最終話 日常の中のファンタジー

「高畑さーん! 今日の講義全部終わったし、この後お茶でも行かない? あ、もちろん俺だけじゃなくて、他の連中も誘ってるからさ」


 今日の講義を全て終え、キャンパス内を歩いていた汐里に声をかけた一人の男。彼は汐里と同じく四月に大学に入学しており、前から汐里に声をかけようと思っていたのだろう、その顔には期待と緊張が混在していた。

 汐里は高校生だった頃に比べて髪を伸ばしており、肩までだった長さの黒髪は背中に軽くかかるぐらいにまでなっている。やや大きめのサイズのブラウスをゆったりと着ており、ズボンは黒のスキニージーンズを穿いている。そして右耳には銀のイヤーカフがついていた。そのシンプルな服装が汐里の雰囲気に合っており、彼から声をかけられる以前も、大学に入学してからはこうして誘われることが多い。女子から声をかけられることの方が多いような気もするが、何か用事が無い限りは汐里は、基本的には誘いは断らないようにしている。

 ただ今日がその用事がある日だったというだけだ。


「ごめんね、今日先約があるの。良かったらまた誘って」

「あ──そうなんだ、それじゃあ仕方ないね。気にしないでよ、高畑さん」

「ん、それじゃあまた明日」


 汐里がひらりと手を振り、声をかけた男と別れて正門の方へ歩いていく。男がその背中を見送っている最中に、「残念失敗したな」と後ろから肩を叩いてきたのは、男の友人だ。男は「いきなり誘うことができるとは思ってねえよ」と言うが、友人はその言葉を聞いてバツが悪そうに目線を逸らした。


「あー、気合入ってるところ悪いんだけど、多分無理だぞお前。俺この前にちらっとだけど見かけたんだよ、高畑さんがスーツ着たイケメンと会ってるところ。すげー楽しそうに話していたぞ」

「……え、マジで?」

「マジ。夢から覚めるなら早い方がいいと思って言ったわ」


 突然の報告を受けた男は流石にショックを隠し切れない様子で、「そうかー……」とだけ呟いてその場にしゃがみ込んでしまった。道行く他の学生がちらりと様子を見るも、声をかける気配は無い。友人は慰めるように背中をさすっていた。


「元気出せよ。もしかしたら親戚とかかも知れないじゃん。まあ違うと思うけど」

「親戚にしろ、スーツの似合うイケメンには勝てねえだろ……大学に入学してまだ二週間ぐらいなのに、早速失恋かよ」


 知らないところで失恋をさせてしまったということなど汐里が知るはずもなく、正門から出た汐里は鞄を片手に歩いていく。大学のキャンパス内だけではなく、周囲にも桜の木が植えられているようで、見事な桜の花を咲かせていた。日本の桜は大体がソメイヨシノだっけ、と汐里はうろ覚えの知識を頭の中に思い浮かばせながら、大学から少し離れた道路までやって来た。汐里が部屋を借りているアパートとは位置的に逆方向に歩いているのだが、汐里がここまで来た理由はもちろんある。

 前方に停車している一台の車。その運転席から降りて姿を見せたのは、まだ高校二年生だった汐里が公園で出会った時と同じく、黒いスーツ姿のサエジマだった。汐里は嬉しそうに笑みを浮かべ、「サエジマさん」と挨拶をするように右手を上げる。サエジマも汐里と同じように笑みを見せると、助手席側に回りそこのドアを開けた。サエジマは声には出してはいないが「中へどうぞ」といった仕草を見せた。


「別に私はお姫様ではないですよ、サエジマさん」

「そりゃ失礼。でもそう見えたんだ、仕方ないさ」


 汐里が肩をすくめれば、サエジマは何てことのない風に言う。相変わらずだなあと思いながら、汐里はサエジマが開けてくれた助手席へと乗り込んだ。ドアを閉め、サエジマは運転席側へ戻ると車に乗り込み、シートベルトを締めてから車を発進させる。汐里もシートベルトを締めながら、「迎えに来てくれて、ありがとうございます」と伝えた。


「もっと早くから、こうして迎えに行ければ良かったんだけどね。汐里ちゃんもこっちに来て荷物の整理だったり、入学式だったり、色々あったから時間が合わなかったよ」

「はい、それに両親もこっちに来ましたからね。……あ、その時にサエジマさんを紹介すればよかったでしょうか?」

「いや、汐里ちゃん。それはまずい。色々と早すぎる」


 汐里が思い出したように言った言葉を、サエジマは車を運転しながら首を軽く振って否定した。

 汐里はサエジマが地元に戻ってからの一年間、勉学に励んだ。あのままの成績でも志望していた大学には五分五分で合格できるとは言われていたが、可能な限り合格の確率を上げたいと思い、必死に勉強した。その間、サエジマとは連絡を取り合っていて、夏と冬の連休にはサエジマが汐里のところまでやって来て、限られた時間ながらも会っていた。

 そして勉強の甲斐もあり、汐里は見事にサエジマの地元の大学へと合格することができた。それは両親から離れて一人暮らしをすることと、鈴や汐里、一ノ瀬たち親友と離れ離れになることも意味していた。鈴と澪が見送りに来た時にはらしくはないと思ったが、汐里は少し泣いてしまった。一ノ瀬はその前に汐里に挨拶に来ていて、その際に頬にキスをされたのにはさすがに驚いたが、一ノ瀬の目が涙目だったのを見て、汐里はそれを咎められなかった。あれが演技だったのか、本当だったのかまだ一ノ瀬には聞いていないのだが。


「まあでも、汐里ちゃんが大学に合格して、こっちに来て顔を見た時は正直、ほっとしたかな」

「合格できないと思っていましたか? これでも勉強頑張ったんですよ」

「ああ、いや、そういうことじゃなくて。何だろ……上手く言えないな。あの公園で、汐里ちゃんと会っていた時みたいな安心感があったっていうか」

「これからは毎日でも会えますよ。……だけど今日はこのまま、サエジマさんの部屋まで一緒に連れていってください。サエジマさんも、我慢していたんでしょ?」

「……汐里ちゃん、やっぱり一ノ瀬って子の影響を少なからず受けているよな。連絡を取り合っていた時も、妙に際どい自撮り写真を送ったりとか……」

「あれはその、一ノ瀬さんがこういうのを送った方が良いって教えてくれて──」


 汐里がそう言いながらふと、窓の外の風景に目をやるとそこで言葉を切った。そして「サエジマさん、車を止めてもらってもいいですか?」とサエジマに伝える。


「ん? ああ、いいけど──でもこの辺り、コンビニとかは無かったはずだけど」


 サエジマは道路の端に車を寄せて、停車させる。「駐車禁止じゃなかったよなここ」と呟きながら道路標識を確認しているサエジマを横目に、汐里は助手席のドアを開けて車から降りた。サエジマも汐里に続いて外に出ると、汐里の視線の先にある場所に気づいた。

 そこは公園だった。どこの地域にでもあるような、ただの公園。しかしここの雰囲気がどことなく、サエジマと過ごしたあの場所に似ているような気がして、汐里は歩き出しその公園へと入って行く。


「サエジマさん、ここの公園ってまだ新しいんですか?」

「うーん、分からないなあ。俺が住んでるところからそんなに遠くはないけど、ここの公園には初めて来たな」


 少し後ろを歩くサエジマを振り返らず、汐里は言葉だけを向けた。サエジマは公園内を見渡しながら、そう答える。


「そうなんですか。でもサエジマさん、何だか似ていると思いませんか?」

「ああ──俺と汐里ちゃんが初めて出会った、あの公園に確かに似ているかもね。俺も同じことを思ったよ」


 今度は言葉だけではなく、体ごと後ろを歩くサエジマの方を向いた汐里に、サエジマは懐かし気にその時のことを思い出していた。自然と柔らかな笑みが浮かび、それを見た汐里も嬉しそうに微笑んだ。大学生になったというのもあるだろうが、汐里のその微笑みにサエジマは思わず見惚れてしまった。

 それに気づいて気づかずか、汐里はサエジマの前まで歩み寄ると「ねえ、サエジマさん」と言って、上目遣いにサエジマを見た。


「サエジマさんが私と会ったのは、サエジマさんが仕事で来たからですよね。……それが逆で、私が転校とかでサエジマさんの地元に来ていたら、この公園でもしかしたらサエジマさんと会っていたかも知れませんね」

「──そうかもな。あるいは、そうなっていたのかも知れないな。……でも不思議なもんだよ、汐里ちゃんと会ったのは日常の中のほんの少しの非日常がもたらしたのに、こうして汐里ちゃんは俺の目の前にいる。もう当たり前になっているんだな、俺の中で」


 サエジマは汐里の頭に手を乗せると、そっと撫でた。汐里はくすぐったそうに目を細め、「私も同じです」と撫でられながら頷いた。


「サエジマさんとの時間は、私にとって日常の中のほんの少しの非日常でした。でもそれが私にとってかけがえのないものになり、サエジマさんも大切な人になった。……サエジマさん、そういえば私ずっと、サエジマさんって呼んでいますよね。今までそれで不都合は無かったですけど……もう下の名前を、教えてもらってもいいですよね? それともうひとつ、ちゃんづけは止めて汐里って呼んでもらえませんか? もう大学生ですよ、私」


 汐里は頭を撫でているサエジマの手をそっと取ると、そのまま自分の手に絡ませる。高校生活最後の一年は汐里を少し大人にしたようで、落ち着いた雰囲気をサエジマは感じていた。


「確かに教えていなかったな。ま、今更かも知れないけど。……冴島時谷。それが俺の名前だよ」


 サエジマはそこで一度言葉を切ると、


「じゃあ俺もひとつ、汐里ちゃんにお願いしようかな。──敬語はもう止めて、普通に話してもらってもいいかい? もうそういう関係じゃないだろ、俺たちは」


 と言った。汐里は「トキヤ……良い名前ですね」と口にするも、それが既に敬語であることに気づいてサエジマの手を握っていた自分の手を離すと、恥ずかし気に口元を覆った。可笑しそうに笑いを堪えている様子のサエジマを汐里は一度むっ、と睨んでから言った。


「笑わないでよ、時谷。……でもなんか変な感じ。ずっと敬語だったから」

「それを言ったら、こっちもそうさ。汐里のことは汐里ちゃんって呼んでいたから、ちょっと恥ずかしい気もするよ」

「そんなんじゃダメだよ、時谷。私たち、長い関係になるかも知れないんだから」

「……ああ、両親に紹介すれば良かったって、そういう」


 サエジマが納得したように頷く。汐里はそんなサエジマに「どうだろうね?」と悪戯っぽく笑いかけ、サエジマをやれやれと苦笑させたのだった。

 ……汐里のそれはあるいは願いであり、誓いであり、もしかしたら皮肉にも取られてしまうものなのかも知れない。このままサエジマと愛し合い、幸せを分かち合い、二人で今回のような困難を乗り越えていくことができれば、それはきっと素晴らしいことなのだろう。

 だけども出来ないことは確実に存在するし、何処へだって行ける訳でもないし、困難や苦境に打ちのめされ躓き、そこから立ち上がれなくなってしまうかも知れない。

 しかしそれすらも道連れにして、旅立ってしまえばいい。汐里はそうすることで各駅停車の毎日を乗り継ぎ、こうしてまた、サエジマと会うことができたのだから。

 どこにでもあるような公園に、ふらっと立ち寄ってみる。ゴミ箱にゴミを投げ捨てて入れるよりも、あるいは簡単なことなのかも知れない。

 汐里のように日常の中のファンタジーを見つけるのは、きっとそれで充分なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日常という各駅停車。それと、少しの非日常。 森ノ中梟 @8823fukurou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ