第34話

「口を閉じろ。漏れてるぞ」


 七竈の言葉で、咄嗟に手で口を抑えた。目の前では幼虫が元気に暴れ狂っていた。通路を歩く店員が騒ぎ立てないのを見ると、やはりこれは、怪異なのだろう。一緒になって、胃内容物もぶちまけてしまいそうだった。けれど、私の腹の中は既に空で、胃液が喉を荒らすだけに留まった。


「願望という夢から産み落としたのが夢蟲。であるなら、この蟲はなんだろうな」


 フォークの先が、幼虫に突き刺さる。七竈はそのまま、蠢く蟲を前歯で二つに切り分けた。赤い体液が、おそらくは人の血のようなものが、彼女の歯にこびり付いていた。動くのを止めた幼虫をまじまじと観察した後、彼女はそれを全て口に放り込んだ。口直しのディニッシュを噛み締める。そんな七竈に、私は口を開いた。


「蟲を産んでいるなんて、そんな。私は、蟲に襲われていて」

「被害者面を見せるのは後にしろ。現状、お前に対して明確な敵意を示している蟲は、百足と、あのフナムシ女くらいなもんだろ」


 私の発する言葉の全てを、彼女は否定する。議論と呼ぶには私が無知過ぎた。多分、七竈は正しいのだろう。感情の無い、知識と経験に裏打ちされた彼女の言葉の方が、圧倒的に、客観性を保っている。今は彼女の視点に頼る他ないのかもしれない。先生以上に、七竈が曲線の少ない「解」を持っているのは確かだった。


「事の経緯は韮井先生から聞いている。先生だってわかっていた筈だ。蟲はお前を襲っているもの以外に、二つ存在している」


 そう言って、彼女はメロンソーダを飲み干した。氷とストローでカラカラと手遊びを交えながら、次の皿に手を出した。口内が食材で埋め尽くされては、空になる。その度に彼女は言葉を吐いた。


「一つはお前が産んでいる蟲。耳から出た芋虫だのは、これだな。二つ目は他の怪異が蟲に見えている状態。これは先生が説明しているだろうが、花鍬樹の特性だ。認識を歪めているんだろう」


 先生の言葉をなぞるように、彼女もまた、指で机の表面をなぞった。恐らくは、先生が彼女に全て話しているのだろう。耳穴の不快感を思い出して、むず痒かった。


「問題は敵意を剥き出しにしている蟲だ。確実にお前以外の誰かが産むか作るかして、お前に送っている。心当たりはあるか」


 そう言われて、脳を巡らす。敵意、恨み、その全てを私に見せつける誰か。答えは数秒で決まった。


「妹が」


 妹の顔を思い起こす。彼女の爛れた顔面と、そこから突き刺さる眼光が、記憶を介して痛かった。


「妹が、います。多分、彼女は私のことを、凄い、嫌っているから」

「妹とは何かあったのか」

「母が焼身自殺した時、私だけが無傷で、妹は全身に火傷を負ってしまって。可愛いのが自慢でしたから。その……私がのうのうと生きているのが、嫌なんだと思います」


 数秒置いて「ふうん?」と七竈が鼻を鳴らした。どうも、納得は行っていないように見えた。否、納得がどうのというよりも、何か考えが浮かんでいる表情だった。

 七竈は片手間にフライドポテトを口に放る。炭水化物と油を全て飲み込むと、肘をつきながら口を開いた。


「妹は怪異について詳しそうだな」

「それは、どうして」

「お前に恨みを向けた結果産んでしまったというよりも、明らかに悪意を持って、明確に望んで、蟲を産み出している。さっきのフナムシなんかはどっかから死体を持ち出して、それを使っていたようだしな」


 死体を使う。ふと、掘り返された男の死体が思い浮かんだ。天井裏にあったかもしれない死体。私が埋めた筈の死体。

 韮井先生は言っていた。きっと、妹だけでは出来ないであろうこと。

 敵意と、敵。父と祖父の顔が浮かぶ。妹ばかりを可愛がって、私に何もしなかった、あの男二人。私が弄ばれても、そういうものだと放置した、あの人達。もしも、妹が、私にそういった「嫌がらせ」をしたいと言ったら、彼らは協力するだろうか。死体を使うなどと言う彼女の話を、信じて、刑法にすら触れることを、やってのけるだろうか。

 自問自答の肯定が、頭を覆う。頭蓋骨を振り乱して、私は七竈の言葉の、その続きを待った。


「死体を使って、怪異……敢えて言うなら呪い、呪詛を作る。そういう技術があるんだよ。やってることはアレだ、見たら死ぬ絵とか、知るとよくないことが起きる話とか、そういう不安を煽るものと、とても似ている。だが、こっちの方がより怪異の世界に踏み込んでいて、意図的且つ猟奇的だ」


 と、先生なら言うだろう。と、七竈は前置きして、私から目を逸らした。


「妹ってことは、まだ十代なんだろ? それにしては付け焼き刃という訳でもない。嫌がらせの手札選びも良い。ほら、来るぞ」


 そう言って七竈が窓の外を見る。私も同じ方向に目を向けた。その瞬間、視界の上から白い物体が落ちた。肉が弾ける音と、硬い骨が砕ける音。一瞬止まった時間。皿を片付けに来た店員が悲鳴を上げたことで、これが現実と理解出来た。血が広がる様子はない。降ったのは、白シャツを着込んだ男の死体だった。


「血筋を考えれば、母親か、祖母さんか。そうでなければ、別の人間か。どれかはわからないが、技術と教養を与え、お前の妹とやらを導いた誰かがいる。ついでに、死体を集める従僕もな」


 連鎖する驚嘆の中、七竈だけが手元のパフェを平らげて、欠伸をかいていた。それを視界の端に入れながら、私は、窓の淵に集まる雀蜂と目を合わせていた。

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