第35話
悲鳴に紛れるように、七竈と私は、席から立ち上がった。財布から一万円札を数枚取り出して、テーブルに叩きつける。そうして、七竈は躊躇せず店の外に出た。異常の中では、異物も自然に見えるらしい。誰も私達を咎めることはなかった。人々の中に紛れ込んだあと、私達は駅の改札口まで歩いた。パトカーのサイレンが煩わしかった。
「さて、行くか」
目の前の信号機が赤になった頃、ふと七竈はそう言った。
「行くって、何処に」
「お前の妹がいるところ。とりあえず一回、関わってるかどうかだけでも確定させたい。運が良ければその場で蟲の被害がひとつ減るかもしれないぞ」
「病院に……行くんですか」
「入院してるのか。もしかして附属病院か?」
「はい、そうですが……今からじゃもう、面会出来る時間は過ぎてますよ」
改札口の時計は夜の八時を過ぎていた。病院は既に受付を緊急外来に絞っている頃だ。私が首を横に振っていると、七竈は眉間に皺を寄せて、溜息と共に言葉を吐いた。
「誰が馬鹿正直に正面から顔合わせに行くんだよ。お前、妹に死体だの呪いだの贈られてるんだぞ。あっちだって警戒してるに決まってるだろ。マンションにまで怪異を侵入させたんだ。あちらも今、僕が一緒にいるのもわかってるし、お前が先生に頼ったのもわかってる。普通に会いに行けば、たとえ面会可能時間でも拒否される可能性が高い」
不快感を露わに、彼女は前髪を掻き上げる。毛穴の見えない白い肌が、駅の光を反射させる。彼女が言えば、全てが正しいように見えた。
「正面から行って逃げられるなら、横から行くしかないだろう。何より、附属病院なら、今の時間でも入る伝手はある」
そう言って、七竈は手を上げる。二、三拍を置いて、一台のタクシーが私達の前に停まった。催促される前に、私は七竈の跡を追って、車内に身を投げた。狭苦しい後部座席は、息が詰まるような、独特な消臭剤の匂いがした。運転手に行き先を伝えた後、七竈は私に目を向けることはなかった。
「七竈さん」
私が声をかけても、彼女は窓の外を見るばかりで、返事すらしなかった。「あの、すみません」と言っても、彼女はやはり何も言わない。それが少し不思議で、肩を叩いた。ふと、スーっと鼻から抜けるような吐息が聞こえた。
この一瞬で、七竈ハラヤは眠ったのだ。私への説明も、妹に関する情報を聞き出すということもせず、ただ黙って、寝た。あれだけ食べても膨らまなかった腹が、上下している。彼女は私の声にも反応しないほど、熟睡していた。
駅前から病院へは、桑実に連れられた時を思い起こすと、今の時間であれば、三十分程度で着くはずだ。それまで眠らせてやれば良いのか、早めに起こせば良いのかがわからない。私だって眠い。低血糖と、リズムの整った七竈の吐息が、酷く安眠を誘うのだ。私まで眠って、彼女から怒りを買うのではないかと、喉が塞がった。
「お客さん達、お疲れですか。着いたら起こしますよ。さっき近くで事故か何かあったみたいで、渋滞が酷いもんでね……申し訳ないんですが、ちょっと時間かかりそうですよ」
私が目を擦っていると、運転手がそう言った。すみませんと一言置いて、私は目を瞑った。意識は、静かな海に身を投げるように、抵抗感もなく沈んでいった。
――――白い、白い、羊水に、沈む。
そうして数時間ぶりに見る夢は、相も変わらず、孤独と幸福に満ちていた。先程まで確かに、私はタクシーに乗っていた筈だった。延々に続く自宅の天井と、障子の向こうから満ちる白い光。全てが夢であることは理解している。だから時間の制限もなく、私はこの僅かな幸福を貪ろうと思えた。
温泉にでも浸かるように、私はずっと、天井を見ていた。目を瞑ってはならない。光を網膜に焼き付けることこそが、快楽の一部だった。鼻で静かに呼吸をする。肺に酸素が入る感覚は、無かった。
数時間程経っただろうか。ふと、音がした。
――――スリ、ズリ、ゴリゴリ。何かを引きずる音。その裏に聞こえる、硬い何かを削る音。
――――グチ、ゴチャ、キリキリ、ブチャン。細かい金属音と、それを覆う、ハンバーグを捏ねるような音。
幸福感は打ち消された。私の把握していない何かが、多数の音を伴って、やって来る。
上半身を起こした。辺りを見回す。私以外存在しない部屋。たった一人の私のための場所。背後の仏壇に異常は無い。音以外に、特段の異物は無い。それでも、その音が、私に近づく何かが、不快で仕方がなかった。
誰? と声を上げる直前で、視界の端に、もう一つの異物を見つける。
障子の向こう側。赤い手形が、和紙に透ける。いつの間にか、白い光の中に、赤い線が伸びていた。その赤い線を伸ばしていく黒い影を、眼球の動きだけで追う。
人間がいた。私と同じくらいの背丈。けれど髪は肩につくかつかないかでバッサリと切られていて、私ではないことは明らかだった。細身で丸みがあるが、少女ではない。どちらかと言えば、無性的だった。
人影は私のすぐ近くまで歩くと、足を止めた。障子越しに私を見ているようだった。
「はなくわいつき」
はっきりとした声。それは私の声によく似ていた。人影は、私に目と口を向けていた。
「お前らが蟲ではないと、丸々太った蚕ではないと言うのなら、お前らは」
障子が開く。赤くなった手で、それは私の空間に入り込んで来る。
隙間から見えた黒い真珠の瞳。私はこれを見たことがあった。
「人間らしく、自ら求める相手を探さないのは何故だ。あんなにも近くにいるのに、何故、会いに行かないんだ?」
軽蔑の眼差しは、障子の隙間から私を見下ろす。手には薪割り斧。足元には、腕を捥ぎとられ、脳天をかち割られた『私』が幾人も落ちていた。
「所詮お前らは、神ですらない。蟲だよ。フェロモンを撒き散らすしかない、害虫」
そう言って、黒髪で小柄の少年――――七竈ハラヤは、私の頭に薪割り斧を振り下ろした。
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