第35話 孔雀花魁の苦悩

 その日の桜華楼は騒然としていた。

 そして騒動の発端は同じく花魁衆に格上げとなった紫紺しこんの一言からだ。


「姉花魁の孔雀花魁はそろそろもう寿命でしょう? すぐに怒るし、客からは"夜叉"なんて言われているからねぇ……フッフッフッ」

「孔雀姉さんはとうが立ってきてるからね」

「吉原に年増女郎は似合わないわよねぇ」


 するとそれを耳にしていたように、孔雀花魁が姿を現した。

 含み笑いをしつつ、そんな"年増女郎"に劣る自分達は何だ? とからかう。

 自分自身より若い癖に一向に旦那様からは座敷持ちにすら格上げされない安女郎なのだ。噂話をしている女郎の内、2人の女郎は。


「そうかい? そんな他人の噂話をしても貴女達の格は一向に上がらない。旦那様はよう判ってらっしゃる。貴女達を一向に座敷持ちにさせないで割床でさせているからねえ」

「からかっているの!? アタシ達だってそれでも生きているんだ! 例え割床だろうと!」

「ええ。知ってるわよ。貴女達の下品な喘ぎ声を毎夜聴いてるから」

「孔雀姉さん。それ以上はこの子達をからかわないでくださいます?」


 紫紺はさすがは花魁に格上げになっただけに、そこは穏便に反論する。

 彼女、紫紺花魁は薄紅花魁の同期で、薄紅が桜華楼へ入ってきた当初からの付き合いだ。なので紫紺花魁も薄紅花魁と同年代の少しだけ先輩でもあった。

 孔雀花魁は彼女達よりも2年前から桜華楼にてすぐに女郎としての教育の後に留袖新造として、かなりの間、燻っていた後にとある上客のお陰で振袖新造となり花魁まで駆け上がった女郎である。

 桜華楼は売上さえ好調ならば素直に留袖新造から振袖新造へ格上げさせる面は持っていた。

 桜華楼で割床でさせられている彼女らは一向に認められないと嘆くが、稲葉諒は生来の女性の気品を大事にする人物。田舎者はやはりどうあがいても身につけられないものはあると気付いているのだ。

 そこは男性ならでは、そして吉原で産まれ育った男性なりの嗅覚とやらで判るらしい。

 孔雀花魁はその気品を持っていたからこそ花魁まで駆け上がった女郎なのだ。


「紫紺。いつまでも彼女らに構っている暇はあるのかしら? 花魁になったのならもっと品性を大事になさい」

「何それ……まるで雑魚に構うなって言い草」

「雑魚でしょう? 旦那様は貴女達が死のうが代わりなら幾らでも代用できると考えてらっしゃるわ」

「言ったわね! このアマ! 花魁だからって調子に乗ってんじゃねえよ!! アンタだって薄紅に嫉妬している癖に!」

「そうよ! そうよ! 旦那様に色仕掛けしてお職花魁の座を射止めようとしている癖に!」


 色仕掛けという言葉は孔雀花魁には禁句に近い言葉だった。思わず彼女は怒りを剥き出しにして、安女郎の彼女らの頬を張った。


「何すんだ!? このクソアマ!」


 今度はその安女郎が頬を張った。

 その喧嘩が二階に響く頃には、夕月妙子が駆けつけて彼女らの喧嘩の仲裁に入るが、彼女らの言葉での罵倒は収まる気配はない。


「図星なんだ! やっぱり孔雀は旦那様に惚れているんだ! あばよくは旦那様に身請けして貰おうって腹だろ!」

「やめなさい! 孔雀! 落ち着きなさい! あんたらも孔雀を煽るのは止しなさい! そんなだからね、旦那様はお前たちには気品が無いって言い切るんだよ」

「うるさい! 妙子さんは黙っていて!! こいつら、私に対して赦されない侮辱を吐いたんだ!」


 安女郎をに往復ビンタをかます孔雀花魁。

 夕月妙子は後ろに回って両脇を抱えて、蛮行を辞めさせようと必死になり、そのうち若い衆も駆けつけ、一斉に事を落ち着かせようと、それぞれの女郎たちを引き離す。

 階下の一階で帳面を書く番頭の友蔵と会話を交わしていた稲葉諒は何事だと首を傾げる。


「一体、何の騒ぎだ? 上の二階のこれは?」

「遊女達の騒ぎはいつもの事ですが、何時もより長引いてますね」

「大方、お職花魁の座を巡る争いだろう。彼女らにとってはお職花魁は一気に花道を歩くのと同義だからね」

「旦那様。あの騒ぎはどうもそれだけの話でも無さそうですね」


 階下の一階にも彼女らの喧嘩の声が響き渡る。


「貴女達に私の気持ちを判ってたまるものですか! 旦那様に対する想いをお前らなんかに!」

「孔雀……。お前もか……」

「旦那様に想いを寄せる人は桜華楼では多いです。何せ、旦那様の色気の話で一度廃れた筈の桜華楼が返り咲いた逸話もありますしね」

「友蔵はそのことを直に観てどう想った? 変な色気の親父に見えなかったか?」

「不思議な色気とは想いました。でも、産まれを聞けば頷けるんですよね。半人半妖の楼主はあまり聞きませんし」


 二階の方の喧嘩は、喧騒の余韻を残して若い衆と夕月妙子の手により引き離す事で終わったに見えたが、妙子は孔雀に対して珍しく相談に乗る。


「一体、どうしたんだい? 孔雀。あんたらしくないじゃないか?」


 とある座敷にて二人きりで座り込む孔雀と妙子。

 孔雀は妙子に今の今までの想いを吐露した。


「妙子さん。悔しいよ、悔しい! 私が色仕掛けしてお職になれるならとっくにそうした! だけど、それをしなかったのは旦那様が気品を大事にするから! なのに! なのに! お職花魁に薄紅を! じゃあ今までの私は何だったて言うの!!」

「旦那様は孔雀が色仕掛けしないで正々堂々と勝負した事を評価しているよ。だから、裏では安本さんに掛け合ってお前の身請けをしてもらえないかと相談している」

「冷血な楼主だったらそんな事をするかい? 旦那様はお前の苦労を知ってるから動いているんだよ。それなのにお前がぶち壊したら元も子もない」

「お妙さん……私は、私は……だったら、一度でもいい…! 旦那様に抱かれたかった…!」

「……わかるよ。私も抱かれたかった」


 妙子は肩に抱いて嗚咽を上げる孔雀をなだめていた。

 孔雀は何処かで聴いた流行歌が静かな座敷に流れてくるのが聴こえた。


私は君にとっての空でいたい

哀しみまでも包みこんで

いつでも見上げる時は

一人じゃないと

遠くで思えるように

帰る場所でありますように


私は君にとっての空でいたい

哀しみさえも包みこんで

いつでも見上げる空は

一つでつながっていると

近くで思えるように


涙を失くすほど強くなくてもいい

疲れた心を 癒やしてね

私は君にとっての空でいたい

小さな子供のように

今は眠りについてね


帰る場所であるように


「この歌……何処かで聴いた流行歌」

「零無の流行歌だね。何だか落ち着くね。桜華楼には不思議な男が二人もいる。二人揃って不思議な色気に見える。孔雀が抱かれたいと漏らすのは真っ当な話さ」


 孔雀の荒んだ心に響き渡る流行歌は、まるで子守唄のように遠くの座敷から聴こえた。

 そこでは芸者衆が通し稽古として流行歌を唄っていた頃合いでもあった。

 しばらくその歌を聴いて段々と心が落ち着く孔雀。

 苛立ちも、恐れも、何もかも包み込む歌に彼女、孔雀花魁は想った。

 何を恐れていたのだろうか?

 私は旦那様にも、その方に近い人も、間近で見られる機会を貰っているじゃないか。

 下っ端の女郎達はそれすらも与えられる事もなく乱暴な男に抱かれる夜さえあるのに。

 私は……何を求めていたのだろうか?

 私は充分に美しい男達を毎夜、見ているじゃないか。

 

「さあ、孔雀花魁。今宵も孔雀のように艶やかに咲き誇りましょう」

「はい。お妙さん」


 涙を拭った孔雀は着物を変える為に自らの座敷へと誇らしげに戻り、そして今宵も春の宵が始まろうとしていた。

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