13 The Past -Jing-

 ユイは、危うい。

 もうずっと、ガキの頃から思っていた。

 爛漫なのはいい。

 確かにそれは、生まれ育った環境の特異さの所為せいで毒された、俺やランの精神性を救ってくれた。

 人間として完全に壊れてしまわない為に、たった一握りでも、胸中に残しておかなければならないもの。俺たちのように中国に起源ルーツを持つ人間が、“徳”とか呼んで持て囃すそれの、ほんのひと欠片を、ユイの無垢な爛漫さのおかげで、俺たちは自分の中にかろうじて留め置くことができていた。

 そう。ユイの存在によって俺たちは救われた。それは事実だ。

 とは言え、なのだ。

 自分の中にある、軸のようなもの。信念とか信条なんて呼ばれる、アイデンティティの在処ありか

 大多数の人間は、それを捻じ曲げられ、歪められる事を嫌悪しながらも、複雑に絡み合った世の中の趨勢すうせいに強いられて、多かれ少なかれ甘んじ、妥協して、その歪みを受け入れる。それが普通だ。普遍だ。世の中とは得てして、だ。

 でもユイには、それを受け入れることができない。

 微塵も許容できない。

 この歌舞伎町の、大小様々な黒幇ヘイバンが入り乱れる混沌とした中国人コミュニティの中では特に、ユイのような生きざまは、致命的だ。

 だから、危うい。


 今日もまさに、それだ。

 歌舞伎町の外れ。

 細い路地を入った、顔見知りのウェイが経営するせせこましい中華料理店。

 ウェイの嫁から揉め事だと連絡が入って駆けつけると、ウェイの店の軒先でチンピラじみた三人の男たちと対峙していたのは、ユイだった。

 ウェイは半年前に蛇頭シゥトゥの手引きで、福建から家族四人で密入国してきた男で、その出身地からして、彼の巻き込まれた揉め事に、俺たち台湾系の黒幇ヘイバン五山幇ウーシァンバンが関与する謂れはない。福建の出自なら、この街では福建由来の刀影幇ダォエイバンに仕切られるべき身柄で、ユイが対峙している男たちがまさに、その刀影幇ダォエイバンの末端の連中だった。となれば、彼らの間で起きた事に俺たちが口出しする事は、俺たち中国人の黒社会ヘイシャーホェイにあっては、いわゆる禁忌だ。

 

 その黒社会ヘイシャーホェイの常識は、不幸なことにユイには通じない。

 「おいジン、いつから五山幇ウーシァンバンは他人の家の事情に茶々をいれるようになったんだ? こいつ、お前らの身内だろ? あ?」

 男たちの中のひとりが、ウェイと男たちとの間に立ちはだかるユイを指して、仰々しく派手に凄む。

 下っ端によくある虚勢だ。

 俺がこの歌舞伎町の黒社会ヘイシャーホェイの中で、どういう立ち位置にいるか判っていて、敢えて粋がってみせている。

 本当のところ、初めから本気で俺と揉める気なんて、こいつにはこれっぽっちも無いのだ。虚栄心と承認欲求から来る、ただのポーズ。その浅はかさと卑しさに、少し腹が立つ。が、そんな輩をいちいち相手にしていては、きりがない。

 俺はその言葉を無視して男たちを押し退けると、この場から連れ出そうとユイの腕を取ろうとした。が、ユイはそれを払った。

 「ウェイさんがこの店を開くためにこの人たちから借りたお金、返済は一年後からって約束なのにもう取り立てに来たんだよ? まだ半年だよ? ありえなくない?」

 鼻息を荒くして、ユイは対峙する男たちから視線を逸らさずに言った。それを見て口から漏れ出す溜め息を、俺はとめられない。

 「だとしても、俺らが口出しすることじゃないのは判ってるだろ? そいつの言う通り、バンの事は、そのバンの中で解決する。部外者がしゃしゃり出るもんじゃない」

 溜め息混じりの俺のその言葉に、ユイもまた、溜め息を被せる。

 「ジン、あんたさ、将来出す自分の店のためにって、ウェイさんに美味しい魚丸ユィーウァンの作り方、教えてもらったじゃん。恩があるでしょ? だったら今がそれを返すチャンスだって、わからないの? 馬鹿なの?」

 また始まった。

 無茶苦茶だ、こいつは。

 確かに俺は、旨い魚丸ユィーウァンを出す店が出来たという噂を聞いてこの店に来て、実際にウェイの出すそれの味に感銘を受けて、レシピを乞うた。が、そんな些末な事の為に、この歌舞伎町黒幇ヘイバンの二大勢力になる五山幇ウーシァンバン刀影幇ダォエイバンが、を構えるなんてのはあり得ない。お互いに大きくなりすぎて、歌舞伎町の黒社会ヘイシャーホェイの覇権を巡って僅かに牽制をしあいながらも、微妙なバランスの上で辛うじて平静を保っている今は、殊更に。

 この街のこの社会で生まれ、十八年間暮らし続けても、ユイにそれを察する嗅覚がないことが信じ難い。が、判ってる。残念ながらそれが、ユイの性分なのだ。

 なんとか軌道修正をしなきゃならない。そう思った時だ。刀影幇ダォエイバンの連中の背後に、この場に最もいて欲しくない男が、ぬっと顔を出した。

 自分の我を曲げられないヤツ。

 俺の周りには、そんな輩がユイの他にもうひとり、いる。

 今、刀影幇ダォエイバンの連中の背後にいるのが正に、その男だ。

 ラン

 ウェイの後ろで、店の扉に半身を隠すようにして覗いていたウェイの嫁に目を向けると、彼女はぴしゃりと店の扉を閉めた。それで察する。俺にだけじゃない。誰彼構わずアラートを撒き散らしたのだ、彼女は。こういう揉め事の時には、ややこしくなるから絶対にランにだけは知らせるなと、釘を指しておいたのにも関わらず。

 彼女を責め立てたい気持ちはあるが、もう遅い。

 俺が制する猶予もなく、ランは男たちのうち、ひとりの延髄を背後からいきなり鷲掴むと、そのままその男の顔面を地面に叩きつけた。

 男は鈍く奇妙な呻き声をあげ、地に顔を突っ伏したまま、ぴくぴくと痙攣しだす。

 すかさず、ランは屈んだ体勢から素早く振り向き、その遠心力に身を任せつつ、右足を高く振り抜いた。

 爪先が、もうひとりの男の頬を貫く。

 男の顎は歪にひしゃげ、そのまま、崩れ落ちるように倒れた。

 足元に横たわった男ふたりを跨ぎ越え、ランは、一瞬のうちにして起きた目の前の事態が理解できず、立ちすくんでいた最後のひとりの目の前に立ちはだかった。

 「郭沐グゥォムーに言っとけ。この店イビってくれんなってよ」

 郭沐グゥォムー

 ラン刀影幇ダォエイバン老板ボスの名を口にする。

 「お前、こんなことして老板ラオパンが黙って見過ごすと思うのか?」

 ランの気迫に気圧されながらも男はそう脅しを掛けるが、ランは微塵も意に介さず、逆に唇の片端を吊り上げ、目の中に尖った光を携えて、歪に笑んで見せた。

 「黙ってなくて、どうすんだ?」

 額と鼻先が触れんばかりの距離まで顔を近づけて、ランは男を問い詰める。男は口をわななかせながらも、ようやく絞り出すような声で言った。

 「刀影幇おれたちはよく知ってるだろ? 殺されるんだよ、お前は。少なくとも腕の一本は斬り落とされる」

 震えながらも、男も歪な笑みを返す。それを受けてランは、男の胸ぐらを掴み上げた。

 「上等だ。やってみろ」

 ランが男に向けて右腕を振りかざす。

 が、振りきられる前に、その腕が引き止められた。

 ユイだった。

 ランの図太い腕にしがみつくように、ユイランを止めた。

 「何でも暴力で片付けようとすんなって、いつも言ってんでしょ、馬鹿!」

 言いながらユイランの腕を振り払うと、ランの顔面を、真っ正面から平手でぴしゃりと叩いた。そしてすぐに屈み込むと、倒れていた男の半身を抱え上げた。

 「ウェイさん、この人たち、店の中で手当てしてあげて」

 急に名指しされたウェイは、すぐに反応できずに一瞬ぽかんと立ち尽くしていたが、慌ててユイの元に駆け寄ると、倒れていたもうひとりを担ぎあげて、店に運び込んだ。

 「あんたも手伝って!」

 ユイランと向かい合っていた男に言うと、男もあわあわと、ユイに半身を抱えられたもうひとりを担ぎ上げ、ウェイの店に入っていった。

 突然のユイの行動に、ランは状況を理解できずにいたのか、叩かれた顔を押さえながら、呆然とその成り行きをただ見ている事しかできていなかった。

 その呆けたままのランの脛を、ユイが蹴る。

 「そうやってすぐに暴力に訴えるから、色々歪んじゃうんだ」

 頬を膨らませたユイのその言葉で、ようやくランは我に返る。

 「ヒトのこと、ひっぱたいたり蹴り飛ばしたりしながら言われても、説得力ないっつーの」

 ふて腐れた感じでそう返すランの目からは、さっきまでの刺々しい光が消えていた。すぐに歯止めが効かなくなるランも、ユイに面と向かわれると、いつもこうなる。

 「あたしのは暴力じゃなくて愛の鞭」

 言ってユイは、にかりと笑う。

 これを向けられると、ランも俺も、何も太刀打ちできなくなる。

 すべてを帳消しにしてしまう、無垢な笑み。

 「ジン!」急に呼ばれて、俺はびくりとする。「老沐ラオムーを詰めに行くから、着いてきて」

 この街のライバルでもある黒幇ヘイバン老板ボスの名を、ユイは友人かのように、親しげに呼ぶ。しかもその相手を詰める、という。

 「詰めるって、こっちから仕掛けたんだぞ?」

 言い返すと、馬鹿、という罵りと一緒に、後頭部を平手で叩かれた。

 「ウェイさんとの約束を先に破ったのはあっちだよ。だからちゃんと約束を守るように念を押しとかないと」

 そう言ってユイは、歌舞伎町の雑踏の先を見据えた。

 「お前は一体、どっちの味方なんだよ」

 皮肉染みた口調で言うと、ユイはこちらに一瞥もくれず、まっすぐに雑踏の先を見据えたまま、返した。

 「どっちもの味方。あたしはこの街に住む中国人全員に、幸せになって欲しいの」

 ユイのまなざしが、瞬く。

 それだ。

 まさにそのまなざしだ。

 それこそがユイの危うさの、象徴だ。

 でも俺は、ユイのその凛としたまなざしに、逆らう術を持ち合わせていない。

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