第4話 零無と稲葉

 あの宴が終わった後の事だった。 

 伊勢谷半蔵は不思議に思っていた事があったそうだ。それは楼主・稲葉にそっくりの幇間ほうかんが居た事だ。 

 その幇間の端正な顔と美しく響く三味線が印象に残ったと伊勢谷は評価した。

 稲葉諒もやはり若い衆からその報告を受けていた。

『旦那様にそっくりな幇間がいる。見間違いと思うくらいに』

 諒は布団にうつ伏せになりながら楓に体の凝りを解して貰っている。

 楓のマッサージはよく効くのだ。力加減も文句なし。楓も肌の触れ合いとしてこのマッサージは好きだった。何せ、女性かと間違う程に肌触りが抜群だったのだ。

 諒はそのマッサージを受けながら楓に、今日来た幇間の話題をした。 

「なあ……楓。あの幇間は名前はなんて名前だ?」

「見番登録では零無レムと登録されているわね。廓でも零無と呼ばれていたわ」 

「零無か。不思議な芸名だな」

「かえって覚えやすいかもね」

 背中を触り胃の辺りを解す。

 諒は煙管を咥えてふうっ…と煙をはく。

 彼は上半身裸に着流しを開けていて、身体付きは一切の無駄がない。

 褐色に近い瞳は閉じて、妻のマッサージをじっくり堪能しつつ、考えを巡らせる。

「何を考えているの」 

「その零無という幇間、また宴があるなら呼んで見るのも有りかな」 

「流石のあなたも自分自身にそっくりの幇間と聞いて興味深いのね」

「まあな」

「楓は直に会ってどう思った?」

「そっくりそのままねって思ったけど、諒とは違う『何か』を持っていそうね」

 その手は最後は諒の顔を撫でるように絡まり、楓も諒に体を預けた。

 彼女の体重を感じながら諒は呟いた。

「まさかとは思うが奴になびく事はないよな?」

「どうかしらね……まだよくわからないし、あなた並に色気は有りそうとは想うけど」

 諒は煙管を置くと体の向きを変えて、仰向けになり楓と話した。

「今は仕事の話は無しにしてお前と肌を合わせたいな」

 楓は黙って諒の唇に己の唇を重ねる。

 彼女の手は諒の体をさまよう。

 彼ら稲葉夫妻はそのまま体を重ねた。


『レム中佐! レム中佐ーッ!!』

 また、あの悪夢か。

 誰かが、俺の名前を叫んでいる。

 視界が血の赤に染まった。

『死なないでください! 中佐! 中佐! レム…』

 駄目だ……もう止めてくれ。

 こんなの俺は見たくも無いんだ。

 息遣いが喘ぐような息遣いになって、そして無理矢理、悪夢から醒めるように起き上がった。

「はっ!」

 布団から思い切り起き上がった。

 共に住む幇間の酒井が心配するように聞いた。

「また、うなされていたぞ。零無」

「そ、そうか……」

「またよくわからない悪夢か?」

「そうだな。本当に訳がわからない。一体、何の夢なんだ?」

 酒井はちょっとだけ溜息をついた後、俺に朝食を食べるように促す。

「夢の事を考えても答えは出ないだろ? 朝飯でも食べて元気出せや」

「ああ」

 今朝の朝飯は白いご飯に昆布の佃煮にほうれん草のお浸しに魚はあじが出てきた。後は味噌汁だ。

 長屋の外からは今日も賑やかな町人の声が聞こえる。きっと噂話に興じているのだろう。

 酒井は先に朝飯を済ましたそうで、新聞に目を通していた。

 すると。 

「へえー、あの【桜華楼】が遊廓の番付に乗っでるぞ。今は3位か。流行っているんだな、あの見世」

「確かにあの【桜華楼】、中の世界が物凄く綺麗だった。独特の品を感じたね」

「零無。ちょっと俺は外の空気を吸ってくる。若い衆から連絡来たら代わりに聞いておいてくれるか?」

「わかった。行って来いよ」

 木製の扉を横にずらして酒井は揚屋町へ散策に向かった。

 朝飯を食べた俺は三味線の手入れをする。

 そんな時に、誰かの声が聞こえた。

「もしもし。すんません。誰かおりませんか?」

 扉を開けると若い衆の男性がいた。

 この様子だと仕事の話かな。

「どうも。零無さんという幇間さんは?」

「私ですが」

「丁度良かった。また仕事が来ましたよ。桜華楼からです」

「桜華楼から?」

「はい」

「今回は私だけか?」

「他の長屋に住む夏村さんも桜華楼から指名が御座いました。後は他の長屋の中村なかむらさんという幇間と芸者に萩原はぎわらさんも呼ばれてます」

「何時頃に集まればいいのかな?」

「本日の宴は17時頃からです。集合は15時半頃にお願いしやす」

「わかった」

 丁度いい時に仕事が来たな。

 気が少し滅入っていたんだ。

 こういう時は宴席にて三味線をかき鳴らすのが気持ちいい。

 そうして2度目の桜華楼へ向かう事になった。

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