三章 顔

第16話

 白い光が、泥の様だった。四肢は重く、頭が動かない。固まってしまった筋肉で、一点を見つめ続ける。これが夢なのか、それとも微睡の中なのかはわからない。ただ、現実ではないだろう。私は桑実の家で眠っていたのだ。だというのに、私の目には、生家の天井が映っていた。部屋は明るいが、相変らず光源は見当たらない。そんな無限に続く空間を照らすのは、障子の向こうに存在し得る、色のない月だろう。


 ――――一体この夢は、何だろうか。

 白い空間とモノクロームの視界。虚無感と全能感。私以外の誰もいないという孤独感と、誰かを待っている期待感。

 生家の夢のことは、先生にも誰にも言っていない。蟲と関係している確信はある。けれど、蟲への嫌悪感に反比例するように、ここは幸福に満ちていた。きっと、先生達に言えば、蟲の根絶と共に、この夢を見ないようにしてもらえるのだろう。蟲のいない世界を犠牲にしても、私はまだ、これに浸かっていたかった。

 

 体感時間というものは、既に喪われていた。天井を見上げながら、ずっと何も得ない幸せを啜っていた。


「まだ来ないのね」


 ふと、私の口からそんな言葉が漏れた。誰を待っているのか、私にさえわからない。けれど、誰かを待っているということだけはわかっていた。ここが、この夢が、その待ち人のための場所だということも、理解していた。


「ずっと、待っているのにね」


 私は、眼球だけを動かして、部屋の奥を見た。障子の反対側、光が消えていく薄暗い部屋の角に、彼女達はいた。


 ――――私と同じ顔、同じ体、同じ声、同じ感情の女性達。或いは、私の母と祖母、ずっと前の私達。

 古い私に微笑みかけながら、私は目を閉じた。



 もう、太陽がやって来る時間だった。他人の家のベッドというのは、こんなにも眠れるものだったか。清潔な白いシーツが心地良い。自宅のベッドは、使い慣れたと言えば良い響きだが、悪く言えば、使い古されているというのが正しい。虫除けの匂いが染みた布団も、悪くはなかった。

 目覚めに歪んだ視界で、枕元に置いたスマホの画面を見た。時刻は朝の六時で、遅くはない。ただ、少々、他人の家で目覚めるには早い気もして、私は、トイレに行くふりをしながら、客間の扉を開いた。

 桑実家の家は、医者の家庭ということもあってか、一般的な家庭よりも広々とした一軒家だった。部屋数も多く、桑実曰く、夫の両親がたまに泊まるために、いつも客間は整えてあったのだという。そんな客間の外も内も、ただ静かだった。唯一、生活音が聞こえたのは、下の階のリビングキッチンだった。スリッパをフローリングに擦り付けながら、私は冷たい廊下を歩いた。

 薄暗い廊下に、一本だけ光の筋が走っていた。リビングキッチンの扉を開ける。私がおはようございますと声をあげるより前に、桑実が振り向いて、笑った。


「おはよう。よく眠れた?」

「はい。お陰様で」

「それは良かった。韮井先生は十時くらいに来るらしいわ。ゆっくり朝ご飯食べましょ」


 キッチンに立つ彼女の姿を見れば、成程、彼女も母親なのだなというのがわかった。桑実の有り様は、物語で見る母親像そのものだった。母が私に興味を持たず、私自身と関わりの多い人ではなかった分、彼女の動きや言葉は新鮮だった。息子である藤馬君のことを語る様子や、夫のことを笑う快活さが、私には少し毒だった。

 そうして相槌を打っている間に、香ばしいパンの香りが鼻腔をくすぐった。焼けたトーストとジャムを数種類置いて、桑実はまた笑った。


「そろそろ藤馬も降りてくるし、洗面台で顔を洗っておいで。洗顔料でもなんでも、使って大丈夫だから」


 私は頷いて、それに従った。時刻は七時を回っていた。未だ、藤馬君が降りてくる気配は無い。母親である桑実の話では、朝には弱い方だという。

 廊下に出て、洗面所を探す。昨晩、風呂に案内された時、脱衣所と同じところにあったのを覚えていた。少し摺り足気味に、足音を減らした。半開きになった扉が見えて、その隙間から鏡に映る自分の顔を覗いた。洗面台には、家族それぞれの歯ブラシと、洗顔料が整理されていた。隅に置かれていた洗口液に手をつける。自分の歯ブラシがないのだ、仕方がない。洗顔料は押せば泡で出る手軽なものだった。泡と顔を擦れば、花の香りが漂った。薔薇か、それともラベンダーか、あまり判断はつかなかった。水で濯いでも、匂いはずっと残っていた。タオルで顔から水分を奪い、鏡を見た。目元に隈は無く、疲れも見えない。朝の私にしては、明るい印象に思えた。


 ふと、昨日の朝の記憶が過ぎった。鏡を見る私、滴る水、耳から這い出る芋虫――――頭を振って、それらに霧をかける。深く、息を吸った。桑実が待っている。他人の家で倒れるわけにはいかない。フラッシュバックに対する考察など、実に無意味だ。

 鏡から目を逸らして、食卓へ戻ろうと、扉に手をかけた。背筋に冷たい雫が垂れた様な気がした。それに反するように、背中を下から上へ、這うものがった。動けなかった。無意識に叫びそうになっていた。口を抑える。頬に、細かい針のような痒みを感じて、そのままもう一回、鏡に目を向けた。不可抗力だった。口で息をしながら、私は、私を見つめていた。


 指先から、まるで水を入れられた蟻の巣のように、紙魚が溢れていた。カサカサと素早い銀色が、私の鼻の穴、耳の穴に入っていった。

 私は声を上げることも出来ないまま、早足でリビングへと向かった。上がった息と、顔をぐちゃぐちゃにして戻ってきた私に、桑実が目を丸くしていた。

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