冒険の始まり 1
さっきの妹と比べれば、少々がさつに思っていた彼女の背中には、天使の羽が見える。そうワトスン博士は思った。
「あの、誤解があるといけないから先に……」
ワトスン博士が先ほどの『コブラとマングース』の戦いを釈明しようとすると、意外にもマリア嬢は、申し訳なさそうな顔で、息を吐いた。
「あの、少し聞こえていました……すみません、口の利き方がなっていなくて。留学するまでは、まだあんな子じゃなかったのですけれど、どうも議論というかなんというか、あまりにも生徒同士の競争の強烈な学校生活で、すっかりあんな風になってしまって……。そんなこんなもあって、あの子が帰ってくるのを両親も賛成したんです」
「……そんなことが」
「早くあの不躾な性格が治ることを祈るよ」
「ホームズ!」
どうにかこうにか場を和ませようとしていると、ちょうど、あちらとこちらのドアから、遠慮がちなノックの音が聞こえてハドスン夫人が、「先生に患者さんですが、どうしましょうか?」そんな声が聞こえたので少し心配だったが、ワトスン博士は元のベーカー街に戻った。
それから少しの間は、沈黙が支配するキッチンだったが、ふいにマリアがテーブルの上の冷めきった紅茶に気づいて、「淹れ直しますね」
そう言って、きれいな透き通ったサファイアのようなお茶をホームズに淹れた。
「これは?」
「ハーブティーの一種、気分転換をする時にだけ、自分用に置いているの」
彼女はそう言いながら、お手製のスコーンに、クロテッドクリーム、これまたお手製のジャムを出してくれた。二人で小さなテーブルを囲んでいると、マリアの様子がどことなくおかしい。
「失礼な妹によると、君は大学にお付き合いをしている男性がいるときいたが、観察するに……」
『お付き合いは、なくなったんじゃないのかね?』
そう言おうと、ホームズが言葉を続けようとした瞬間、マリアは彼の口を両手でふさいだ。
「それは推理しなくていいから! 偉大なるホームズ先生は、もっと知的な犯罪に頑張ればいいから……」
「…………」
再び、沈黙のお茶の時間を過ごしていると、マリアはふと彼に、気分転換に庭を歩かないかと言ってみた。
「薔薇園なら、ここから見えているが?」
「ここはそうだけど、女子寮の近くにある私や家族が住んでいる離れに咲いている『金魚草』という花が満開なの。とってもいい香りで、可憐な花よ」
「…………」
なんだろう、興味もないのに、裏の戸口から、レンガを敷いた小道を通って、彼はマリアのあとを続いて歩く。
フランス積みのレンガの塀で覆われた広い庭と屋敷の片隅に、小さな離れ。そして、彼女が世話をしているという、貝殻でぐるりと丸く囲んだ小さな花壇は、ひらひらとした花が満開になっている。
風がそよぐたびに、とてもいい香りがした。
そして、ふたりでぼんやり花を眺めていると、マリアは別れたばかりの、とんでも男を振った話を、まるで道端の石ころにでもするように話していたが、ホームズはホームズで、まあ、自分は石ころの代わりなんだろうと思って、黙って聞いていた。
「……君にピッタリの花だ」
「え?」
「君はそのままで、変わらずに、この花のように強く生きて行けばいい……」
「この花は英語で、Snap-dragon(かみつくドラゴン)というんだ……ピッタリの名前だね」
「え……金魚草が?……しかも、かみつく龍……」
彼が、マリアの頭を撫ぜながら、教えた花の名前、可憐な金魚草の英語名はSnap-dragon(かみつくドラゴン)だった。
『ピッタリって、どういう意味……?』
マリアはすごく不本意な、複雑な心境だったが、「気分転換に、こっちの世界に旅行にこないかね? 案内するよ」そう言われて、そういえば、せっかくヴィクトリア時代に行ったのに、ベーカー街の建物から出ていないことを思い出し、春休みだから思い切って出かけてみようと思い、『英仏屋』に出入りしている服飾学校の子に衣装を借りて(なぜ、ヴィクトリア時代のドレスまで持っているんだろう?)もう屋敷に帰ろうとしていた母には、しばらく旅に行ってくると言った。
それから改めてホームズを振り返って、長いまつげをパチパチさせて驚く。
「どうかしたかね?」
「えっと……鏡を見た方が早い……かな?」
「???」
用意された鏡をのぞきこんでみると、『英仏屋』を出て、元の時代につながる小部屋に帰った彼は、なぜか若返っていた。
「興味深いねえ……」
「そんなことより、早く帰らなきゃ!! このまま、もっと若返って、子供になったら大変!!」
そんなこんなで、若返ったホームズは、ふけメイクをすれば大丈夫。そう言いながら、手早くまとめた彼女の荷物が詰まったトランクを手に、マリアを連れて、元の世界に帰って行った。
ちなみに『Snap-dragon』の話をした時、また彼が地面に転がされていたのは言うまでもない。
かくして、マリアとホームズのヴィクトリア時代の冒険旅行旅は始まったのであった。
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