とある英国の元軍医の沈痛な面持ち

〈 メイドのお嬢さんが消えてから一週間後のベーカー街221B 〉


「なんの依頼かな?」


 そう言いながら、顔だけ振り返った面倒くさそうなホームズの手には『柔術バリツ指南書』が、ここ数日まるで貼りついたように収まっている。


 彼の頭の中は、先だってのハドソン夫人のぎっくり腰の間だけやってきていた、あのメイドのお嬢さんのことで、いっぱい、いっぱいのようだ。


 彼は、しかたがなさそうに本をマントルピースの上に置いて、無造作に封筒をペーパーナイフで開け、一瞬だけ目を通した。


「子猫を探してほしい?! はっ!」

「それ、あの有名な医師の……」


 退役軍人で、元軍医の僕とは違って、社交界でも有名な医師からの依頼だったのに……。


 そう言葉を続けようと思ったが、健康を取り戻したハドソン夫人が銀のトレーに乗せて持ってきた名刺と、上質の紙でできた封筒は暖炉の中に消えて行った。


 夫人は僕に、やれやれといった顔をしてから、ふと、思い出したように口を開く。


「そういえばワトスン先生、この間、ほら、私がぎっくり腰の時に、紹介所から来てくれていた、あのメイドのお嬢さんがいたでしょう?」

「ああ、いたね……」


『いたね……そのせいで、彼女が消えてからホームズのご機嫌は、斜めになったまま起き上がってこないね。だからもうこれ以上、刺激して欲しくないのだけどね……』


 空気を読んでほしいなハドソン夫人……。


 ワトスン博士はそう思いながら、自分の部屋に避難しようかと、本を手に立ち上がりかけた。


「それがおかしいんですよ……」

「なにがおかしいんだね?!」


『あ、ホームズのご機嫌が、起き上がってきた』


「あんまりお世話になったので、直接お礼が言いたいと思って、紹介所にお嬢さんの住所を聞いてみたんですよ」

「それから?! 話の説明はもっと端的にして欲しいね、説明が下手だよハドソンさん!!」


『……お世話になっている老婦人になんて態度だと言われて、そんな態度を取るたびに、彼女に大外刈りをされたり、背負い投げをされたり、内股で床に叩きつけられたのに、ぜんぜん治ってないんだなホームズ……』


 ワトスン博士はそう思いながら心の中で十字を切っていたが、あいにくというか幸いなことに、彼女はもういなかったので、ホームズは無事だったし、ハドソン夫人はオロオロしながら説明を続けていた。


 実はホームズは、ハドソン夫人よりも、もっと先に彼女の家を自力で探そうと、やっきになっていたのだが、結局わからないままで彼女はまさに『煙のごとく』消えてしまっていたのだ。


 なんと、夫人の話によると、あのお嬢さんは紹介所の斡旋あっせんではなかったらしい。


「紹介所に手紙を持たせたピーターが、届けるのを忘れていたんですって。でも、そう言われてみれば、たしかに少し変なんですよ……」

「どこが?! どのあたりが変なんだね?!」

「おい、ホームズ少しは落ち着いて……」


 変にプライドが高いせいか、あのお嬢さんのことが気になっているのをハドソン夫人に知られたくなかったせいか、手がかりもなしにずっと自分で調べていたホームズは、夫人からあのお嬢さんが初めてここに来た時から、一度も玄関のドアから入ってきたところを見なかったことや、彼女が夫人の使っているキッチンで、なにかをしているところや、洗濯屋に使いを出したこともないことを、いまさらになって、聞いていた。


 そして、それなのにまるで魔法のように、あっという間にお嬢さんはなにもかも完璧に夫人の代わりをしてくれていたことを、夫人はしどろもどろに話していた。


「……奇妙な話だ。実に奇妙じゃないかワトスン!!」

「……そうだね」


『1ペニーにもならないがね……まあ、例のプライオリスクールの小切手があるから、君の探偵という職業は、もはや趣味みたいなものだろうけれどね……』


 賢明なワトスン博士は正直な感想を胸にしまい、ハドソン夫人をさらに詳しく『取り調べ』をしたホームズが、夫人のこぎれいなキッチンを、みるみるうちにひっかき回し、床板の隙間のひとつひとつまで調べるのを、平たい目で見守っていたが、何時間かがたち、おなかがすいたので、「……クラブで食事をしてくるよ」そう言い残して、ベーカー街をあとにしていた。


 その日の深夜、またベーカー街に帰って来たワトスン博士は、ハイテンションで、キッチンの奥、小麦粉やら何やらを保管している小部屋につながる扉を前に、紅潮した頬で、「ついにやったぞ!! あーやって、こーやって、ようやくつながったんだ!」


 なんて言いながら、小麦粉まみれだった服を着替え、帽子をかぶりステッキを手にして胴着をもう片方の手に持ち、夜中なのに不自然に明るい向こう側の世界に消えて行ったホームズを、あきれた顔で見送っていた。


「……大変な騒ぎだったんでしょうね」

「ええまあ……」


 結局、帰ってこないホームズが気になり、あとから例の『英仏屋』にたどり着いたワトスン博士は、再び顔をしかめたまま床に転がっているホームズと、視線を合わさないようにしながら、バラ園の中にある、夢のようなティールームのカウンターに座っていた。


 カウンターの向こうにいる女主人であろうご婦人は、とても上品で優雅な美しい方で、マダムと呼ばれている。どことなく、くだんのお嬢さんに似ていた。


「マダムのお嬢さんですのよ」

「ああそれで! どうりで似ていらっしゃる!」


 近くに座っていた少し風変りだが、ロココ時代のドレスを思わせるような、かわいらしい服を着た、これまたかわいらしいお嬢さんが、わたしがお嬢さんとマダムを見比べているのに気づいて、笑顔で教えてくれる。


 一緒にいたほかのお嬢さんたちは、ホームズを心配そうに見ていて、「助けた方がいいかしら?」などと、しごく優しいことを言っていたが、お嬢さんがそれに気がついて、「こんな無礼者に情けをかけなくていい、これ以上甘やかさなくていい!」


 そう、結構な彼の本質を突くような、でも実にかわいそうなことを言いながら、残念そうな彼女たちを帰してしまったので、ティールームは四人だけになり、マダムは「あらあら……」なんて、頬に手をあてて少し困った顔をしていた。


 わたしはホームズがとてもかわいそうになって、彼の良いところや素晴らしいところを、お嬢さんに説明を試み熱心に語ってもみたが、彼女の返事はにべもなく、そして、意味の分からないものだった。


「ワトスン博士は、ホームズが生き甲斐だから、いいでしょうけれど、一般常識とかなさすぎでしょう? そうやって、ほめて伸ばす育児みたいなことを、大の大人にするから、つけあがるんですよ」

「…………」


 返す言葉もなく、ワトスン博士はとりあえず、断りもなしに、いきなり現れた不躾をマダムに謝罪する。


 実は、このティールームは、マダムの趣味で開いている、ごく小さなサロンめいた場所であり、当然お嬢さんは、本当のメイドではなく、驚いたことに大学生だったのである。


 そしてここは、私たちのクラブ同様に、完全な紹介制であり、その上、ほぼ、女性専用であるらしい。


 知らぬこととはいえ、自分たちの無作法な狼藉は、教養ある紳士がとってよい態度では、決してなかった。


 その日は、再びマダムに謝罪を重ね、不満そうなホームズを連れ、とにかく急いで、ベーカー街へ戻った。


「ワトスン、とは、どういう意味だね?」

「……さあね」


 その意味を知ったのは、また次の日、今度は、とりあえず女性なら大丈夫だろうと「そんな紹介制の場所にいきなり……」なんて困った顔のハドソン夫人に、心にもない謝罪を長々と書きつづった手紙を持たせ「さあ、行ってらっしゃい!」と、ホームズが送り出したハドソン夫人が帰ってからだった。


「…………」

「どうしたんだね、ワトスン君?」


「しばらくの間ひとりにしてくれないか?」

「書き物かね?」


「考え事だよホームズ……」

「じゃあ、僕は、またあの扉の向こうに行ってみるよ!」


 そう言って、女主人の許可が下りたとホームズはうれしそうに、あの扉の向こう側に消えた。どうせまた床に転がされるだけなのに。



 言われてみれば当たっているような……自分の仕事も寝食も、なにもかもすべてホームズの都合を優先して人生を送っている。


 しかしながら、しかしながら、少なからずショックだったのである。

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