未婚の貴族or高名の依頼人 1
ホームズの説明によると、マリア嬢のご両親は、彼の親戚筋にあたり、お母上は『ホームズ家の薔薇』そんな風に言われ、大切に田舎のカントリーハウスでお育ちだったそうだ……。
「幼い頃に見た彼女は、まさに“英国の薔薇”そんな方だったよ……優雅にして美しく、優しい方だった……」
ワトスン博士は『彼女の設定』を忘れないようにと、小さなメモ帖に書き留めていたし、その横でマリアは、「いいなぁ、おおっぴらにメモがとれて!」そんな風に思いながら、必死で『自分の設定』を暗記していた。
『ママは英国の薔薇……なんか、かっこいいな……』
「レディのお父上も、実のところ僕の祖母の親戚で……まあこれが名字から分かる通り、問題のないフランス貴族の血筋ではあったが、とにかくあの革命で、爵位がなくなっていてねえ……」
「ああ、もう大体は分かったよ」
マスグレーヴは、片手をあげて、仕草で話を止めさせた。
清教徒革命により、フランスに一時亡命せざるを得なかった、チャールズ2世に仕えていた。そんなイギリス屈指の家柄の彼には、遠い昔のフランス革命も、まるで昨日のことのように思えていた。
「……つまり、レディのお父上と、お母上は恋に落ちて、しかしながら爵位がない男と一緒にはできない。もしくは、お母上には、すでに家同士で決まった相手がいた。それで、駆け落ちをしてしまった。違うかね?」
「理解が早くて助かるよ」
ホームズはよくやるように、一瞬だけ唇をひきあげて、満足げな笑みを浮かべた。
「わかるに決まっているだろう。あの革命のあとから、いまだイギリス各地で起きている騒動だ。……しかしながら、愛を抱いて駆け落ちをしても、大体は貧困に陥ったと聞いている。不幸な話だ。しかし、レディ・マリアのお父上は、成功なさったようだね」
「ああ、幸いにね。実のところ、僕のバリツ、つまり柔術は、彼女のお父上に教えていただいたんだ。彼は中国を超えて、はるか遠く、日本との貿易で財を成すかたわら、いまはかの地で文化人類学者として、熱心に文学の研究にいそしんでいる」
「……あの極東で」
そして、マリア嬢は日本で生まれて、ほとんど日本で育っていたが、ホームズ家もマイクロフトの代に代わり、お父上と彼の仲が割合に良かったことと、母上が年頃のマリア嬢に、一度は母国イギリスを見せてやりたいという意向で、彼女は長い船旅と鉄道の旅で、ようやくたどり着いた。
が、彼女の付き添いは、長い旅の間に病気になって入院、付き添いの夫人の心配をしているうちに、荷物をほとんどチャリングクロス駅で盗まれ、ホームズの名刺を頼りに連絡を取り、ようやくここにやって来た。そんな訳らしい。
『付き添いは入院』
ワトスン博士が、メモの最後に書き込んでいると、マスグレーヴは実に同情した表情をしたあと、珍しくも少し驚いた顔をした。
「――日本? あの浮世絵の? あのパリ万博の?」
「そう、あの生麦事件の!」
「あの事件か!」
マスグレーヴは口元に手をあてて、しばらく考え込んでいた。
『ウソが過ぎたんじゃないのかな? あと、いきなり“生麦事件”を持ち出すな――!!』
マリアは、こんなことなら、メイド服を着ておけばよかった。ついつい、旅行と言う魔法の言葉につられて……てか、はじめっから、メイド服で旅していた方が、いろいろと便利だったのでは?
そんなことを考えつつ、頭の上に乗っているカッパの皿、もとい、帽子に手をやって、しょざいなげにしていたし、ワトスン博士は、「大変な目に遇われましたね、とにかくどこか今夜の宿の手配を……」なんて空々しく言っていたが、マスグレーヴは、「いや、君は頭は回るが常識知らず……その上、君の兄上は“ディオゲネスクラブ”なんて、とんでもないクラブの設立者だ。信用できるはずがない」などと言い出した。
「え、あの……父には、マイクロフト・ホームズさまは、とても素晴らしい方だと……いまから連絡を取っていただこうかと……」
「控え目に言っても、お勧めできません」
「…………」
とにかく目先の困難、いや、レジナルド・マスグレーヴから逃れようと、マリアは実に控えめに主張してみたが『英国紳士の鏡』を自負する彼はキッパリそう言いきると、横にいた召使に合図をし、「自分のロンドンのやかたに、滞在されるとよい」そう言ってくれた。
『うれしいけど、ありがた迷惑!! 絶対にボロがでる!!』
そう思ったマリアは、「あの、でも……そんな急に……大丈夫ですわ……」そんな風に控えめに主張してみたが、レジナルド・マスグレーヴはマリアの戸惑った態度に、あっという顔をすると焦った風に口を開いた。
「あ、いやいや、婚約もしていない男のやかたに付き添いもなし……戸惑われますな、もっともです。田舎から、わたしの一族の親戚からだれか……」
そう言いだした彼に、ホームズはしてやったり、そんな風に思い口を開いた。
「ハドソンさ――ん! ハドソンさん!」
「はいはい、なんでございますか? もうお茶は片付けますか?」
「いや、マスグレーヴのところで、マリア嬢の付き添いをやってくれ!」
「はい?」
マスグレーヴは少し顔をしかめたが、とりあえず身元は確かだと思い、マリアに、「ハドソン夫人を臨時の付き添いになさって、ぜひ当館でお暮しください。なに、部屋は有り余っておりますので、決して窮屈な思いはさせません。準備が整い次第、ホームズたちと一緒に、カントリーハウスにもご案内しましょう」そんな風に、いきなり両親の故郷に帰るなり、最悪の印象しか抱かなかったであろう、レディ・マリアに、イギリスの名誉挽回とばかりに申し込んだ。
『いやに押してくるな、なにか魂胆が……』
マリアは、ひとめぼれなんて夢は見ない女子だった。超家柄重視のマスグレーヴだし。
「あの、もちろん、マスグレーヴ家のお名前は存じておりますし、でもその、いきなり知り合った方に、そこまでの……それに、ここでメイドとして働いて、日本までの旅費をためれば、皆様にご迷惑も……」
そうだ! もう、メイドに戻ろう! その方が自由に暮らせそう! かわいいカッパの皿をかぶったマリアは閃いていた。
「奥ゆかしい方だ……しかし、世間知らずでもいらっしゃる。それではご家名に傷がつきます」
「家名……でも、その……」
『そんな立派な家柄でもないんで、おかまいなく!』
ひよこの隊列と、その親たちに辟易していたマスグレーヴは、実に謙虚なマリアに感動し、さっきホームズが、彼女が日本で育っていたという話を再び思い出し、ここで引くわけにはいかないと、言葉を重ねた。
「それではレディ、私のロンドンのやかたと、カントリーハウスにある日本の書物を、英語に訳していただく……そのお返しとして、わたしはレディに何不自由ない、イギリス滞在中のお世話をさせていただきましょう。もちろん内密に謝礼も用意させていただきます。そうしてイギリスに滞在なさってから、ご両親のもとに帰られるなり、しばらくイギリスでゆっくり暮らすなり、考えてはいかがでしょうか?」
「え……?」
「もちろん、ご不安もおありでしょうし、ホームズたちも招待しますよ! いや、助かります。実は昨日からこちら、ロンドンのオークションで、貴重な日本の古書や絵巻物を、手に入れたのですが、なにぶんにもさっぱりで……」
「はあ……」
『あ、そういう理由か!』
「衣装など身の回りの品はご心配なく、すぐに手配しましょう!」
貴重ながら読めない本に手こずって、苛立っていたマスグレーヴは、渡りに船とばかりに、手袋につつまれたマリアの手を取って、すぐにでも外に待たせている、自分の家の紋章が入った馬車に、つれてゆこうとする。
が、しかめっつらのホームズが呼び止めた。
「……事件の話はもういいのかね?」
「ああ……う――ん、じゃあ、君もワトスン博士も、すぐ用意してロンドンのやかたに来たまえ、食事のついでに夜に話す」
すでにマスグレーヴの頭の中からは、ちょっとした事件は、ふっとんでいたのだが、とにもかくにもマリアは大慌てで、一張羅を引き出してきたハドソン夫人に付き添われ、ベーカー街の扉の前にとまっていた紋章付きの豪華な馬車に乗り込んでいた。
『せっかく来たからピーターラビットの聖地、レイク・ディストリクトに行ってみたい! まだ、ピーターいなさそうだけど!』
馬車の中で揺られながら、マリアはのんきにそんなことを考えていたが、次の日の朝の新聞に目を通して、彼女とマスグレーヴは固まっていたし、老けメイクで年相応になっているホームズは、転がされてもいないのに椅子から転げ落ち、床の上で笑い転げていた。
『英国屈指の家柄にして、最高の大物独身貴族、マスグレーヴ卿の恋人ついに発覚!!』
新聞には白黒のマスグレーヴの写真とともに、大きくそう書かれていたのである。
「だれが見ていたのかねぇ……」
「もっと、もっとほかに、独身貴族はいるだろう……いやいや、レディ・マリア、あなたはお守りいたしますから! 日本語が理解できるうれしさに、つい目がくらんで! 申し訳ない!!」
「はあ……」
マリアは朝食もそこそこに済ませると、ハドソン夫人と共に用意された自分の部屋に戻り、「やっぱりメイドにすればよかったなぁ……もう、観光はあきらめて、やっぱり帰ろうかなぁ……」そんな後悔をしていたが、事件はすぐに向こうからやって来た。
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