未婚の貴族or高名の依頼人 26

 ホームズがマリアと共に、大英博物館に向かっている頃、レストレード警部はワトスン博士に、スコットランドヤードに担ぎ込まれ、治療を受けるとなんとか落ち着いていた。


「大丈夫かね?」

「大丈夫もなにも、そもそも、誰のせいだと思っているんだ?!」


 覗きこんで、心配そうに声を掛けたのは、例ので、シードケーキを作り、レストレードが、こんなことになる原因を作った、アセルニー・ジョーンズ警部であった。すぐ横には似ていない双子で、実に申し訳なさそうな表情の、ピーター・ジョーンズ警部。


「申し訳ないと思うなら、いますぐにエジプシャン・ホールへ行ってくれたまえ! あと、念のために大英博物館も!!」

「「???」」


 ふたりの警部は、なにがなんだか分からなかったが、つき添っていたワトスン博士が説明するところによると、これはいつもの重大な事件が隠されている『ホームズ案件』に違いないと、それぞれ何人もの警官を従え、二手に分かれ、ヤードを出発して行った。


「先生も気になさらず、行ってくださって結構ですよ。私もあとを追って行きますから……いてて……」

「……そんな体調で動いてはいかんよ君……」



〈 大英博物館特別展 〉


 ホームズがようやく到着したころ、優雅なはずの“極東陶磁器愛好クラブ”主催展覧会場は、絶対零度の空気に包まれていた。

 発生源はもちろん例のヴァイオレット嬢と、マリアに化けたテレーゼ……ではなく、サルタイヤ卿とグルーナー男爵であった。


 いつものごとく、テレーゼ相手に、自分の魅力を雄のクジャクが羽を広げるように見せつけながら、口説き落とそうとする彼に、サルタイヤ卿が「それが婚約者のいるレディに対する紳士の態度か!」そう、場所も空気も読まずに一喝してしまったのである。


 そして男爵を信じ切っているヴァイオレットは「あなたこそ無礼ですわ! 私の婚約者は……」そう言い返そうとしたところ、さすがに相手が次期ホールダネス公爵だと気がつき、唇をかみしめてから、どう言い返したものかと言葉を選んでいると、遠くから騒々しい足音が聞こえ、みなは召使が開ける前に、開いた扉を驚いた表情で見つめ、レジナルド・マスグレーヴは、やれやれといった表情で、扉の向こうから現れた幼馴染の姿を見ていた。


「やあやあ、わが友、レジナルド・マスグレーヴ! お待たせした!」

「……まったくだよ。君と出会ったのは、私が前世でなにをしでかしたというのだろうと、いつも自問自答してしまうがね……」


「どういうことですの?! また、あなたは私の婚約者を侮辱なさりにきたの?! こんな大勢の前で恥をかかせようと……きゃっ!」


 ホームズの姿を見て、またもや自分の婚約者を侮辱するつもりだと、かみついてくる彼女に、彼はマリアから手渡された、例のカギを外した『茶色い革の表紙の手帳』を放り投げる。


「それを見て、まだ、お父上の気持ちや周囲の忠告が聞けんのであれば、ここですぐに“マーベル将軍の娘”という特権を捨て、身ひとつでその男に嫁ぎたまえ! まあ、なにひとつ持たぬ君を、男爵が受け入れるかどうか見ものだがね! はっ!」

「な、なんですって!! 私は個人的な礼儀から、この手帳を見なかっただけですわ! でもそこまでおっしゃるなら見ますとも! わたくしの愛は本物……ほんも……え……」


 そう、その、鍵のついた小さな茶色い革張りの、金の紋章の入ったノートは、周知のとおり、グルーナー男爵が、自分が地獄に送り込んだ女を記録したノートであり、最後のページには、彼女の写真がしっかりと張りつけてあったのである。


「……そんな…………」


 その場に思わず座り込んで、手帳を握り締める彼女を、貴族たちが取り囲む中、グルーナー男爵は、その場を離れようと、じりじりと通路に続く扉に近づき、ホームズが彼女に説教をしている隙に、博物館を抜け出すべく脱兎のごとく走り出していた。


「おい、ホームズ! あの男が逃げたしたぞ!」

「……往生際の悪い男のことだから、そんなところだろうとは思ったよ」


「追いかけなくてよいのですか?! あんな非道な男を!!」


 そうホームズに声をかけたマスグレーヴと、彼を非難するサルタイヤ卿に、ホールダネス公爵は少しの間、なにか考えている風であったが、重々しく口を開いた。


「……気にするな。外にはスコットランドヤードが配置されているのだろう。この場に踏み込まれて、我々を煩わせたくない。そういう彼の配慮だ。違うかね?」

「……これは……恐れ入ります」


 しかしながら、そう言いながらも、その言葉を聞いて安心している他の貴族や、サルタイヤ卿を別に、公爵やマスグレーヴには分かっていた。あの男の行き着く先には、スコットランドヤードよりも、なにかが待ち受けているであろうことを。


 ホームズは、逮捕の代わりにあの男に、正義の鉄槌を降すなにかも用意していたと、付き合いの長い彼らには理解できたから。

 

 そのころ大英博物館を飛び出したグルーナー男爵は、待たせていた馬車に飛び乗ると、邸宅に帰るように指示をしながら、とりあえず有り金を持って、イギリスから出国する算段を立てていた。エジプシャン・ホールに隠してあるニセ金貨と美術品も気になるが、支配人にたっぷり謝礼も弾んである。ほとぼりが冷めた頃に取りにゆけばいい。


 相場で儲けた金は幸いまだたっぷりとある。イギリスを出たら、しばらくの間、スイスの別荘にこもるのもよかろう……。


 彼はそんなことを考え、他にもこと細かに指示をするべきことを手帳に書き留め、ようやく落ち着き、外をふと眺めて驚く。


「おい! 一体全体どこに向かっているんだ?! なにを考えている、はやく引き戻せ!!」


 そう、自分の邸宅に向けて出発したはずの馬車は、とっくに大通りを外れ、いつしか、まともな人間なら、決して近付かないであろう夜の闇が支配する『浮浪者の王国』そう呼ばれる貧民街の中でも、とくに治安の悪い地区のど真ん中まで突っ走っていたのである。


 いつの間にか止まった馬車から、窓から外をじっくり見ると、待ちかねたように、この町に巣くう住人たちが、馬車に向けてじりじりと迫って来るのが分かる。


 馬車から降りて、わざとらしい程に丁寧に扉を開けた見知らぬ男は、読者の知っているあの男、自分たちのお姫さまを、地獄に叩き込んだ男に復讐を誓った『シンウェル・ジョンソン/ポーキー』であった。


 男爵が御者台を見上げると、もうこと切れた自分の執事が、首をだらりと垂れ下げたまま、御者台にくくりつけられている。男爵は大慌てで逃げようとするが、もちろん逃げ場などなかった。


「ようこそ男爵さま“浮浪者の王様”が支配する世界へ……」


 彼をぐるりと取り囲んでいるのは、あの日、キティが死にかけた日に、彼女を必死で助けた、グルーナー男爵を、どこまでも憎んでいる復讐心に満ちたポーキーの仲間たちであった。


 男爵は、地下犯罪社会の中でも、特に気の荒い連中に引きずられるように、どこかの建物に連れていかれると、鉄格子のはまった地下牢のような汚い部屋に放り込まれる。部屋の中には、寝床がわりの藁束わらたばと、なぜかバスタブがひとつ。


 とりあえず喉がカラカラになっていた彼は、ワインをいっぱいもらえないかと、見張りの男に、下手に聞いて様子を探ってみると、意に反して男は愛想よくワインをグラスに入れて持ってきてくれた。鉄格子の間から男爵が受け取ろうとすると、ワインの入ったグラスは、なぜか遠ざかる。


「すまないねえ旦那、ここじゃ、なにを手に入れるにも金がかかるんだ」

「……いくらだ? なんだと?!」


 そう言った彼が提示したのは、安く薄いワインの一杯が十ポンドというとんでもない値段であった。(※メイドの給金が一か月でだいたい一ポンドである。)


 この調子で、パンのひと切れ、ベーコンのひとかけらにも、そんな風な調子であったので、初めは男爵も我慢していたが、人間の我慢には限度がある。彼は持ち歩いていた小切手の大半を数週間で使い果たしてしまい、一か月後には有り金のすべてを、薄めたワインや、カビの生えたパンに変えてしまっていた。


「ポーキー、あの旦那、もう金を持っていやしないぜ? これからどうするよ?」

「なんだ、意外にもたなかったなぁ……」

「ヤードのがさ入れがなけりゃ、もう少し稼げたかもしれん。残念!」

「そう言うなよ。ニセ金貨なんてつかまされた日には、俺らの手がうしろに回る」

「ちげえねぇ!!」

「兄貴、セント・バーソロミュー病院から例のブツ、ばくち好きの医者から手に入れてきやしたぜ!」

「ちょうどいい! お前早かったじゃないか!」

「キティ姉さんのためだとなりゃ、みんな頑張るってもんさね!!」

「ちげえねぇ!!」


 鉄格子の中で弱り切ったグルーナー男爵は、薄れる意識の中で、男たちの笑い声を聞いていた。次に彼の目が覚めたのは、なぜか置いてあったバスタブの中。


「……ここは?」


 乾いた唇で、グルーナー男爵は、いや、男爵と名乗っていた汚らしい男は、まるで湯につかっているような姿勢で、バスタブに放り込まれていた。鉄格子の向こうには、見たことのある、いや、確かに自分が痛めつけて遊んだ、キティという名の女。自分をここに連れて来た男に抱えられて、冷たい目でじっとこちらを見ている。


 彼がこの世で最後に認識できたのは、彼女の冷たい視線だけだった……。



〈 ベーカー街221B 〉


「それで、それからグルーナー男爵は、どうなったんだい?」

「公式にはスコットランドヤードにつかまって、即日絞首刑になった……と発表されている。なにせ、あれだけの証拠が出そろっていたからねぇ」

「知りたいのは事実だよホームズ!」


 ワトスン博士が眉をしかめながらも、話の続きを聞きたそうにしながら、手帳を持っていると、ホームズは無常にもその手帳を暖炉に放り込んで、マッチの火を投げ込んでから、振り向いて答えた。


「セント・バーソロミュー病院で保管されていた大量の硫酸が、密かに紛失した。僕が依頼を請け負ったが、決して世間に出ることはないと保証することで、院長は安心して暮らしているよ」

「……一体どのくらいの量が行方不明に? とんでもない職務怠慢だろう?! しかし、それが、この話とどうつながるんだ?」

「ちょうどバスタブ一杯分……どこに消えたのかは、浮浪者の王様のみぞ知るといったところだ。これでわかったかね?」

「……意味がわからんぞ?」

「いいんだよ。復讐の女神が正義の鉄槌を下した。そういうことだ」

「……ますます分からん!」


 ワトスン博士は不満そうにしていたが、そういえば今日はキティが診察に来る日だったことを思い出し、準備にとりかかることにした。普通なら治りそうもない彼女の傷跡であったが、ホームズがふと、治る方法があるかもしれないと言い出し、尻込みをする彼女に、ポーキーを始めとした、幼馴染たちが、なんとかかんとか、彼女を引っ張ってくると約束した日が今日であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る