第25話 傷ついた君へ

 吉原に雨が降り出した。

 空を覆う灰色の雲から雨の雫が降り始める。

 雨が降っても呼び込みの十郎太は外で呼び込みをしなければならないから大変だ。

 しかし吉原は6月は客足が遠のく事でも有名なのだ。梅雨の雨が降る中で、しかし桜華楼はそれでも賑やかな妓楼だとは思う。

 そうして今夜も馴染みの酒宴が始まる。

 その間の8時間でどうにか後2曲は思いつく事ができたのだ。

 今夜の馴染み客は藤村という名前で、俺は顔は見たことがない。

 しかし酒井は藤村と聞いて、あまり良い評判を聞かない人物の事かも知れないと俺に教える。


「この桜華楼は確かに良客ばかりだが、最近の奴はあんまり良い噂は聞かないぜ」

「例えばどんな噂だ?」

「旦那様の前では猫をかぶるように良客になって座敷では横暴に振る舞うんだ。若い衆も腹は立つらしいが客に手を挙げるわけにもいかないしな」

「お前からその話を聞くとはな。桜華楼に出入りしていた幇間は伊達じゃないって訳か」

「まあな。藤村と聞いてそいつの事かなって思ったよ」


 その藤村だが確かに評判はあまり良いとは言えないのは女郎やお妙さんも知っている。

 楓姐さんとしても頭を抱える部類の客と言える。

 稲葉諒は桜華楼の女郎に暴力を振ったら考えるとだけ答えている。

 横暴な馴染みの相手となる花魁は杜若かきつばただが、自分の名代に振袖新造の紅碧べにみどりを行かせる事にした。

 ちなみに彼女、紅碧は明日の夜に水揚げをされる振袖新造である。水揚げはやはりというか、俺に出番が回ってきた。

 裏ではそういう話が密かに進んでいるのだ。

 しかし今夜の俺は内芸者として松の座敷にて酒宴に出て、名代として相手を頼まれた紅碧と共に部屋にいる。席には池本さんと酒井と萩原さんがそこにいたよ。

 杜若花魁は何かと理由を付けてこの藤村という客を避けているらしい。まあ杜若花魁は他にも別の馴染みがここではない座敷にいるからそちらを相手にという話だけどな。

 吉原ではこういう事態は珍しい事でもない。

 人気の花魁なら他にも客を取るのは不思議な話でもなくむしろ当然という話である。

 

 松の座敷には今は杜若花魁が形式的とはいえ、宴の席にはいる。

 藤村は見た目はやや年かさのいった威勢だけがいい親父だ。上品という客ではない。

 黒々とした短髪、顎髭、服装は着物姿で一応、準礼装だった。

 しかし座敷の藤村は宴を楽しみつつ下品に杜若をあからさまに抱き寄せ、着物の袷に手を入れて悪戯いたずらしているよ。

 杜若花魁はとりあえず笑顔ではあるが、何となく気分は悪そうだ。


「おう! 若い衆! この桜華楼で流行歌が聴けるって言うじゃねぇか! 芸者共に歌わせろ!」

「宜しくお願いします。芸者衆の皆さん」


 今夜の座敷の管理は喜兵衛がしていた。彼は廻し方の管理やその他の悶着事の解決は見事な手腕という評判だ。

 調律がされて、流行歌が歌われたが、途中で藤村の罵声が飛んできて中断になった。


「湿気た流行歌なんか歌うんじゃねえ! もっと気分が上がる歌を唄え!」


 松の座敷に藤村の罵声が聞こえた。

 池本さんは俺と酒井に顔を向ける。

 萩原さんも。

 藤村は宴をさっさと終わらせて床入りを急がせた。

 杜若花魁はここぞとばかりに他の馴染みのいる座敷へと向かってしまう。


紅碧べにみどりや。わっちに代わり名代として藤村さんの御相手をしておくんなんし」

「は、はい。花魁」

「チッ。杜若のやつ、せっかく宴の席まで出してやったのに名代に任せやがったな…!」

「杜若の名代とか言ったな? 名前は?」

「……紅碧べにみどりでありんす」

「ふん……名前だけは一丁前だな。まあいい。今夜はお前を手慰めに抱くか?」

「わ、わっちは花魁の名代です……それに、まだ旦那様からお客様のご相手はしてはならない……と!」

「構わねぇよ。俺が水揚げをついでにしてやる」


 藤村が強引に振袖新造の紅碧を抱こうと抱き寄せて無理矢理、犯そうとしている。

 こんなの横暴じゃないか?

 池本さんと萩原さんが俺に目を向けた。

 芸者衆で今、声をあげて止められるのは俺と酒井しかいない。

 喜兵衛はあろうことか杜若を宥めに行ってしまったのだ。

 

「藤村さん!」

「何だあ!? 幇間が何の用だ? 今、いいところなんだよ!」

「花魁の名代に手を出すのはご法度ですよ! あなたも吉原の客ならそれなりに筋を通して貰いたいもんだね!」

「脇役の幇間が生意気を言うんじゃねぇよ!」

「俺はこの桜華楼の"客"でてめえ等は俺を喜ばせる為の飾りなんだよ! 飾りは飾りらしく、ちゃんちゃか三味線でも弾いていればいいんだよ! こいつがどうなろうと関係ないだろうが」

「いいや、関係あるね! あんたみたいな粋も筋も通せない輩を楽しませるのは芸者としての筋が許せないんだよ」

「うるせえよ。ここではなぁ……金さえあれば何でも買えるんだ。快楽も、名誉もなあ」

「止めてください! 止めてぇ! わ、私は! まだ旦那様に許可を頂いてないのです! お願い! 止めて!」


 紅碧の青灰色の着物が強引に脱がされようとしている。奴は裾を強引に捲り今にも彼女を強引に強姦せんとしている。

 酒井は喜兵衛を呼びに向かった。

 でももう間に合わない。紅碧の悲痛な声が助けを呼んでいる。

 俺はもう限界だった……。


「やめろ!! その汚らしい手を離せ! 殴りたいなら殴れ! だが、俺も黙っていないぞ」

「ほ〜う。殴りたいなら殴れ……か。クソみたいな幇間め。俺の邪魔をしやがったてめえはこうだ!」


 紅碧を暴力的に退けた藤村は、杜若に振られた腹いせに零無を殴ろうとした矢先に……


「おやめ!!」


 楓姐さんの叱咤が飛んできた。

 後ろには稲葉諒が静かに藤村に対して、殺気のこもった褐色の瞳を向けて睨みをきかせた。

 そして暫し沈黙が落ちた後、諒がドスをきかせて藤村に言った。


「藤村さん。前々から気にはなってましたが、吉原では金を持っていれば何でも思い通りになるとでも仰るか? 他の見世はどうだか知らないがね、うちの見世はそうはいかないのですよ……」

「楓。芸者衆と紅碧を他の座敷へ案内しろ」


 胸ぐらを掴まれた零無レムが若い衆の手で離され、賢治が紅碧と芸者衆を連れて行く。

 賢治に「任せたよ」と声を掛けた楓も松の座敷に戻ってきた。

 只ならぬ気配の桜華楼。

 稲葉諒は図に乗る藤村に言い放つ。


「桜華楼を舐めて貰っては困るんだよ。ここは吉原の桜華楼。ここの掟をろくすっぽ守れないような客を俺達は必要としてないんだよ。あんたは伊勢谷さんと比べると他愛もないタダのボンクラ。いいや……金回りが良いだけのクソみたいな腐った民衆の一人だね」

「肥溜めが実に似合う男だ。しかもうちの芸者に手を挙げようとするとは。藤村。さっさと金の勘定を済ませて金輪際うちの見世には出入り禁止とさせて貰う」

「もちろん、桜花の里にも出入り禁止とさせて頂くわ」


 楓の冷たい声も響いた。

 藤村はその場に凍りつく。

 稲葉夫妻の得も言われぬ迫力に気圧されて。


 襲われかけた紅碧とそれを丸ごと観ていた芸者衆は使われていない座敷にて、今は賢治が話を聴いていた。

 藤村が強引に紅碧を犯そうとしたこと。

 零無がそれを止めさせたこと。

 その場には杜若花魁を追って喜兵衛が居なくなってしまったこと。

 

「左様な事が起きていたのですか。いやはやなんとも嘆かわしい失態でした。こんな状態で宴になど出られませんでしょう。今夜はこのままお休みになって下さい」

「あ、あの……」


 紅碧が彼らに声を掛けた。

 そして彼女は彼らの歌を聴きたいと言った。

 休まなくていいの?

 池本さんが優しく声を掛けた。

 

「私が聴きたいから聴かせてください」


 そこに聴いてくれる人がいるなら。

 彼らの歌が空虚な座敷に響いた。

 伴奏もない中で池本さんが歌う。 

 それはこんな歌……。


【傷ついた君へ】


溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず


そう 同じ気持ち信じてた

消した思い出 見つめてた

今あなたに会う事はできないけど

切ない想い隠して

強くなれる

もっと確かめていくの


溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず

急ぎすぎて 壊してきたもの

取り戻すの 私らしく生きるために


ねえ またあなたに会う時は

さきに「さよなら」を言わせて


迷わずに 焦らずに 過ぎていく時間は

優しさに変わっていく

痛みも忘れない

無邪気すぎて傷ついた心を

抱きしめるの

生まれ変わる自分のために


溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず


迷わずに 焦らずに 過ぎていく時間は 

優しさに変わっていく

痛みも忘れない

急ぎすぎて 壊してきたもの

取り戻すの 私らしく

生きるために


悲しみも 苦しみも 心に残る

その後に続くはずの 自分の物語を

光の先に終わらせるために

歌うの ここに

私のために 

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