第18話

 少ない酸素を、二酸化炭素と音声に変換して、吐き出した。


「私は貴女ではありませんから。これからどうなるかなんて、わかりませんよ」


 絞り出せた言葉が、それだった。それ以上のことを言ってしまうと、必要以上に彼女を傷つけてしまう気がした。それは、いつか辿るかもしれない自分を否定することと同じだった。私は私を守るために、不可侵を選ぶしかなかった。

 そんな最善を選んでも、桑実はテーブルに目を落として、ただ黙っていた。そうして、数秒が流れる。唐突に、彼女は目を細めた。


「そうね、その通りよ」


 桑実は再び「保健室の先生」に立ち戻る。コロコロと変わる彼女の表情に、少しの苛立ちがあった。脳の隅が震えて、侮蔑の感情が芽生え始めていた。


「意地悪してごめんなさいね。韮井先生から、話すようにお願いされたものだから」

「先生に?」

「あの人、笑ってたでしょう」


 右の頬を指で持ち上げる。桑実の顔が何を表していたのか、ワンテンポ遅れて理解した。昨日見た、韮井先生の引き攣った笑みのことらしかった。


「引き攣って笑っているときはね、大抵、何か悪いことを考えているのよ。あの人」


 気をつけてね、と、彼女は笑った。「でも全て本当のことだから」と付け足して、マグカップの珈琲を啜る。整えられた爪先に目が行った。行き違いへの安堵が、私の目線を、彼女の緩い眼光から遠ざけたのだ。


 私が桑実を真似て珈琲に口をつけると、同時に、廊下から足音が聞こえた。それは何かを引き摺っているようにも聞こえ、一人の少年が寝ぼけ眼で歩いていることを示していた。扉が開く。ぐちゃぐちゃのパーカーとジーンズが、ゆらゆらと動いて、食卓にたどり着く。洗顔もしたのだろう。濡れたままの前髪が、額やらに張り付いていた。そんな姿のまま、藤馬君は無言で私の隣に座った。否、実際には朝の挨拶くらいはしていたのだろうが、届く程の声量は出ていない。


「おはよう。ご飯の前に顔洗ってきたの? 珍しい」


 台所からタオルを一枚引き摺り出して、桑実が言う。息子の頭を拭きながら、彼女は微笑んでいた。


「花鍬さん、これじゃこの子、ご飯食べれないから。先に食べてしまって」


 私は桑実の言葉に頷いて、フォークを手に持った。トーストとスクランブルエッグを喉に通す。

 隣では、タオルで頭を包んだ藤馬君が、意識を失っていた。朝に弱いという言葉は、文字通りの意味であったのだと理解する。彼は既に目を瞑ってしまっていた。昨日見た彼の、色彩混じりの灰目を、拝むことは出来なかった。今日が休日で良かった、と、桑実が溢していた。


 私が皿を全て空にすると、桑実はそれらを全て食洗機の中に入れていった。食後の珈琲を、もう一杯貰って、再び椅子に腰を下ろした。

 と、隣の椅子がガタリと小さく鳴った。タオルが床に落ちる。


「おはようございます、藤馬君」


 色灰の瞳と、目があって、私は咄嗟にそう言った。再度大きく体を震わせて、彼は目を丸くする。


「お、おはようございます!」


 彼は床に落ちたタオルを拾い上げ、顔を覆った。どうやら先程まで私を認識していなかったらしい。動揺してあらゆる動作が粗雑になっていた。自然に、頬の筋肉が緩んでいるのが分かった。そんな私たちを、桑実もまた、微笑みながら見ていた。


「藤馬、ほら、早く食べちゃいな」


 母親の指示に気づいて、藤馬君はトーストに齧り付く。眼前にいる彼は、ただの少年だった。昨晩の腹の蟲のことすら忘れられる程、普通の子供に見えた。

 ふと、玄関のチャイムが鳴った。それを合図に、私の胃はグッと収縮する。誰が来たのかは、時計を見れば明らかだった。私は桑実と藤馬君に一礼して、席を立った。廊下に出ようとすると、桑実が私の後ろに着いた。


「忘れ物は無いわね」


 桑実の言葉に、ただ頷いた。唾を飲み込む。口に残った珈琲の苦味が、胃に収まる。消化という化学反応の始まりを感じながら、私は扉を押し開いた。


「おはようございます、先生」


 待ち構えていたのは、昨晩と同じ顔。少々高圧的な韮井先生、相変わらず蛇と蛭で包まれている識君。そして、少し不安そうに、私に声をかけたい気持ちを抑えている綴。先生のおはようという声を聞いて、私はそのまま綴に歩み寄った。


「おはよう、何か私より顔色悪いじゃない。大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫なんだけど、その、ね?」


 口籠る彼女の態度に、違和感を感じて、先生を見た。彼は桑実と何か話し込んでいて、その表情は分かりにくかった。


「少し、君に謝らないといけないことになってさ」


 上から降ってきた言葉は、識君のものだった。蛇の蠢く不快な生理的音声とその隙間、彼が苦笑いしているのが分かった。


「それは私を桑実さんの家に預けたこと?」

「もしかして、桑実さんに色々話してもらった?」


 無味な応酬だったが、確かに、韮井先生達は、私と桑実を対話させる目的があったのだと理解できた。私は「多少は」と呟いて、識君の目を探した。彼と確かに目があった。


「貴方達、綴に何かしたでしょう」


 腹から声を響かせる。確証は無い。ただ、識君の泳いだ目が証拠になり得た。眉間に皺が寄っているのが分かった。


「帰りがけ、喫茶店に寄って、インタビューをしただけだ。そう睨むな」


 桑実と会話を終えたらしい先生が、私達の間に入った。彼は視線と日光を遮り、私と綴を見下ろした。右手には車の鍵を持って、わざとらしく金属同士を擦り付けて、音を立てて見せる。


「感情を見せる前に、まずは、家探しでもしようじゃないか」


 そう笑う韮井先生の口角は、引き攣っていた。

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