第15話
「私が知っている中で最も幼い樹は、中学生の頃の彼女です。彼女がいなければ、私は死んでいました」
菖蒲さんは、淡々と、それでもなお少々の熱を持って、語り始めた。
彼女の語る花鍬樹は、僕達の印象とは異なっていた。大人びていることに変わりはないが、より冷淡だった。怯え、恐怖、痛みといった概念が、表面上だけで存在するような精神性。自らを支配しようと迫る男達を、逆に黙らせてしまう口と頭。何かがズレている、そんな印象を、何故だか楽しげに語る菖蒲綴。間違っているとは言わないが、歪んではいる様に見えた。
エンジンが温まっていくように、菖蒲綴の皮膚は赤くなっていった。その口から語られる一つ一つのエピソードは、花鍬樹を称賛する様なものばかりになっていった。その姿に違和感が大きくなり出した頃、ふと、宗像さんが、煙草に火を点けた。
「つまり君は、花鍬樹を命の恩人だと思っているんだな?」
彼はそう煙を吐いた。宗像さんの反復に、菖蒲さんは頷いた。
「樹は、暴漢に襲われた私を、助けてくれたんです」
「先程、中学生の時と言っていたが、女子中学生が暴漢をどうにか出来るものかね。それに、その頃、この周辺で女子中学生を暴行した話なんぞ、僕は聞いたことがない」
「それは……あまり、大きく口に出せる方法では、ありませんでしたけど、確かです」
途切れ途切れに、彼女は言葉を選ぶ。その様子が、迷いが、酷く稚拙だった。拙い演技を見ているような感覚があった。
僕は叔父と無言で目を合わせた。菖蒲綴は嘘を交えているのではないか? その問いに、叔父は首を振って否定した。どうやら叔父から見て、彼女の言葉に嘘はないらしい。
「何を言っても、別に、まともな警察なんかが来ることはないよ」
だから、全部話してくれないか。僕がそう言うと、菖蒲さんは一度、宗像さんが吐いた煙を吸った。そうして、少し酔ったような、甘い表情で、再び言葉を吐いた。
「後ろから、薪割り斧で頭をかち割ったんです。私に覆いかぶさった男の脳天を、一撃で」
そんなことを言う彼女の、悦に浸った横顔が、焼き付く様だった。
「現場は樹の生家の敷地でしたから、死体はそのまま敷地の山に埋めました。だから私、樹と一緒に、あの家に住もうと思ったんです」
警察が来ることはないと言ってから、菖蒲さんは笑った。いや、確かに来ないというか、通報する気も無いのだが、こうも人道に外れたことを笑いながら告げられては、こちらも困るというものだった。
「そう、そうです。だから、桑実さんから、蟲が樹を襲っているらしいと聞いても、不思議じゃないなと思ったんです。百足を見た時も、あぁ、天罰かな、恨まれてるんだろうなって、思って」
何かを思いついた様子で、彼女は言葉を垂れ流し始めた。その時になってようやく、叔父が口を開いた。
「何故、百足と恨みを関連付けた?」
「だって、死体に群がるでしょう、百足は」
「百足は肉食だが、一般的に死肉を好む生物ではない筈だ。死体に群がる……人間の死体を好むスカベンジャーと言えば、蛆蝿、死出虫辺りだな」
「……勉強不足でした」
「違う。勉強不足ではない。お前、百足が群がる死体を見たことがあるんじゃないか」
叔父の畳み掛けに、彼女は一度、唾を飲み込んだ。そうして、誘われるがまま、言葉を落とした。
「五年前、樹のお祖母様の、葬儀で、死体を見た時に、居たんです、百足が。今日の樹みたいに、口に入り込んでいくのを見たんです」
それだけじゃない、と、彼女は止まらなかった。
「棺の中には蛇もいて、蛭がうねうね動いてて、眼球が動いたと思ったら、そこから蜘蛛が出て来て」
興奮が終わらない菖蒲さんの言葉を止めるように、ふと、宗像さんが笑った。
「最後に出てきたのは?」
「最後……最後?」
「そう。君が、その故人から見出した、最後の蟲は何だった?」
何処か優しげに言う彼は、その答えを知っている様にも思えた。ただ、それを言葉にさせることで、答え合わせをしているような、叔父に見せつけているような、そんな素振りだった。
「最後……火葬をする直前、見たのは、白い蛾。多分、あれは、蚕蛾だった気がする」
淡々と、そう吐くことで、彼女はやっと冷静に息をしていた。疲れたのだろう。先程までの頬の紅潮は、数秒で白く変わり、目は虚に向いていた。そういて息を整えているうちに、タイミング良く紅茶が運ばれる。それを一口飲んで、菖蒲さんは眉間に皺を寄せた。
「今、私、何言ってました?」
立ち戻った現実感に、光を取り戻した彼女の目が光る。冷や汗をかいて、彼女は自分の口を手で覆っていた。
「大変興味深い話をしていたよ。多少、支離滅裂ではあったが」
ケラケラと笑いながら、宗像さんは煙を吐いた。吹きかけられた煙に顔を顰めながら、菖蒲さんは彼を睨んでいた。
そんな彼女に、叔父が頭を掻きながら溜息混じりに声を上げた。
「だがまあ、何だ。話をしてくれて助かった。お陰で色々と見えたな」
「樹と百足の話でですか?」
「それに足して、お前と花鍬樹が殺した男と、彼女の祖母の話だ」
語っている自覚が無かったのだろう。菖蒲さんは目を丸くしていた。不味いことをしてしまったという不安でもあるのか、瞳孔が開閉していた。
そんな彼女を置いて、叔父は何か、独り言を呟く。僕にもそれが何だったかは、わからなかった。小さな言葉を飲み込んで、叔父は僕と菖蒲さんを見た。
「明日は家探しどころじゃないな。死体探しまでしなくちゃならん」
「僕らも着いて行ってやろうか」
「宗像達には別件でして欲しいことがある。明日は別だ」
そう言って、目の前の珈琲を飲み干すと、叔父は宗像さんにメモを渡した。宗像さんは成程と呟いた。そんな彼の様子に、再び口を開こうとして、叔父は一度、僕と目を合わせた。ふと腕時計を見て、彼は顎で僕の視線を誘導した。店内唯一の振り子時計に目をやる。針は既に深夜十一時を回っていた。未だ落ち着かない菖蒲さんに、「もう遅いから」と言って、僕は立ち上がった。意を決した様子で、彼女も立ち上がる。明日の打ち合わせを終えられない叔父達を横目に、僕達は店を出た。
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