第34話 澱みに沈むは想いの花
花魁になって、まさに破竹の勢いで孔雀花魁に迫る売上と人気を獲得していく薄紅に孔雀花魁は苦虫を噛み潰したような気分だった。
あの薄紅の奴、振袖新造の頃から旦那様に目をかけられて桜華楼で生きていて、水揚げされてたったの1年そこいらで花魁になった。
孔雀花魁は水揚げされて3年目にして去年の夏に花魁となったのだから、薄紅の躍進ぶりに腹が立つ。
そんな女が今、菖蒲花魁に代わるお職花魁の座を狙っている事に強い憤りを感じていた。
孔雀花魁は今、松の座敷にて上客の一人である安本の胸に抱かれながら、そんな暗い想いが頭に過ぎっていたのであった。
そんな彼女に安本は甘くささやく。
「どうした? 孔雀……。こんな時まで敵の事を考えているのかい?」
安本は全裸で孔雀のふくらみを舌で弄る。
左手の親指と人差し指で乳首を弄る。
孔雀はびくんと体を跳ねさせ、安本を首に腕を絡める。
「安本さん。私、哀しい……! 私はこんなに桜華楼の為に働いているのに……! 何であんな野暮な女に皆、イレ込むの!?」
「気にするな、孔雀。どうせ、そいつらは話題の花魁を一目見たいだけで、ただの新しい物好きの客だよ」
「君の気品の方が余程魅力的だよ。そんな野暮な女に嫉妬するなんて孔雀らしくない」
乳首を舐めながら甘い声で嫉妬心を和らげてやろうとする安本。
紅い布団の上で二つの体が絡まり始める。
孔雀は安本の愛撫を受けながら、彼を受け入れようと襦袢を乱す。
「本当にそう想って……?」
「薄紅の顔は何度か見てるが私は、好きじゃないな。君の気品とこの体を知らないから、野暮な女に絆されるのだよ」
「アッ…! 安本さん…!」
「最高だ……君の花びら……君のその顔……何度も、何度でも、抱きたい……!」
「アッ! アアン! 安本さん! 私も好き……好きなの!」
「この感触を味わえば誰も逃げられないよ……! 孔雀…! 孔雀…!」
熱を帯びる安本。孔雀も体をリズミカルに揺らす安本に己の花びらで悦ばせる。
しかし……そんな熱を帯びる行為の最中でも、孔雀の心には澱のように薄紅への嫉妬心が渦巻いていた。
あのクソ女は許さない。
自分から首を裂こうとするまで徹底的に攻撃してやる……!
思わず殺気がこもった腕は安本の首を絞め、彼は思わず言った。
「痛いよ、孔雀…! 何をする…!?」
「申し訳ございません。安本さん……」
「薄紅が憎いのはわかる話だけど、落ち着きたまえよ、孔雀。旦那様は判ってらっしゃるはずだ」
だけど。薄紅への嫉妬心は孔雀の心に澱のように離れないのであった。
桜華楼の内所の部屋に珍しくお妙さんこと夕月妙子が足を運んできていた。
菖蒲花魁がお職から退く事で空席になる、お職花魁の座を誰に任せるのか?
その話し合いが内所でされている。
「旦那様。本当にどうするおつもりですか? 次のお職は誰に?」
「お妙さんは誰を推しているんだ?」
「薄紅ですかね。孔雀はそろそろ
しかし、楓はそうは想ってなさそうだ。反論する。
「そうかしら? 言う程、孔雀は薹が立っていないと想うわよ。今の孔雀はいい感じに艶やかになったわ。彼女をお職に据えても良いでしょうに」
「お内所。判ってないですよ! 孔雀は年々、まるで耳年増になって嫉妬深くてしょうがない。薄紅は其辺、若いし、こちらも手籠めにしやすいです」
「薄紅は旦那様の言う事は聞きますしね」
「ふむ。確かに薄紅は俺の言う事は聞く。だが、孔雀には薄紅にはない気品を感じるのだよ」
「諒。あなたは孔雀を推しているのか、薄紅を推しているのかわからないよ」
「楓。それは俺が楓を選ぶのか、お妙さんを選ぶのかはっきりしろって聞こえるな」
「話の筋が違うわよ、諒。お職花魁は見世の看板よ? あなたも初めての花魁に
「あの頃は同期に
「あの頃の問題がまたやってきたのか。お職花魁を簡単に判断できるならとうにしているよ。俺は」
「珍しく迷っているのね?」
「お妙さんを呼んだのは現場の声を聞きたいから俺が呼んだのだ」
「旦那様。数字の上の売上はどうなのですか?」
「薄紅が花魁に格上げになった直後から薄紅の売上は倍以上になった。孔雀もさすがは2枚目花魁だ。薄紅に負けず劣らず好調そのもの。どちらを切るかは考えていない」
帳面にはここ1週間の売上が書き上げられているが、それを楓と妙子に見せる諒。
薄紅と孔雀のしのぎを削る戦いのような売上記録に二人も驚く。
「同じねえ、ほとんど」
「薄紅が抜いたり、孔雀が巻き返したり、一進一退の売上ね」
「売上の格差が歴然なら判断するが、一進一退ではやすやすと判断は下せない」
「寿命で言うなら薄紅だがな……」
稲葉諒は本音をこぼす。
遊女の寿命はあまりにも短い。短いからこそ、いかに活かすかを考える必要がある。
孔雀は2枚目花魁として申し分ないが、寿命を見るとどうしても旬は後1年だろう。
そうなるならまだ遊女としての寿命がある薄紅花魁をお職に据えた方が妓楼としての判断は良いかも知れない。
しかし孔雀花魁はかなり苦労しながら今の花魁衆として這い上がってきた女郎だった。
その苦労を労ってやりたい。
お職花魁はまさに労いとしては最高の報酬なのだ。
稲葉諒の微かな迷いが、まさにそれだった。だから彼は判断を下すのを迷っているのだ。
巷では稲葉は非人情の楼主と揶揄されるが、人情味は捨ててないのが実情だった。事実、夕月妙子を遣手婆にして残らせたのは稲葉諒だった。
身請け同然に遣手婆として残して現場の指揮をとらせた。
不思議な事にそれが上手くいった。夕月妙子は指導者としての才能を持っていたのだ。
数字では推し量れない能力。それを実感した稲葉諒は、孔雀にするか、薄紅にするかで板挟みになっている。
そんな楼主の姿を見る妙子は、その決断を促してやれないものかと想った。彼女も稲葉に対して叶わないながらも想いを寄せる女の一人だったのである……。
彼はため息をついてふと言った。
「すまない。楓。ちょっとそこのお稲荷さまへ参拝に行ってくるよ」
「お妙さんも来るかい?」
「は、はい。喜んで」
諒のそんな気遣いは楓の嫉妬心を静かに刺激していた。
(全く。諒の神頼みも呆れるしかないわね。さっさと薄紅をお職に据えればいいものを)
夫がいつも咥える煙管を楓は手に持つと、唇を重ねるようにその煙管を口に運んだ。
そして一服、その煙管でした……。
吉原の中の九郎助稲荷(くろすけいなり)。そこに足を運ぶ諒と妙子。
彼らはそこでそれぞれ違うものを観ていた。
諒は自分の眼に映るお稲荷さまの眷属の白狐の姿を。
妙子は何も見えない空を視る諒の姿を。
不意に彼は口を開いた。
「不思議なものだね。俺の眼には白狐の姿が視えるのに君には何も見えないのだろう? この稲荷さんに来ても」
「ええ……」
「俺はその事実に胸が痛い。俺には半分、妖怪の血が確かに流れている。それが自分の子にも継がれるのかと思うと躊躇うよ」
「後継者を生み出すのに、ですか?」
「だね。桜華楼は俺の親父の代からあるけど、閉まるのは俺の代かな。大正になって、時代も流れるだろうな」
「でも……お子さんを作るのは良いんじゃないでしょうか? 楓姐さんもそれを望んでいます」
「君の願いはいつか俺に抱かれる事だった。することができないのが悔しいと想うよ、自分でもね……」
「でも……叶わない夢だから、楓姐さんの気持ちを汲んでください。私は桜華楼に居られるだけで嬉しいんです」
妙子は目を閉じて諒に想いを伝えた。
それでもいいから。抱かれなくていいから、傍に居させて欲しい……。
「……。たった一夜だけでも、俺も君を抱きたかったよ。許されない事でも」
でも、どうか、傍に居て欲しい。
彼は祈った。
楓の強さに俺は時々、恐れを感じる。
だから、君に少しだけ寄りかからせて欲しい。
少しだけ……。
彼らが見上げる空には、綺麗な月と星が見えた。
吉原から見える星空は二人とも同じだった。
「夜空の星空は一緒の景色だったのが嬉しいかな。次のお職花魁は薄紅だね。ようやく腹を決める事ができた。行こうか?」
「あんまり時間かけると姐さんが怖いです」
そして、彼らはまた桜華楼へと戻った。
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