第36話

 脳髄を畳に広げた感覚で、目を覚ます。首周りが汗で濡れていた。眼球が震える。タクシーの内部は、暖かなオレンジの光に満たされていた。それだけで、少しの安心感が肺に酸素を送る。数秒、短く息を吸った。


「起きたな」


 隣では、足を組んだ七竈が、財布を開けていた。彼女は白髪で少し長身の女性に戻っていた。これは現実だった。夢の延長ではなかった。その事実を飲み込んで、やっと、ゆっくりと鼻で息が吸えた。


「お客さん、具合が悪いなら救急外来まで車つけますけど……」


 運転手がそう言って、私の方を見る。私が否定をする前に、七竈が手にあった二万円を叩きつけた。


「釣りは要らん。面倒に巻き込まれたくなければ、今すぐ扉を開けろ」


 彼女は既に、私を引きずろうと腕を掴んでいた。気迫に押された運転手が、急いで扉を開ける。七竈は実に滑らかな動作で、私を夜の袂へ誘った。腕が痛い。暗くてよく見えないが、内出血くらいは起こしているだろう。私達が外に出たことを確認すると、タクシーは逃げるように遠くへ走っていった。それを見届けると、七竈は「行くぞ」と一言置いて、迷いなく道を進んだ。その経路には覚えがあった。周辺だけで察するのであれば、ここは桑実とも通った、職員員出入り口の近くだった。

 歩を進める間、七竈は一言も発さなかった。夢で見た彼女――――否、彼は、何だったのか。問おうにも、答えてくれる気配がなかった。口を閉じて、疑問を飲み込む。私は待つ以外の手法を持っていなかった。

 病院内は消灯時間らしく、ナースステーションや事務室と思わしき部分以外、窓は暗く、遮光カーテンで閉じられていた。そのどれが妹の病室かは、外からはわからなかった。


「今、外にいます。入れてください」


 七竈はスマホを片手に、誰かにそう言った。目の前には職員専用の出入り口が控えていた。青緑の無機質なライトが、細い廊下を照らしている。分厚い硝子扉を前に、私達は立ち尽くす他なかった。


「僕じゃなくて、先生の頼みでもあるんで。ちょっと入院患者一人と顔合わせるだけですよ。面倒は起こしませんから」


 スマホからは、少し荒んだ女の声が聞こえていた。多分、ここの職員なのだろう。数秒後には溜息を吐いて、「借り一つだからね」と呟いていた。

 七竈がスマホをポケットに入れて数秒後、硝子越しに一人の女性を見る。遠くから見ても、その立ち姿だけで、疲労感が伝わる。白い服装は、見慣れた姿だった。


「すみません、霧子さん。二十分だけですから」


 霧子と呼ばれたその女性看護師は、眉を顰めながら、七竈と目を合わせた。墨で塗りつぶしたような瞳が、ギョロと動いて、私を見る。化粧の濃さは、酷い隈を隠すためだろう。彼女は粉の浮いた頬を動かして、口を開いた。


「本当に二十分だけよ。問題が起きたら処理するのこっちなんだから」


 ガラガラの枯れた喉で霧子は言う。七竈に引きずられて、私は前に出た。


「僕は何か問題になるとは思ってませんけど、こいつとこいつの妹次第ですね。何かあっても僕の責任ではないです」


 そう切り捨てて、七竈は私の背を押した。呆れた表情の霧子と、顔を見合わせた。彼女は私をジロジロと観察した後、より険しく表情を変えて、目を逸らした。


「どの部屋に用があるの? 大部屋はやめてよね。個室だとありがたいんだけど」


 霧子はそう言って、七竈を見た。その視線を転送するかのように、彼女は私に目線を送る。


「あ、えっと、花鍬地楡という患者なんですが、個室だった筈です」

「花鍬地楡? あぁ、あの患者ね。了解」


 髪を掻き上げる霧子は、そのまま私達に背を向けた。足音を殺す彼女に習って、私もまた、出来る限りの静音に努めた。


 人の気配を嗅ぎ分けながら、エレベーターに向かう。夜の病院というのは、こうも異界感の強いものだったのだろうか。僅かな風の音でさえ、背筋が冷えた。淡々と進む七竈や霧子がいなければ、途中でうずくまって、朝を迎えていたかもしれない。暗くて見えはしないが、病院内にはおよそ似合わない、羽虫のブーーーゥンという羽の音が、耳元でさざめいていた。人目につかないようにと、気配を殺せば殺す程、蟲の気配が全身を覆う。小さな剣山で突かれるような痒み。増える羽音。布か、葉を食む芋虫の心音。私は目を瞑っていた。暗がりで意味はないが、出来るだけ情報を減らすために、視界を捨てた。


「この部屋よ。二十分経ったら声をかけるから」


 霧子はそう言葉を置いて、立ち止まる。目を開くと、扉があった。七竈が「どうも」と小さく呟きながら、その扉に手をかけた。私はそれに続いて、暗い部屋の中に足を踏み入れた。

 消毒液のきつい臭いが、鼻腔を刺す。それらに混じって、熟れた果実の香りが判断を鈍らせる。扉の隙間から僅かに漏れる廊下の光だけが、この部屋に明るさをもたらせていた。電気を点けるわけにもいかず、数秒、暗闇に目を慣らす。小さな光に頼る視界は、色彩が無かった。


「お前が花鍬地楡か?」


 ふと、七竈がそう喉を鳴らす。彼女の声が向かった先には、大きなベッドがあった。そこで眠る者はいない。病人である筈の少女は、上半身をこちらに向けて、その弱った目で私達を見ていた。

 小さく「は」という短い笑いが、病室に響いた。


「夜の乙女の部屋に入り込むなんて、悪い人ね。化粧の時間くらい、待つのが紳士というものよ」


 ゆっくりと、少女は語る。溶けて張り付いた皮膚を無理に動かしながら、彼女は笑っていた。

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