第33話

 明るい店内は、夜の食事を楽しむ人間で埋まっていた。七竈は迷いなく店員に案内をさせ、周囲を気にする素振りもなく、椅子に腰を落とした。大きな溜息を吐きながら、彼女は躊躇いもなく店員の呼び出しボタンを押す。そのまま流れるように、サラダからメイン、デザートに至るまで、殆ど全ての品をオーダーしていった。ただ圧倒されて、私は口を開いていることしか出来なかった。あの柔らかく細い体の何処に、それだけの量が入っていくのだろうと、想像力が追いつかなかった。暫くそうやって、呆けているうちに、簡単なものからテーブルが埋められる。目の前に出された皿から、丁寧に、且つ迅速に、七竈はそれらを空にしていく。


「お前も食え」

「持ち合わせが無いので」

「まとめて会計して、後で先生に請求する。そんなもの気にする意味は無い」


 彼女が先生と呼ぶ人は、韮井先生だろうか。見たところ、かつての教え子だとか、そんなところかもしれない。その先生が、私に彼女を紹介したのだ。頼るべき相手ではあるのだろう。それでも、私の中で、彼女に対する不信感は、暴力性の発露を伴って、どうしても拭いきれなかった。


「七竈さんは、夢に関する怪異を研究しているとお聞きしましたが」


 私が顔を近づけると、彼女はぴたりとフォークの動きを止めた。口元まで運んだ肉の汁が、皿に落ちる。一拍置いて、七竈は「で?」と続きを催促した。


「私のこと……蟲の怪異とは、どうもかけ離れているような気がするのですが」


 私の無知故かもしれませんが。と付け足す前に、七竈は食べかけの肉を口に運び、喉に通した。食事を再開したまま、合間に私を睨みつける。それだけで、何故だか、私は発言権を奪われた。反論も質問も許されない。私はただ、目の前で減っていく料理と、七竈ハラヤを見ているしかなかった。


「夢は怪異が現実に紛れる手段だ」


 額に指を置く。その先はおそらく、脳を表しているのだろう。夢を見るのは眼球の裏ではない。脳だ。だが、彼女が発する言葉の一つ一つは、科学と一つ壁を隔てた向こうのことだった。


「怪異が夢を見せる、夢を怪異が食う、夢から怪異が発生する……夢を伴う怪異は、毎日発生して、毎日消えていく」


 怪異は消える。死ぬという言葉を使わないのが、どうしても気になった。先生も、彼女も、怪異がどんなに人間のような意思や感情を持っていたとしても、人間より下だと見ているのだ。恐らくは、死体が出るか出ないかの違い程度しか無いだろうに、どうしても分別をつけたいようだった。


「怪異にとって、夢を現実に引き出したって、なんら不思議なことじゃない」


 鋭かった眼光が、ほんの僅かに弱まる。脱力を許可され、私は小さく息を吐いた。今なら、彼女に口答えの一つくらいはできる気がした。私の様子を確認すると、七竈は私の前にホットケーキを置いて、珈琲を啜った。


「夢蟲だって、それらの延長線上にある」

「夢蟲というのは、綴のことですか」

「個体の識別名称なんて出されても、僕が知ってるわけがないだろ。夢蟲だって先生と話している時にポンと考えただけの、適当な固有名詞だ。イコールで結ぶなら、そうだな、夢蟲とは、花鍬家の女が産み落とす『願望』の塊のようなもの」


 研究をしていると言うにはどうにも大雑把な発言だった。嘘で着飾らないだけマシだろうが、どうしても、彼女の言葉の、その輪郭を掴むのが、難しくて仕方がない。少し近づいたと思えば、こうして突き放し、こちらが理解しているかどうかは二の次だと言うように、話を続ける。先生とも違う掴みどころの無さが、少しだけ怖かった。


「願望であり幻想であるなら、それは夢だ。夢から産む蟲。だから夢蟲。これまでに確認されただけでも、数十匹。花鍬樹が産み、周囲の現実すら捻じ曲げて、現実に存在した」


 二口目の珈琲を喉に通すと、彼女は下を向いたままそう言った。


「中には人間と子供を作り、老いて死んだ者もいる。それらは人間になったと言って良いだろう。子孫も存在している。怪異の関係者ではあったそうだから、完全にとはいかないのかもしれないが……怪異から人間に成り上がった数少ない事例だ。吟味する価値は十分にある」


 老いて死ぬ。それを、七竈は大切そうに口で転がしていた。光を通さない黒真珠の瞳が、私の姿を反射させていた。自分が老いる姿を、想像出来なかった。けれど、綴の姿だけは、何故か頭に浮かんだ。優しい丸い顔の老婦人。これは願望だろう。それこそ、そうであって欲しいという夢かもしれない。私は、いつの間にか頭を掻きながら、目を瞑っていた。


「だが、これは夢蟲が人間になるという可能性の話であり、お前が怪異から人間になって、蟲に襲われなくなるという話ではない。夢蟲を産んだ者が人間になれるかなんて、それは、まだわからない。そもそも成り立ちが違うんだ。お前の方は一生そのまま、蟲に襲われ続けて、最後は頭からバリバリ食われるのかもな」


 溜息を交えながら、七竈はそう言い放った。私がそれに反論を返そうとした時、彼女は無表情のまま私に目を向けた。


「いや、違うな。周りが食われるのか」


 唐突な言葉に、出掛かっていた声が、喉で詰まる。どういうことだと口を開くと、また声になる前に、七竈が呟いた。


「蟲を産んでいるのはお前だもんな」


 自分の体の、全てが一度、止まったのがわかった。同時に、ボトンと何かが落ちる音がした。恐る恐る、私の前にあったホットケーキを見下ろす。

 厚い炭水化物の上では、小学校の頃に見たような、カブトムシの幼虫が、メープルシロップに塗れて踊っていた。

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