第26話 時代を翔ける人達

 騒然とした今夜の桜華楼の一日が終わろうとしている中で、喜兵衛は夜も深い23時頃に稲葉諒に呼び出された。 

 喜兵衛には聴きたい事がある。

 何故、あの場に居ないで杜若かきつばたを追いかけてそこから去ったのか。

 杜若の性格からして振袖新造で、そして妹分の紅碧べにみどりを己の身代わりにする事など判っていたはずだ。

 それをわざわざ杜若を追って行った責任は何かを問い詰める稲葉の姿があった。


「何故、あの宴席に最後まで出席して無かったのだ? 若い衆は花魁の宴席の時は付きっ切りで面倒を見る、そういう掟だろう?」

「そ、それは……旦那様」

「何故、そのような事をさせているか。ああ言った客から花魁と振袖新造や禿かむろ達を守るためにいさせているんだ。喜兵衛きへえ。お前の廻し方としての手腕をどうやら買いかぶり過ぎたかな。私は」

「違います! 旦那様。杜若はもっと別の事であの宴席から出て紅碧べにみどりに名代を頼んだのです!」

「どんな理由だ?」

「杜若は、この間検査に行ったら性病に罹っていたのです。しかし、まだ彼女は菖蒲花魁のように身請け話も決まってません……。それがあまりにも不憫で……」

「その性病の話はまだ聞いてなかったな。いつの検査の時にわかった?」

「この間の2週間前の検査の時に。杜若は途方に暮れたんです。このままでは切見世に飛ばされるって」

「……確かに性病に罹っているとなるといつまでも花魁に居させるわけにはいかないな」

「私は杜若が不憫でなりません。しかし、とても私のような者においそれと彼女の借金を肩代わりできませんし」


 3枚目花魁の杜若がこれで実質、おいそれと客を取らせる訳にはいかなくなってしまった。

 後釜となる花魁を一人用意しなければと考える稲葉。

 その顔は杜若の衝撃的な話を聞いても平然としている。傍から見れば冷淡と評される程に落ち着いていた。

 杜若はもう助かる道は無いのか?

 喜兵衛はそればかりが頭に浮かぶ。妓楼では性病に罹った遊女は医者に診察してもらい、快方へ向かうならば治療も考えるが、大概が手遅れなので、その後の扱いは非人情、そのものだった。

 吉原の女郎屋の楼主は、時に非人情に徹しなければならないとやっていられないのも事実。

 稲葉は杜若をどうするつもりか?

 やはり切見世へ落とすのか?

 他の見世に売りに出すのか?

 決断は迫られていた。

 

「喜兵衛。杜若は確かこの東京が出身だったな?」

「え? は、はい。私は存じ上げませんが」

「この際、親元に帰してやるのも良いかも知れないな」

「旦那様。杜若を親元に、故郷に返すというのですか?」

「彼女は充分に稼いでくれたしな。最期の時くらいは知った顔の下で過ごさせてあげたいじゃないか」


 と、いやに優しく言葉にしてみせる。

 だが、それは裏を返せば体よく厄介者を追い払い殺しもしないで、新しい花魁を仕立てる絶好の機会という意味も含まれていた。

 その花魁候補は、今が売れ筋が良い振袖新造の薄紅だった。

 そして、杜若の突然の帰郷の話はあっという間に進む。

 珍しく楼主から呼び出された杜若花魁は戸惑いながら内所へと姿を現した。


「何の用でしょうか? 旦那様」

「杜若。何か私に伝える事があるのではないかな? この間の健康診断で告知された事があるのでは?」

「正直に言ったほうがいいのは知っているでしょう?」


 内所の部屋で上座に座る稲葉諒と楓。

 楓は煙草を吹かせながら腕を組んだ。

 杜若は観念したように自らの病状を告白した。


「じ、実は、淋病に罹ってしまいました……。数日間はお客様と床入りは遠慮させて頂いておりましたが、何故、わかったのですか?」

「ふふ……この桜華楼の事は俺達が一番知っている。滅多に仕事の下手をふまない喜兵衛が珍しく下手をふんだ。何かあると私は思ったが、やはりな……」

「それに伴い杜若、君を実家へ帰してあげようと思う。充分に稼いだのだ。ここ5年間。御苦労だったな」

「あの……私の借金の精算は?」

「この際、破棄してもいいかとも思う。君はこの東京に故郷ふるさとがあるのだろう? その身体ではいつ命が尽きてもおかしくない。なら、この際。故郷でゆっくり過ごすといい」

「桜華楼との腐れ縁もこれまでということさね」

「楓姐さん……」

「荷物をあらかたまとめたら君の故郷へ帰るといい。まだ身体が動くうちにね」


 それは杜若のお役御免という印でもあった。

 無理矢理、女衒に連れられて桜華楼にて過ごした5年間。嬉しい時も悲しい時も側にいた彼らとの別れがいざ来ると悲しくなるのは何故だろう?

 杜若が最後の挨拶を稲葉夫妻にした。


「今までありがとうございました。旦那様。楓姐さん」

「ああ。ご苦労だった、杜若」


 杜若はその日からまた普通の女性に戻り、表の世界へと旅立つ。

 彼女が内所から去った後、楓は諒の真意を見透かしたように言った。


「本当、あなたって表向きでは人情派を装うけど、裏では振袖新造の薄紅を花魁に格上げするのを待っていたんじゃないかしら?」

「ふふふ……それは言わない約束だ。楓」


 火鉢に引っ掛けておいた煙管を咥え吸う諒。

 そして、事もなげに言った。


「何時までも性病に罹った者を商売道具にする訳にもいかんだろう? なら今が売れ筋の振袖新造を花魁に格上げさせた方が売り上げとして申し分ない話さ」

「……あなたも相当のワルね」

「ふふふ……そうか?」


 杜若は花魁部屋の座敷にある荷物をまとめていると箪笥の中にあるかんざしを見つけた。

 これは稲葉諒が餞に遊女として一本立ちした時にくれた簪だった。

 小さな朝顔があしらわれた簪。

 これだけは持って行こう。

 杜若は風呂敷の包みにそれを入れて、そしてしみじみとこの部屋とも別れの時が来たのかと思った。

 ふと、部屋の外から不思議な流行歌が聞こえた。

 零無と池本さんと酒井さんの流行歌の練習風景だ。できればもっと長く聴いてみたかった。

 杜若は音楽が流れる部屋へ向かった。

 そこには零無と池本と酒井が流行歌の作曲をしている光景が見えた。


「杜若花魁。珍しいですね。どうしました?」

「もう私は……花魁では無くなりました」


 杜若は訳あってこの桜華楼から出なければならないと説明する。

 そして去る前に一曲だけ歌って欲しいと彼らにお願いする。 


「わかった。今、練習してた曲を君の旅立ちへ贈らせてくれ」


【扉の向こうへ】


僕等は今でも叫んでいる


確かめるように握りしめた右手

うざったい法則をぶち壊していけ

傷ついた足を休ませるくらいなら

たった一歩でも ここから進め


歪んだ風を掻き分けて

冷たい空を追い越して

それでも彷徨い続けている


僕等はいつでも叫んでいる

信じ続けるだけが答えじゃない

弱さも傷もさらけ出して

もがき続けなければ始まらない

突き進め 扉の向こうへ



ややこしい規律で絡み合う社会

じれったい現実を 蹴り飛ばしていけ

誹謗や中傷にふさぎ込むくらいなら

打算も欲望も ぶち撒けていけ


乱れた情報 かき消して

白けた視線 振り解いて

現在から続く 次の舞台へ


僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

強さと覚悟繋ぎ止めて

走り続けなければ 未来はない

突き破れ 扉の向こうへ


翳した誇りが間違いだとしても

描いていた理想が 崩れかけても

ここにある全てに嘘をつかれたとしても

きっとここにいる


僕等はいつでも叫んでいる

信じ続けるだけが答えじゃない

弱さも傷もさらけ出して

もがき続けなければ始まらない

突き進め 扉の向こうへ


僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

強さと覚悟繋ぎ止めて

走り続けなければ 未来はない

突き破れ 扉の向こうへ


僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

どんな真実も 暴き出して

後悔するのは それからだ

突き進め 扉の向こうへ


扉の向こうへ……


【終わり】


「最後に皆さんの歌を聴けて良かった……ありがとうございました」


 杜若は風呂敷一つで朝焼けが近い吉原の雑踏に出た。


「何も鳥が飛び立つように出なくてもいいじゃないか」 

「いいんです。今更、見栄も花道も私には要りませんよ」


 杜若は普通の町人の着物に着替えて深い青空を仰いだ。

 何だか少し明るい表情の杜若は最後の挨拶をして大門から出て行った。


「さいなら!」


 こうして、時代を翔ける人達の物語は前へ進んで行った……。

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