた。なんだか震えちゃうのが妙に悔しくて、必死にその震えを抑えようとしたけど、無駄だった。抑えられない。見ていられないほどのシンイチロウの痛々しい姿に、目の裏側が熱くなる。アタシの中のどこに、シンイチロウに対するそんな想いがあったのか不思議なくらい、感情が零れ落ちる。
―――感情。
その正体は、一体なに?
怒り?
悲しみ?
憐れみ?
わかんない。
辛うじてわかるのは、超絶ネガティブな激情だってことだけ。
それがアタシの胸の中のずっとずっと奥の方で、まるでマグマがふつふつと煮え立つみたいに熱を増していって、どんどんどんどん、アタシの中から溢れ出ていく。
「俺らはただ少し、戒めるだけのつもりだった」
目に見えない膜の向こう側でしゃべってるみたいに、エルメスの声はくぐもってアタシの耳に届いた。
「戒める? ここまでやるのが? なにそれ。意味わかんないんだけど」
声の震えは止まらない。いつの間にか頬が濡れている。
「ここまでやったのは俺たちじゃない」
「じゃあ誰?」
語尾に被せるように言って、アタシはエルメスに向かって勢いよく振り向いた。
エルメスはアタシのその仕草に少し躊躇って、タバコを取り出して咥えると、ジッポでその先端に火を灯し、自分で自分を落ち着かせるように深くゆっくり吸い込んでから、部屋の暗がりに向けて煙を吐いた。
シンイチロウから立ち昇る生臭い匂いが、僅かなオイルの香りで一瞬遠のき、またすぐに戻ってくる。まるで海辺の波みたい。そんなどうでもいいことを思う。エルメスの咥えるタバコの先端が、火を着けた瞬間に赤く強く瞬き、部屋の暗がりの中に絵の具を垂らしたみたいに、いつまでも残像を残す。
「やったのは一翁会、ヤクザだ」
絞り出すような、エルメスの声。
見苦しい言い逃れ。そうとしか聞こえない。アタシの中のマグマは、更に煮えたぎる。
「でも、シンイチロウをさらったのはマーキュリーじゃん」
声が裏返る。甲高く、狭くて薄暗い部屋の中にこだます。
エルメスはもう一度、タバコを吸い込む。消えかかっていた赤い残像が、再び息を吹き返すように強く瞬く。
「シンイチロウは、管理売春みたいなことを仕切ってた。こいつに何人か、取り巻きがいたのは知ってたろ?」
シオリたちだ。シオリたちの顔が、脳裏に過る。
エルメスは続ける。
「俺たちはそんなのがあの広場で横行して、秩序が乱れるのを避けたかっただけだ。だからシンイチロウを連れ出して、あいつをちょっとシめるだけのつもりだったんだ。でも、
「金を作る?」
思わず聞き返した。嫌な予感がした。エルメスの語るその真意に、ホントのところは多分、気づいてた。気づいていてなお、それを信じたくなくて、否定してほしくて、半ば無意識にそう聞き返した。でも、無駄だった。
「内蔵を抜かれてる。たぶん、もう長く生きてけないくらいに、あちこち、いろいろと」
赤黒い縫い傷の正体が明かされる。
やっぱりね。
そんなことだろうと思った。
思ってた。
けど、その現実は予想通りだったくせにアタシを打ちのめす。
鈍器で後頭部を叩かれたみたいな感じ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
アタシの頭の中の想いが、アタシの意志なんて蔑ろにして、声になって口から漏れる。漏れだしてしまう。
耳を塞いだ。
目を瞑った。
受け入れたくない真実から必死に逃げようとした。
でもムリ。
そんなの、わかってるじゃんか。
目の前にいるシンイチロウが、死にかけたシンイチロウが、目を瞑ったからって消えることなんてない。前みたいに、アタシを抱いたあの時みたいに、獣じみてて、自分だけで気持ちよがって、ひとりよがりに犬みたいに腰を振ることなんてない。もう、ない。
そう思うと、更にいっそう、あたしの目から波だが溢れる。
何が悲しい?
わかんない。
ただ、訳もなく、涙が止まらない。
その時、アタシを何かが包んだ。
エルメスの腕。
アタシは、抱き締められた。
「大丈夫だ。大丈夫」耳元でエルメスが囁く。「お前は、お前たちは、俺らがちゃんと守ってやる」
嘘だ。そんなの嘘。だって、シンイチロウを守れなかったじゃないか。
抱き締められながら、アタシはエルメスの胸を叩く。
エルメスはそんなアタシを宥めるように、でも力強く、アタシを抱き締め直す。そして言った。
「シンイチロウを追い込んだのは、タクヤとモエだ」
アタシは顔を上げた。
モエ。
もうずいぶん、何日も会っていない。
ラインを飛ばせば、会いたいって打ってラインを飛ばせば、きっとすぐにモエはあたしの前に姿を表してくれる。でも、そんな簡単なことができない。そんな連絡手段なんてこれっぽっちも必要なくて、当たり前のようにこの界隈で毎日会っていたこれまでの現実を否定するみたいで、だめ。できない。できていない。
でも、てゆーか、どういう意味?
タクヤのせい? モエのせい? 何が?
意味わかんない。
「わかるだろ? シンイチロウみたいに、タクヤにも取り巻きがいた。シンイチロウも含めて、管理売春を仕切ってたのはタクヤだ。で、タクヤから距離を置いてるように見せて、その取り巻きの不安定なメンタルをフォローしてたのがモエだ。それはアイコだって、心当たりがあるんじゃないか? タクヤに惚れてて、モエに支えられて、もう少しで同じようにターゲットにされかかってたアイコなら、わかるんじゃないのか?」
は? 何言ってんの?
そんなことあるわけない。
そんなこと、あるわけ、ないじゃんか。
エルメスの言葉を否定する、アタシの中のアタシに向けた言葉は、段々と、小さくなっていく。
辻褄。
あってる。
思い返してみれば、確かに、そう。
でもモエに限って。
アタシの大好きな、タクヤに限って。
アタシの中のアタシに向けた言葉は、力をなくしてった。
残ったのは感情だった。
それは世の中では憎悪と呼ばれる、陰鬱だけど激しい、感情、だったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます