未婚の貴族or高名の依頼人 27
どうして、あんなに嫌がっているんだろう? ワトスン博士は二階の窓からマリアと下の通りの、ちょっとした騒ぎを見下ろしていた。
「だーかーら、もう、コレ、この傷はもういいって言って――きゃぁっ!!」
最後の悲鳴は、ポーキーがキティを担ぎ上げ、驚いて固まっているハドスン夫人を無視したまま、このベーカー街221Bの扉をくぐり、ワトスン博士たちがいる二階に駆けあがってきたからである。
「どうしてそこまで嫌がるのかね?」
診察だからと、ポーキーを追い出したあと、ワトスン博士は、不思議そうに彼女に聞く。
どう考えても治りそうにないこの傷跡が、消える可能性があると聞けば、普通のご婦人、否、どんな女性だって、大喜びで駆けつけそうなものなのに。
キティは、ワトスン博士を前に、所在無げに長椅子に腰かけていたが、マリアが「大丈夫ですよ」そんな風に優しくほほみながら、片手を握って背中を撫ぜてくれたので、やがて落ち着きを取り戻し、ぽつぽつと理由を口にしだす。
「いえ、先生を信用していないとか、疑っているとか、そんなこっちゃないんですよ……あのバカ、えっと、正確に言えば、バカもいれた、なじみの集団なんですけどね、せっかく手に入れた大金を、わたしの治療費に全部充てるつもりなんですよ!」
それだけの金があれば、どれだけお腹を空かせた貧民街の子供たちが助かるか……。
うつむいた彼女は、聞こえるか聞こえないか、そんな小声で、そう付け加えた。
それを聞いたワトスン博士は、まぶたを閉じて感動していたし、マリアにいたっては、すでに両手を口元にあてて涙ぐんでいた。それでも冷静に頭の中で考えることは考えてみる。
『えっと、この時代の医療費がバカ高いのは、そのポーキーさんが工面したお金を使うとして、余計なお世話だけど、この時代にキティさんの傷を、なんとかできる技術なんてあったっけ?』
手を口元にあてながら、首を傾げていたマリアは、はっと思いついたことがあり、めずらしく静かに窓の外を眺めていたホームズのそばに歩いてゆくと、耳元でこっそりとささやく。
「……偉大なホームズ先生に、ちょっと質問があるんですけど」
「なにかね? まあ、君が考えていることは、だいたい当たらずとも遠からず……そんなところだと思うがね」
「…………」
『やっぱり!!』
そう言ったホームズは、キティの方に向かい、その細い肩に手をかける。
「いいかい、これは、ポーキーにも言っちゃならん。もちろん他の人間にも、誰ひとりとして」
「え……?」
「そうすれば、君の傷は治るだろうし、時間はかかるが、ポーキーが用意した金は、その日逃れのパンに消えるのではなく、今後君たちが平和で幸せに生きてゆく手段のひとつにできるだろう。だからこれから、彼らのところに戻るまでに起こることは、決して口にしない。それを約束できるかい? 自信がなければ断ればいい。みなのパンを買おうといえば、あの男もしぶしぶ納得するさ」
「……平和で幸せに生きてゆく手段……」
それから数時間後、ポーキーは、キティは治療のために一年ほど、マリア嬢の父上が所有する船に乗って、東洋で傷を治療してもらうことになったと、彼女から話を聞き、港まで見送りに行くという彼らに「美術品運搬用の船に内緒で乗せてもらうのだから、いつ旅立つ言えないけれど、私がいなくなったら、ホームズ先生あてに手紙を書いて欲しい。返事は出せるから」キティはそう言い残し、数週間後、言った通りにロンドンから姿を消していた。
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