イートンの思い出 1

 必要のない情報は忘れてしまうに限る。それがホームズの信条なのだか、今回はどうも違ったらしい。


 ひじかけ椅子の上で三角座りをした彼は、パイプをくゆらせたまま、なにかを思い出そうと瞑想の中に入り込んでおり、私は視界の利かなくなった部屋の窓を、大慌てで開けていた。わたし自身もヘビースモーカーとはいえモノには限度がある。


「オックスフォード……いや違う。あの頃はボクシングをしていた。するとイートンか?」

「なんの話だねホームズ? おいホームズ! 君ときたら!!」


 彼は、またヤバい薬を打っていた。


 ワトスン博士は、ぐらりと傾いたホームズを寝室に運ぶと、ベッドに寝かせてため息をついていたが、とうの本人は、思い出したい自分の記憶の中の博物館にある『物置小屋』に旅立っていた。



〈 少し昔、ホームズの記憶の中のイ-トンカレッジとある寮内 〉


 伝統と歴史、そして格式の高い寮は、どこもかしこも素晴らしい造りの家具や調度品が飾ってあるが、一番有名なのは『不思議で大きな古時計』だった。


 伝説によるとこの古時計は選ばれた者だけを、別世界へ連れて行ってくれるらしい。


 寮に入った者は荷物を部屋に置くと、とりあえずは古時計のところに行ってながめてみたり、記念写真を撮ったりする人気スポットだが、結局なにも起きないので、数ヶ月後には古時計はまたひっそりと地味に時を刻んでいる。


「ホームズ、いい加減に、人に喧嘩を売って回るのは、よした方がいいと思うがね」

「別に喧嘩を売っているわけじゃない。ただ真実を指摘しているだけだ」


 僕にそう忠告したのは、同室のレジナルド・マスグレーヴだ。彼の一族は、英国でも最も古い貴族の末裔であり、のちの『マスグレーヴ家の儀式』で彼のやかたを訪れ、事件を解決することになったが、その頃は、お互い十三歳の新入生であり、ルームメイトだった。


 マスグレーヴは、ため息をつく。たしかにホームズは間違ってはいない。正しいことを言ってはいるが、その『物言い』が、いつもトラブルをまねく。


 自分自身、寮長からその高慢さで嫌われてはいるが、英国屈指の家柄、たいして気にはしていない。


 だが、たった十四人という少ない同学年の寮生だけでなく、ホームズは最上級生や寮長にいたるまで、このイートンカレッジの寮内七十人に、なく嫌われていた。(もちろん彼は気にもしていなかったが)もはや才能と言えよう。


「まあ、忠告はしたからね」


 マスグレーヴはそう言うと、実家から送らせたシェイクスピアの原書に没頭していたので、いつの間にかホームズが消えて、彼がマスグレーヴを除いた同級生、十二人に寮内を追いかけまわされているのには気づかなかった。


 騒ぎを収めるべき寮長は、もちろん騒ぎが起きていることに気づいていたが、「一度こらしめられれば、おとなしくなるだろう」そう思ってしらんふりをしていた。


 廊下を追いかけてくる十二人を、いっぺんに相手をするのは、いくらなんでも無理であるし、ホームズは、まだボクシングも柔術もたしなんではいなかったが、それでも狭い廊下を走り抜け、大きな柱時計がある行き止まりを背にすると、廊下を縦に並んで走ってくるアホな同級生をどうしようかと考え、重厚な柱時計の飾りについているマホガニーの棒で、ひとりずつ仕留めようと思い、それを引っ張った。


 するとどうだろう、柱時計は壁ごとひっくり返り、気づけば先頭にいた三人の同級生と一緒に見知らぬ明るい広場、いや、建設が終わったばかりであろう、ティールームになる間際の建物の中らしき場所で、ひっくり返っていたのである。


「どろぼう?!」


 そう言いながら出てきたのは、金色の髪に紫がかった、まるでタンザナイトの宝石のような色の瞳の持ち主、年は同い年くらいで、絵画から抜け出したように美しい少女だった。


 変な服装と、うしろでひとつにくくった、馬のしっぽみたいな髪型を無視すればの話だったけれど。


「ど、どろぼうでしゅか?!」

「テレーゼはそこに隠れてなさい!」


 美少女は、よく似た妹らしき、もっと小さな少女にそう言ってから、不意になだれ込んだ自分たちを見下ろしていた。


「変な恰好……」

「柔道着って言うのよ、もの知らずね。それに、あなたたちもかなり変よ、誰? どこから入って来たの?」


 どうしてこうなったのか、ホームズがじっと考えていると、一緒になだれこんできた三人が、「平民は引っ込んでいろ!」「女は引っ込んでいろ!」そんなことを言いながら、とりあえずホームズをやってしまおうと取り囲もうとする。


 まだ武術の心得のなかったホームズは、今頃になってマスグレーヴの忠告を思い出していたが、気がつけば中のひとり、トーマスが変な恰好の女の子に、にやにやしながら、手を伸ばしているのが視界の隅に入った。


 いくら階級が違うとはいえ、それが紳士になる教育を受けている者のすることか!  


 ホームズはそう思ったが、自分はまだ残ったふたりに囲まれているし、見ているだけしかできなかった。


 しかし、トーマスのバカが、彼女の腕をつかみに行って引っ張った瞬間、奇跡でも起こったのか、バカは、まるで魔法にかかったように、床に叩きつけられて、完全にのびていた。


 あとで知ったことだが、それは柔術というもので、なぜか知らないが、あの古時計の裏をくぐって来たここは、なんと極東にある日本だった。


 先ほど謎の奇跡を、柔術を披露した彼女は、同じ年ごろの少年少女の中では、かなりの腕前で、今日は母上の趣味で、やかたの中に建てている途中の建物を、たまたま妹と探検していたらしい。


「バリツ……」

「なにそれ?」

「日本の武術だと聞いたことがある。バリツだろう?! 君が、いまソレを投げ飛ばした技は?!」


 ソレ(トーマスのバカ)、そして、あっという間に、彼女にやられた残りのふたりを、ホームズは指さしてそう言った。


「柔道って言うのよ、えっと、柔術よ、柔術! バリツってなに? どこの国から来たの? そんなのこの国にないわよ」

「……君が知らないだけだと思うけれどね」


 最初にトーマスが吹っ飛んだのは、相手の勢いを利用して斜め上に飛ぶと、相手の姿勢を崩しながら跳ね上げる『飛び込み内股』という技らしい。


「むつかしいのでしゅよ!」

「……だろうね」


 なぜかいばっている彼女の小さな妹に、適当な返事をしていると、美少女はその間に僕を観察していたらしく、澄んだ冬の湖、そんな透明で冷たい声をかけてきた。


「まあ、なんでもいいけど、それ制服でしょう? けっこういいところの?」


『イギリスで一番だよ』


 そう言ってやろうかと思ったが、なぜか僕は黙っていた。信じられないが、古時計の伝説は本当だったらしい。しかし、僕はそれどころではなかった。


「その、柔術ってヤツを、僕も覚えたいのだけれど、どこへ行けばいいのだろう?!」

「ああ、そういえば追いかけられていたっけ? いじめられてここまで逃げて、ここに飛び込んだわけ? それなら警察は許してあげるけど。あと、ちゃんと柔道を習うなら、保護者の許可とか月謝がいるわよ? あなた小学生でしょ?」

「小学生? 保護者の許可……月謝……」


 小学生とかいうのではないが、おそらくポンドは使えないだろうし、マイクロフトに許可を取るのも面倒……そもそも、古時計の伝説がなどと言い出したら、頭がおかしくなったと思われかねない。


 ホームズは、珍しく悩んでいた。


「武士の情けよ?」

「え?」


『武士の情け』彼女はそう言って、毎日この時間ならちょうど稽古の帰りだし、ここは母が内装を初めから考え直すと言い出して、しばらくは大丈夫だからと、僕に「しゃーなしよ? いじめられっ子なんてかわいそうだから」そう言って、教えてくれることになった。


「“しゃーなし”と言う言葉の意味を知っているかね?」

「……さあ? 庶民階級のスラングじゃないのかね?」

「どう見ても下層階級ではなかったが、そうかもしれないねぇ……こんど、馬丁にでも聞いてみるか」

「???」


 ホームズは、もとの世界に帰ってから、“しゃーなし”と言う言葉の意味を、マスグレーヴに聞いてみたが、やはり彼も知らなかった。

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