未婚の貴族or高名の依頼人 14

〈 レストレード警部が倒れたその日の夜、一人蚊帳の外だった天才テレーゼ嬢のこと 〉


 いきなりの仕事に加え、いままで使われることのなかった、もっぱら女主人が読書や手芸をするための専用の居間パーラーを、次期女主人のマリアが、ここに来た以上、いつ何時でも使えるようにと家政婦長ハウスキーパーの指示を受け、メイドたちが不眠不休で家具の覆いをはずし、万端抜かりなく手入れをしている頃の話である。


 テレーゼは、かわいい猫足のバスタブから出て、メイドに髪をていねいにブラッシングしてもらい、とりあえず持ってきた、ママがプレゼントでくれた、趣味ど真ん中の、メイドが感心した目で見ている、フリフリのナイトドレスで、天蓋つきのベッドの端に腰をかけ、まるで枕をホームズの首だとでもいうように、思いっきり締め上げながら、どんな復讐をしてやろうかと考え込んでいた。


『あの後生大事にしてる、アイリーン・アドラーの写真を燃やしてやろうかしら? それがいいかもしれない……場所の見当はついているもんね……ふふふ……』


 すると、なんにも知らないハドソン夫人は、「かわいそうに……いろいろとあって、寝つけないのね、ホットミルクを……」なんて言ってくれたので、さすがにこんな夜中まで申し訳なく思ったテレーゼは、「大丈夫だから、もう寝てください」そう言い、夫人が部屋を出ようとすると、部屋の扉が控えめにノックされて、メイドが対応に出ると、そこにはやはり、メイドに付き添われたマリアがいて、姉は夫人と入れ替わりで、部屋に入って来た。


「テレーゼ、大変だったわね。でも、これから、まだ話があるのよ……」


 そう言って、姉はみなに部屋を出て行ってもらうと、なにやら日本語で書きなぐった数枚の紙を持って、ベッドの隣に腰かける。


「いや、もう、ひさびさに、こんなに手で字を書いたから、手が震えてる……昼間も書き物してたし……」

「姉さん大丈夫? もう、危なすぎるし、明日の朝になったら早く帰ろ? ね?」


 テレーゼは心配そうな顔で姉の手をさすりながら言ったが、マリアは首を振る。


「いい? 知っているとは思うけれど、いま、あのドラマで見ていた、“オーストリアの殺人鬼”に、もうキティさんの命が狙われているし……あの、ほら、かわいそうなモデルの! 私、ヴァイオレットは、正直言ってどうでもいいけど、その、キティさんを見捨てるなんてできないのよ。うん!」


 テレーゼは愕然として倒れそうになった。どうやら姉は、あの、えっらそうな、ヴァイオレットから、イケメン(とは、ドラマでは思えないんだけど)殺人鬼のターゲットが自分に変わったことには、まったく気づいていなかった。


「……あの――あのね……とっても言いにくいんだけど、狙いはもうヴァイオレットじゃないから」

「……え? じゃあ、誰か別の金持ち令嬢が? やっぱり本当の話はちがうんだ!」


 再びテレーゼは倒れそうになったが、ここで倒れるわけにはいかないと、なんとか枕を締めつける腕に、更に力を込めながら再び口を開く。


「姉さん……から……」

「え?」

「狙いはに代わっているから。ほら、こっちに来たとき、新聞に派手に載ってたの覚えてる? 大富豪の貴族令嬢、えっと姉さんが、マスグレーヴ卿の婚約者とかなんとか! 私ここに来る前に、ベーカー街の居間で見聞きして大体わかったんだけどね……あれ……」


『ヴァイオレットから、ターゲットを代えさせて、姉さんに、ロックオンさせるための、あの、ホームズの企みだから!』


「……!!!!」

「ねえさんしっかり!! いつものど根性を出して!! 倒れている場合じゃないのよ!! しっかりして!!」


 さすがの武道系女子、マリアちゃんも、自分が硫酸をぶっかけられるところを想像して、まるで締め技を完璧に決められたがごとく、気絶したのであった。




〈 次の日の朝 〉


 極力静かに居間パーラーを整え、女主人(暫定)が喜ぶような色とりどりの花を温室で係に頼んで持ち帰り、彼女の寝室や居間パーラーの花瓶に生け終わった頃、計画のおおまかな説明と、役割分担の説明がようやく終わり、またやって来た可愛らしいメイドが明けたカーテンの向こうの窓からは、綺麗な日が差していた。


 明るい表情のメイドとは正反対に、これからを悲観して、悲壮な表情をした姉妹は、日本語でホームズの悪口を言っていた。


「そうだった、そうよね、あの男は、たとえ親友だって事件のためなら、軽々と騙す男だった……知っていたのに!!」

「そうよ! 何回、ワトスン博士、ひどい目にあってんのよ!……無意識な推し活って恐怖よね……」


 マリアたちは、そんなことを言い合いながら、それでも帰るかどうかといえば、キティの存在がある以上、決まっていた。


「ここで犯罪者の悪党に、を割って、逃げる訳にはいかない!! それが“仁義”よ! 人の道なのよ!! 子供のホームズを助けておいて、かわいそうなキティを助けないなんて、筋が通らないでしょうが?! 殺人鬼とのこの勝負、わたしが受けてたったるわ!!」


 なんて、ぐっとこぶしを握ったマリアは、そうきっぱりと宣言し、そんな彼女のを、自分だけ知っているテレーゼは変なスイッチが……と、内心頭を抱えた。(これさえなきゃ、非の打ちどころのない姉なのだ。姉のマリアは、中学生の頃から、サブスクで、真夜中にこっそりと、古いを延々と観ている、そんな、女の子だったんである。)


 テレーゼがマリアを、ねえさんと呼び出したのもその頃で、それまでは、普通の関西の子供? らしく、“おねえちゃん”呼びだったのに、映画の影響で“ねえさん”って、呼んでみて! そんなアホなことを言い出した、マリアとの妥協案の産物である。


『うっわっ! 日本語で良かった。あかん! 恋人に振られて、コッチに来てから、また病気が復活してしもたやん。彼ができてからは三十六計逃げるに如かずとか言ってたのに。ああ、あれは、自分じゃなくて彼に逃げられ……いや、違うのかな? あ……』


「レディ? なにか不都合がございましたか?」

「……いえ、姉は少し疲れていて混乱したみたい。大丈夫だから」


 テレーゼは、不思議そうな顔で朝の支度の準備をしているメイドのマーガレットが、こちらを見ながら訪ねたので、自分の混乱と姉の不自然を隠すため、珍しく愛想笑いをし、その場を取り繕っていた。


「とりあえず、身支度をお願い!」

「はいっ!」


 ふたりはまず、シュミーズとドロワーズ、ペティコートを着せてもらい、バッスルをつけ、再びあのコルセットで締めあげられ、その上からドレスをきれいに着ていた。


 スカート部分が二枚重ねて形作られているドレスはおそろいで、淡いベルベットのブルーの生地に、綺麗なレースや刺繍があしらわれ、上に重ねられた、同じ色で少し光沢のある生地が、腰のうしろにボリューミーに、そして美しく、ひだを作って、たくし上げられている。形としては、ツーピースとワンピースがあるが、こちらは皇太子妃がお気に入りのワンピーススタイルだった。 


「かわいいけど、ウエストが苦しい……でも、まあ、今日は、まだ出かけないから、カッパの皿はいいんだ」


 マリアは、テレーゼの心配も気がつかずに、そんなことを言う。


 それでも、そんな彼女の姿は咲き始めたバラのようで、実に可憐だとメイドとテレーゼは思う。(もちろん、テレーゼは、自分もかわいくて可憐だと思っている。彼女の自己肯定感は、ダイヤよりも頑丈で、チョモランマのように高いのである。)


 しかしながら、実は、彼女の姉の中身は、ホームズに出会った頃の、少女な武士よりも、かなりハードに仕上がっていて、それを知っているのは彼女だけで、いつも迷惑ばっかりかけている妹と、優しくかばう姉、その構図は内情はこんな風に、ややいびつさを含み、テレーゼは、テレーゼなりに、苦労はしてきたのであった。


『偉大なるホームズ先生は、どこまで気づいているのやら……やれやれ……』


「ええっと、姉さま、一番いいドレス私に貸して! あと、えっと、マーガレット?」

「はい、レディ・テレーゼ! なんなりと、おっしゃってください!!」

「今日は姉の体調が悪いので、私が代わりにマスグレーヴ卿と一緒に、夜会に行くので、夕方にはできるだけ綺麗に支度を整えてちょうだい」


「まあ、お嬢さまが……ですか……?」

「マスグレーヴ卿と執事以外には秘密よ? わたしとお姉さまは双子みたいにそっくりでしょう? いきなり初めての夜会に欠席はと、姉が気を使って……ね?」

「まあ、それはそれは……」


 まだ、年若いマーガレットは、少し不思議に思っていたが、「小間使いレディーズメイドたるもの、普通のメイドとは格が違うのです。女主人のそばに常に仕え忠誠を誓い、何事も女主人のご意志を優先しなさい。もちろん、いままで通り、わたしに敬意は払うように。メイドには序列がありますからね」


 そう、家政婦長ハウスキーパーに、念押しされたところであったし、そんなこともあるものなんだと思い、たしかに、これだけそっくりな姉妹ならば、初対面の人には絶対に分からないと、ふたりに軽く請け合い、ひとりで忙しく、ふたりに同じ髪型と装いを整えてから、あわただしく、トランクから探してきた、夜会用のドレスの丈がほんの少し長いので、かかとの高いヒールがあるか、テレーゼの荷物を探してくると姿を消す。


 とりあえず朝の支度の整ったふたりは、朝食を取りに、左右でお辞儀をするメイドや使用人の間を通り、らせん階段を下りていた。


「お嬢さまがたがいらっしゃいました」


 執事見習いであり、本来はマスグレーヴ専属の従者ヴァレットである執事の息子リチャードが、先に食堂で、丁寧にアイロンのかけられた数種類の新聞に、目を通していたマスグレーヴに、丁寧にそう告げる。


 メイドたちが食事の配膳を終えてから、マスグレーヴが、ちらりと目で合図をすると、使用人たちはすべて下がってゆき、マリアはこの交錯する事件に巻き込まれた『シャーロック・ホームズ』そんな暗く静かな雰囲気の中、本格的な英国式ブレックファーストを食べていた。


 部屋の隅に置かれた例のベーカー街よりも大きいイーゼルに乗った、事件説明用らしき黒板の存在を意識的に無視したまま……。


「諸君おはよう! 細部まで考えがまとまった。これから最終的な話を進めよう!」


 まだ、食事の途中に、ご機嫌なホームズが、大きな扉を音をたてながら開けて入って来ると、黒板に近づいてゆくので、マスグレーヴは思わず追い出そうと手元のベルに手を伸ばしたが、「人の命がかかっていますから……あと、国家的な詐欺事件もですわ!」そうレディ・マリアに言われて、彼は、もっともだと、ぐっとこらえた。


 しかしながら、よく考えなくても、一番の被害者(予定)はマリアである。彼女は、フォークとナイフを、ぎゅっと握り締めて少しだけ唇をかみしめる。


 そして、バリバリの関西育ち、その上、ちょっと、かたよった趣味のある彼女は、吹っ切れた、あるいはぶち切れた心の中で、ひとり言をつぶやいていた。


 それは、グルーナー男爵に向けられたものか、誰に向けられたものか、いまのところは分からないけれど……。


『女やからて舐めてたら、足や腕の骨くらい、ばきっと折れるかもしれへんで……』


 コンプライアンスって、なんだっけか?


 マリアは、そんなことを考え黒板に顔を向けて、マリアに背中を見せていたホームズは、一瞬だけ片方の眉を上げ、不思議そうな顔をしていた。


 彼女には分からなかったが、黒板のうしろには、銀の花瓶がが飾ってあったので、ホームズに彼女の様子は丸見えだったのだが、あいにくと、彼は彼で、いつものやる気スイッチが入っていて、彼女の気持ちなんて、そう大切なものでないと、思ったのである。


『変人に囲まれたわたし、そしてマスグレーヴ卿もかわいそう……』


 テレーゼは、ひさびさに、自分が天才ではあるが、ホームズや姉と違って、しごく常識人であると再確認し、ワトソン博士どこに行ったんだろうと思いながら、味も感じない紅茶を、カフェインをとって、脳を活性化するためだけに、自分でお代わりしていた。

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