未婚の貴族or高名の依頼人 3

 ワトスン博士は不思議そうにたずねる。


「いつもならすぐに飛びつきそうな事件なのに、どうしたのかね? マスグレーヴのあの調子では、たいしたことがなさそうだから?」

「……マリア嬢の勤務時間が四時半までだから」

「ああ、そういえば……」

「依頼を受けるにしても、右も左もわからんロンドンに、彼女を放り出しておくわけにはいかんだろう? それからマスグレーヴは、事件よりも昨日手に入れた本の山のことで頭がいっぱいだから、さっきの客は、必ず四時半以降に再訪問の約束を取りつけるように言われて、必ず追い出されているよ! はっ!」

「……そうかね」


 いつもなら事件一番で、たいていのことは置き忘れ……もとい、ぐっすり寝込んでいるところを叩き起こして、あと五分で用意しろ、さあ出発!! なんて、無茶ぶりもいいところのホームズは、なぜか視線をそらして、言いわけがましくマリア嬢のことを含め、いろいろと事件に関係ないような、ないような、そんなナゾな理由をしばらく並べたてていた。


「あの、ホームズ……」

「なんだね?! やましい気持ちなんて、これっぽっちもないよ?! ないと言ったら、ないからね!! 君はすぐに話をなんでもかんでもロマンスに絡めようと!!」

「いや、もう、これからサウナはやめた方がいいかもしれないと、忠告しようと思ってね」

「……なぜ?」

「“ふけメイク”が溶けかけているよ?」

「…………」


 ホームズはワトスン博士のバスタオルを一枚取り上げると、頭からかぶって顔を隠しながら、サウナをあとにした。


 そうして再びマスグレーヴのロンドンのやかたに帰った彼は、予想通り出直して、いじいじと、葉巻からラベルをめくっていた大佐から、詳しい話を聞くことになったのである。


 ちなみに、ホームズとようやく会えた安堵で、葉巻は火がつく前に手から離れて床に転がっていた。


「実は、かくかくしかじかで……ああ、相手を知っていらっしゃいましたか?!」

「グルーナー男爵、オーストリアの殺人者ですな……」


『グルーナー男爵……あれ? だれだっけ? 聞いたことがあるようなないような……』


 横にいたマリアは首をかしげていた。


 ホームズは、しきりにレディに聞かせする話ではないという、自分への大佐とマスグレーヴの目配せを無視して、「レディ・マリアの淹れてくださるお茶と比べれば普通の紅茶など泥水だよ?」いつも通りに空気の読めないことを言って、「とりあえず紅茶が飲みたいね! 淹れたての! サウナでノドがカラカラなんだ! レディ・マリアが持ってきた茶葉で、レディの淹れた紅茶でないと、話が頭に入らんのだよ! 飲めばわかる!」かたくなにそう言い、マリアを筆頭に、周囲は顔をしかめていたが、彼女はふとある事件のときの、ハドソン夫人の台詞を思い出してから口を開いた。


殿だと母は申しておりました。殿。そうも申しておりました。この方に関して言えば、母の教えは本当ですね、意味がようやく理解できましたわ」


『コイツ、やっぱりもう一回投げ飛ばす! それか絶対、落ちグセがつくまで何度でも締め落とす!』


 慈愛に満ちたほほえみを浮かべたマリアは、頭の中では物騒なことを考えつつ、そう言い、周囲の男性陣はその気の利いた言葉に、ほほえみを浮かべながら、聖母マリアの名前は伊達ではない、実に機転の利くレディだと、彼女に賞賛のまなざしを向け、それからホームズには、お前のせいで英国紳士の面目まるつぶれだと、彼には冷たく鋭い視線を集中させていた。


『田舎のやかたまで、馬に蹴飛ばされてしまえ、この大馬鹿者!』


 マスグレーヴなどは、そうまで思っていた。ホームズはまったく気にしていなかったが。


「では勝手ながら、お茶をご用意させていただきますわ」


 そう言いながら、マリアは、いったん部屋を出ると、手ずから紅茶の用意をするべく、慌てた様子の執事と一緒に姿を消して、またすぐに用意できたティーセット一緒に姿をあらわした。召使たちは興味津々で、彼女の淹れた紅茶を配って回る。


 大佐の持ち込んだ問題にそう興味もなさげな、英訳されたばかりの『猿蟹合戦』の翻訳原稿を、原書片手にこっそりと読んでいるマスグレーヴ、苦悩して疲れ切った表情の大佐、サウナで崩れたメイクを直したすまし顔のホームズ。なれないゴージャスなやかたで、オロオロしているハドソン夫人、カオスであった。


 が、みなはそれぞれに、ひとまずは、マリアの淹れた紅茶にありついていた。


「これは実に……おっしゃるとおり、気分がスッキリいたしますな」

「ホームズ! さてはあのとき、君の汚い下宿でも、レディにお茶を淹れさせていたな!」


 こうして、タイトル違いの『独身の貴族』から始まった、知っているような、知らないような事件の幕は、ようやく切って落とされることとなる。


『あ、あいつか!! あの話か!! なんで好きになったのか、そこが最大の謎だった、ただの老けた殺人男爵と強情令嬢のあの話!! モデルの女の人が超かわいそうだった話!!』


 そんなこんなを思い出したマリアは、おしとやかに椅子に座り直しながら、大きくなった耳で話を聞き、なるほどワトソン博士は一応本人が特定されないように、発表するときは気をつかったり、話を盛ったりしているんだなとも思った。


『で、わたしは、その本を元にしたテレビ映像を、キチンとした日本語を学ぶために、家族全員で何回も何回も、吹き替え版を暗記するほど見ていたと……大体は合ってるみたい! すごい! でも、日本在住のイギリス人とフランス人の夫婦が、子どもが、英語とフランス語しか話せないから、日本語吹き替え版のシャーロック・ホームズの冒険を見せているのって、なんかシュール……』


 で、で、実は依頼人は、やっぱり強情令嬢のパパで、大佐はツテを使ってマスグレーヴ経由でホームズに依頼していた。


 そして、ホームズが留守の間、少し話しただけでもわかるほど家名第一のマスグレーヴ卿が、まったく乗り気でない理由も理解する。


 この男なら、家の名誉が維持できなくなるのであれば、例え被害者(予定)が、自分の親族、自分の娘だったとしても、たったひとりの相続人だったとしても、彼にとって汚れるだけの家名に存続の意味はなくなるのだろう。


 結果、由緒ある家系が絶えるとしても、家の誇りと矜持を守ることに集中するがゆえに、彼女は家名を汚すとして、許されるわけはなかった。


『もし、マスグレーヴ家の親戚だったら、相手と一緒に強情令嬢は、ロンドンブリッジから逆さ吊りにされそう。そんな気しかしない……こわっ! 親族じゃなくてよかったね!』


 マリアは自分よりも、おそらくは鼻っ柱の強い令嬢の顔を、ボンヤリ思い出していた。


 そう、この事件の本当のタイトルこそは、実は『高名な依頼人』のはずだったのである。

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