未婚の貴族or高名の依頼人 16

 マイクロフトが、実に興味深げに本に目をやりながらテレーゼに問う。本に載っている、見たことのない鮮やかな写真には、ふたつでひとつの絵が完成するという花瓶かびん、グルーナー男爵が、密かに欲して止まない“桃源郷の枝”そう書かれた花瓶が、ふたつ並べて掲載されていた。


「ではこの花瓶は、絶対に“清”では作られてはおらんのだね? 片方だけでは未完成な芸術品だと?」

「絶対に作れませんし、完成しません。……それに、秘密を守り過ぎて、その本に載っている、ふたつで一対いっついの陶器が、最初で最後ですから、すでに技術は途絶えています」


『この時代ではね……』


 数年前に、現代で蘇った技法の話を、テレーゼは、ややこしいので黙っておいてから、自信たっぷりに、うんちくをつけ加えながら答え、横でマスグレーヴは感心して聞き入っていた。


一対いっつい……しかし、あの男は確か贋作ではあるが、ひとつしかないと自慢していると聞いたが?」


 マスグレーヴの疑問に、ホームズがいつものように、薄い笑みの形に唇を、一瞬引き上げてから口を開き、容赦なく親友をくさした。


「……『がく』がないというのは悲しいねぇ……あの男の負け惜しみだよ。いや、この場合は、レディ・テレーゼの博識を……たたえるべきかな?」


『自分で無理やり覚えさせといて! あとで覚えてらっしゃい!!』


 根に持つタイプのテレーゼは、一晩中、姉のためだと覚えさせられた知識を、褒められながらそう思い、再び口を開く。


「こんなの『がく』でもなんでもないですわ。それよりわたくし、まだ朝食……」


「明後日の夜に食べたまえ」

「~~~~~!!」


 スクランブルエッグなんかが乗った皿を、ひょいと取り上げられたテレーゼは、思わず手にしていたナイフとフォークを、ホームズの手に突き立ててやろうかと思ったが、その前にマスグレーヴがホームズに向かって、塩と胡椒の入ったクリスタルの小瓶を勢いよく投げたので、なんとか思いとどまる。


 マリアは、そんなとんでもないことをしておきながら、何事もなかったように、無表情のまま、ナプキンにこぼれたパンの粉を上品にはたくマスグレーヴと、小瓶を素早く姿勢を変えて回避したために、塩と胡椒を美しい壁紙にぶちまけてしまっても、気にせずに説明を続けようとするホームズに、やっぱり同類だ、やっぱり幼馴染だと、変なところに感心していた。(ここまで、マスグレーヴが変人だとは、当然、知らなかったのである。)


 そう、グルーナー男爵がそれなりに気に入っていると言いながら、めったにないものだと自慢して、未だ密かに片割れを探し回っている陶磁器は、白磁でもなく、青磁でもない『桃色を白磁に混ぜて焼いたような色彩、そして図柄は、見事な桃がなった枝が、本体から浮き上がっている、つるりとした花瓶かびん、“桃源郷の枝”』で、枝のつながりからして、男爵の花瓶と比べれば比べるほど、まぎれもなく一対いっついの作品であった。


 そして、例の東インド会社の情報によれば、男爵はひそかに、もうひとつを手に入れようと、無駄骨を折り続けていたそうな。


 これからホームズが仕掛けようとしている罠は、彼のよくやる、それらの情報を踏まえ、彼自身の推理を利用した芝居じみた『からくり仕掛けの舞台』だった。


 偶然ながら、何度も出入りしているうちに、マリアのいる世界、つまりサロンの内部を把握していたホームズは、一週間もしないうちに、サロンに人気ひとけのない時間を把握し、勝手に出入りしては、置いてある品や書籍を、気づかれないように見物したり、『英仏屋詳細』そう書いたノートに、部屋の間取りやら興味深い本の内容は、書き写したりしていたので、この花瓶の存在も、そして自分のいる世界と、時代すら違うことを、とっくに把握していた上に、この事件に引っかかるところがあったのである。


(書籍は日本語と英語の半々であったが、彼は、いつか機嫌のよさそうなときに、マリアに日本語を習えば解決すると、それを実に丹念に書き写していた。)


 そんな訳で、幸いなことに、ベーカー街の扉の向こうの世界で手に入れた本は、ヴィクトリア時代には存在しない、とてつもない印刷技術で、まるで本物を写したように写真が印刷されてあったので、テレーゼと会話をしていた、同じく日本語の分からないマイクロフトや、マスグレーヴにも、それが本当の話だと容易に確認できたし、ホームズの仮説も易々と組立っていた。


「これ、本だけでもあとで、もらってもかまわないかね? もちろん謝礼は……」

「だめです。我が家の家宝ですので!」

「だろうね……」


 いまのは、マスグレーヴとテレーゼの会話である。

 家宝はウソだが、ママのお宝本ではあるので、絶対に傷ひとつ付けずに持って帰らねばならない。(これが1ページでも傷んだ状態で見つかれば、それは菩薩のような母が、夜叉か般若になるときである。)


 テレーゼは寒気がして、思わず体を震わせた。

 

 そんなテレーゼの思いをよそに、ホームズはといえば、執事の息子に持ってこさせた、彼女と一緒に、英仏屋から持ち出した、荷物のひとつを受け取ると、慎重にリネンで包んだ“なにか”を取りだす。


「花瓶、“桃源郷の枝”は、……ほらっ! ここにある! これは、レディ・マリアのお父上が、あちらのかなり高貴な身分の方に賜った品で、マスグレーヴ、君が来たときに盗難にあい、行方不明になっていた。この花瓶が見つかったおかげで、あの男が例のニセ金貨をオランダの職人に頼んで元手を作り、それで投資を成功させたこともわかったし、今回もこの花瓶のために、またニセ金貨を用意するに違いないんだよ!」


 ホームズは、自分の言った言葉が、真実に変わる確信しかなかった。そして、これから言う言葉にも確信しかなかった。


「真実を知るあの男が、一対いっついの片割れで、我慢できると思うか? しかも、一瞬だけ暗がりから浮かび上がり、手に入るかもしれない唯一のチャンスを知って、あきらめると思うかい? しかも……自分のコレクションは、本当に贋作かもしれないのに?」

「キツネ狩りのつもりか?」


 マスグレーヴは、少し皮肉気な顔で、ホームズにそう言いながら、グルーナー男爵の顔を思い出していた。キツネのように撃ち殺せれば少しは気分もいいだろうに……。


「ふむ、たしかにあの男が自慢していた物と同じに見える。囮には充分だろう。しかし、金貨偽造の罪で捕まった者は、オランダでひとりを除き、すべて重い懲役刑について、イギリスへの移送は困難だが……」


 外交上の手続きを考えたマイクロフトは、間に合いそうにないと顔をしかめ、勝手に持ち出された、ママの大切な花瓶を見て、叫びそうになっていたマリアは、そんなホームズの強引なやり口に、あきれながら思う。


『ウチの花瓶! 本当に花瓶を、盗品売買の闇オークションなんかにかけるつもりじゃないでしょうね?!』


 などと考えつつ、花瓶に恐る々々、手を伸ばして、抱きしめていた。


「兄さん、この機会に最後のひとりか、決定的な証拠と一緒に男爵を捕まえよう! そのひとりかひとつがあれば、ニセ金貨の証明は十分だろう?」

「まあな……」


 そう、グルーナー男爵は、骨董品のやり取りと、相場でのやり取りに、うまくまぎれこませてニセ金貨を種銭たねせんに使い、年収三万ポンド以上、いわゆる上流階級の貴族に見劣りのしない程度に体裁を整え、そこからは、趣味の骨董品と女を、そして財産を心置きなく収集していたのである。


 そして、ホームズは、今回『一対いっついの花瓶“桃源郷の枝”』を、彼の悪事をつかむ証拠のための囮にしようとしていた。(ニセモノだが)


 つまらない悪事どころか、うまく転べばあの殺人鬼を文字通り『吊るし首』にできるチャンスを逃す手はなかった。


「と、言うことで、マスグレーヴ、男爵のやかたを家探しに行きたい。男爵を……いや、露骨だな、ヴァイオレットと父親を呼んでも、不自然ではない、なにか適当な夜会を開いてくれ! ごくごく内々の! ああほら君、彼女の父親も所属している“極東陶磁器愛好クラブ”の会長だろう?」

「…………」


『変なクラブは、あちこちにあるんだ……ディオゲネスクラブ、ガチョウクラブ、極東陶磁器愛好クラブ……』


 マリアはこの時代の紅茶の茶葉の、いまの季節の種類などを考えるのをやめて、クラブって、ようは同好会なんだろうか? なんて、まとを得たような、外したようなことを考えていたが、マスグレーヴは、思いっきりいやそうな顔をしていた。


 まるで、ホームズを見つけたテレーゼである。そして、マイクロフトは、マリアのうしろで首を傾げていた。


『花瓶が三個に増えているが……本当の本物はどれだ?』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る