第17話

 暖かな光と、眉を顰める桑実の顔で、日常を取り戻す。紙魚の大群は手指から消えていた。自分の手で喉を締めつけながら、口の端だけは上げ続ける。私と桑実はどちらも無言ではあったが、対話として成り立っていた。桑実は私が洗面台で何かを見たというのを、理解していたらしかった。彼女は私の肩に手を置いた。ヒールを履いていない彼女は私よりも背が低く、必然的に私を見上げる形をとっていた。桑実の手はそのまま私の顔を包んだ。フライパンを洗っていたのだろう。彼女の手は僅かに湿っていた。指先は冷たく、手の中央は確かに熱を保っていた。


「大丈夫、大丈夫だから」


 息が揺れる私に、彼女はそう言った。私が視線をずらしても、彼女はずっと私の目の奥を見ていた。


「ここは安全だから。大丈夫、貴女に蟲が見えたとしても、それが貴女を害すことはないのよ。ここには危ないものなんて一つもないから」


 赤児をあやすように、桑実の声が響く。次第に熱を取り戻していく彼女の指先が、熱かった。私はやっと、空気と唾を一緒に飲み込んで、正常な息を取り戻した。喉に気泡が通って、そうして、最後に、声が出た。


「すみません、取り乱しました」


 自分から意味のある言葉が出たことに、酷く安堵してしまった。桑実の手が離れる。一瞬、母親の様だった彼女は、今は保健室の先生の姿に戻っていた。快活な表情で私を見上げ、キッチンの方へと戻っていく。私は手櫛で髪を整えて、私もそちらへと足を向けた。指示語と了承の応酬で、私達は朝食の準備を終えようとしていた。


「暗いと怪異は活発になるらしいから、出来るだけ明るいところにいるのが良いのかもね」


 食卓に全てを出し切って、椅子に座る。その途端に、桑実がそう微笑んだ。


「外で日光に当たる、明るい部屋で友達と喋る、美味しいご飯を食べる……とかが良いって、先輩達に言われたわ」

「何だか精神科の生活指導の様ですね」

「まあ、似た様なものだしね」


 桑実曰く、怪異と精神病は深い関係にあるという。そもそも、怪異とは人間の認識の副産物――――要は、世の事象を正しく説明出来なかった時代、人間達がそれを納得するために生み出したのが、神や霊、今の私達が怪異と呼ぶもの。人間が「ある」と思えば、その存在は人間の認知世界に「ある」のだから、その時代、確かにそれら超常の存在は「いた」のである。そして現代になって、科学や哲学が発展し、世の事象は摂理を得られる様になっていった。だが、それでもかつて人間が「ある」としたものは失われなかった。故に、現在は「怪異と科学」が両立しているのだという。

 それは例えば、かつての人間が狐憑きだとか犬神憑きと呼んだものが、実際には脳の疾患であったとして、しかし現在も昔と同様の「狐」「犬神」という怪異に憑かれた人々は実際に存在している、というようなことらしい。だから、怪異への対処は、時折、そういった医療措置と被るのだという。


「私も実家が怪異に関わっていたの」


 どうやら息子はまだ降りてこないから、と、彼女は小さな声で囁いた。


「知ったのは二年くらい前なんだけどね。そういうのを知る前に、私は家を出たから」

「二年前に何かあったんですか」

「兄が死んだのよ。実の息子に顔がわからなくなるまで殴られて、殺されて、住んでいた屋敷には火を放たれて……まあ、そうされて、然るべき男ではあったけれど」


 彼女はそう言って遠くを見ていた。その惨状を、何処か、ニュースか何かで聞いた覚えがあった。酷く遠い、ファンタジーのような何かとして、覚えていた。


「兄には後妻がいて、連れ子も二人いたの。義姉も兄と一緒に死んでしまったし、その連れ子は遺産も何も全て要らないと、権利も名前も捨ててしまって。だから全部、私のものになっちゃって」


 手を広げて、肩を竦めて見せた。彼女の言う二年前は、やはり遠く、現実感が無かった。ただ、夢のような話に慣れてきていた私は、それを黙って聞いていた。


「その時に韮井先生と出会って、色々話を聞いたの。兄がしていたこと、甥っ子が神様――――怪異になってしまったこと……私や息子もそうなる可能性があること」


 淡々と言う彼女の、手が、震えていた。


「私の母親は、自身の父親から、私を産んだのよ」

「えっと、それは、どうして」


 それが怪異と何が関係するのかと、声を出しそうになって、止めた。結論を急ごうとする私に、桑実は苦く笑う。


「私の実家はね、神様を作ろうとしていたそうなの。その手順に、近親相姦があったんですって。それ以外にも色々あったみたいだけど……そんなことを知るより前、十四歳で私はあの家を出たから、ずっと何も知らずにいた」

「何ともお若い時に……養子にでも出られたんですか?」

「違うわ。私、十四の時に藤馬を産んだのよ」


 一瞬、持っていたマグカップを落としかけた。反射的に手に力が入って、体勢を取り戻す。そんな私の様子に、桑実はコロコロと笑っていた。


「そんなに驚かないで」

「驚きますよ。あり得ないじゃないですか、普通は」

「あら? 言ったでしょう、私の実家、怪異に関わってたって」

「それとこれと、何が繋がってるんですか」


 声が一瞬、翻ってしまった。何処かで私はその答えを知っている気がして、否定したかったのだ。

 しかしそれは、笑う桑実に掻き消された。


「生まれつき怪異に侵されている私達が、どうすれば普通でいられるというの?」


 全てを諦めたような、重鈍な暗い瞳が、私を見ていた。私はこの目を知っている。韮井先生が、私を彼女に預けた理由が、分かった気がした。今、私が求められているのは共感なのだろう。彼女はいつか私が直視するかもしれない、未来の私だった。

 それが全て分かった瞬間に、私は息を吸った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る