第26話 日常と少しの別れ

 三月も半ばになれば、寒さも随分と和らいできていた。春が訪れるのももう少しだろう。それは出会いと、そして別れが訪れるというのを意味していた。

 汐里は学校での授業を終えた後、鈴と澪とは帰らずに放課後に一人、学校に残ってから帰宅した。居残った理由はサエジマと待ち合わせの約束をしており、それに時間を合わせるためだった。とは言え、汐里は約束の時間よりも早くいつもの公園に到着していたのだが。

 待ち合わせ場所である、公園内の休憩場所。あそこでどれぐらいサエジマさんと話したかな、と汐里は思いながらゆったりとした足取りで歩いていた。まだ寒さの残る緩い風を感じながら、日が長くなってきた夕方の空を汐里は見上げる。


(そういえばサエジマさんと出会った時も似たような空だったな)


 汐里はその時のことを思い出す。思わず小さく笑うも、その笑みをすぐに消して汐里はベンチが二つ並び、自販機がぽつんと置いてある休憩場所に出た。汐里はそこでしばらくの間、サエジマを待とうと思っていた。だが、そのベンチの一つに座っている男を見て、汐里はびっくりしてしまった。


「やっぱり待ち合わせの時間よりも早く来たね、汐里ちゃん」


 ベンチに脚を組んで座っていた黒いスーツ姿のサエジマは、びっくりした表情を浮かべている汐里を見ると、狙い通りだったのか満足気に頷く。サエジマは自分が来る予定の時間よりも、遅い時間を汐里に伝えていた。汐里はいつもサエジマよりも早く来て待っているため、驚かせるために仕組んだことだ。汐里としては年上のサエジマを待たせることはできないと思い、早く来ていただけなのだが。


「早く来れそうなら、そう伝えてもらいたかったですね。……寒い中、待たせてしまってすいません」

「たまには待たせてくれてもいいんだけどな。むしろこれって、俺の役割じゃないか?」

「待つのに役割なんてあるんですか? ──でも、一番最初にここで会った時は、私がいるところにサエジマさんが来ましたよね。あの時、私、脚を少し開いていたから……下着、見られたんじゃないかって思いました」


 汐里はサエジマと恋人同士になった今から考えれば、随分と昔のことのように思える出会った時のことを口にしながら、少し間を空けて設置された隣のベンチではなく、サエジマの隣へと腰掛けた。二人の間に距離は殆ど無く、ぴったりと体を寄せ合っているような格好だ。汐里はもう自分でも気づいているが、サエジマに甘えてしまうことが多い。今となってはサエジマも慣れてしまったのか、驚くようなことはなかった。


「ああ、懐かしいな。今思い出すと、確かに脚を開いていたようないなかったような……でもあの時は疲れていたし、気づいてもどうもしなかったんじゃないかな」

「今はどうとでもできますよ」


 思い出しながら呟くサエジマの耳元で、汐里は吐息を吹きかけるように囁く。さすがにびくっと体を揺らしたサエジマが汐里に視線を向けると、汐里は指先でスカートの裾を摘まんで、ひらりと捲り上げた。下着が一瞬見えたような気もしたが、サエジマは「いくら何でも無防備すぎる」と汐里をたしなめる。その声はからかうようなものではなく、真面目な声色と表情をしていた。


「……すいません。少しサエジマさんを困らせたかったんです。……その、別に外でしたいとかそういうことではなくて」

「あー、待った汐里ちゃん。色々と脱線しかかってる。今日はそういうことを話に呼んだ訳じゃないだろ?」

「そう、ですね。そういえば、そうでした。サエジマさんと話すのが楽しいから、忘れていました。……忘れようとしていた、って言った方が良いかも知れませんけど」


 汐里は自嘲気味に笑みを見せる。それから首を傾けて、サエジマの肩に頭を預けるようにした。汐里の手はサエジマの手をきゅっと握っていて、サエジマもそれに応えるように握り返している。

 こんな他愛もない話でも、続けられるなら汐里はずっと続けたかった。だがそれはできない。来週にはサエジマはもう、この公園には来ることができなくなってしまうのだから。

 だから汐里は、自分なりに出した答えをサエジマに伝えに来た。それに対してサエジマがどうするのかは分からない。だが伝えなければ、汐里はどういう形であれ前に進むことはできないのだから。


「……正直、公園で偶然会った年上の男の人と恋人同士になるなんて思いもしませんでした。それに……その、かっこいいですし。サエジマさんと出会う前の私に言ったら、『夢見過ぎでしょ、大丈夫?』とか言われそうです」

「それに関しては俺も同じ。高校生の可愛い女の子と付き合うことになった、なんて昔の俺に言ったら『目を覚ませ』とか言われて、ぶん殴れそうだけど」

「だけど今はそうなってます。聞かせて下さい、サエジマさんはそれに対して後悔はありますか?」


 汐里の踏み込んだ質問。サエジマの手を握る力が強くなった。サエジマは汐里を安心させるためもあるのだろうが、はっきりとこう言った。


「あるはずがないよ。──汐里ちゃんにとっても、そうであってくれれば良いなって俺は思ってる」

「……嬉しいです。場所が場所じゃなきゃ、サエジマさんのこと押し倒してますね」

「それは……思い止まってくれて、助かるよ汐里ちゃん」


 あはは、と汐里は笑う。もしこれが自分の部屋だったならば、汐里にソファの上に押し倒されていたな、とサエジマは思った。……汐里に形勢を逆転されてしまうことも、最近は珍しくはなかった。


「サエジマさんと同じで、私も後悔なんてありません。サエジマさんと出会えて、私は本当に良かったと思っています。だから私は怯えているんです、サエジマさんがいない世界を想像して。こうして隣にいることが当たり前になってしまったから。……でもサエジマさんはずっとここにいることができないし、私もサエジマさんについて行くことはできません」


 汐里はそこで一度言葉を切ると、自分を落ち着かせるようにふう、と息を吐いた。サエジマもすぐに続きを言うようにはせかさない。じっと汐里の言葉を待っていた。

 そして少しの時間を置いてから、汐里は自分の言葉を確かめるようにゆっくりと言葉を紡いでいく。


「ついていくことはできません──今は。四月で私は三年生で、進路も決めなきゃいけません。私は就職ではなくて、大学への進学を考えています。……私は、サエジマさんの地元の大学を受験しようと思っているんです。調べたら、今の私の学力で考えると五分五分ぐらいでしょうか。残りの一年間、私は勉強に費やすつもりです。でも私がその大学に合格をすれば、私はサエジマさんの地元に行くことができる」


 汐里が出した答えはこれだった。仕事の都合で来ていたサエジマはここに残ることができず、地元に戻らなければならなない。汐里も当然ながらそれについて行くことはできず、遠距離恋愛という形を取るにしても残りの高校生活と大学生活を合わせて約五年間。その間、学生である汐里を自分が拘束してしまう形になれば、サエジマは自ら別れを切り出してしまうだろう。

 ならばいっそ、自分がサエジマの地元に行けるようにすればいいと汐里は考えた。元々は一ノ瀬が「私なら、待つんじゃなくて隣にいることができるようにするな」というアドバイス……と呼んで良いのかどうかという言葉を汐里に伝え、それを汐里なりに考えて導いた答えだった。

 サエジマは汐里が考えた末に出した答えを聞き、「そうか……」と呟いてから、夕暮れの空を見上げた。もう少しすれば日も落ちて暗くなってくるだろう。汐里もそれにつられて、サエジマと同じように空を見る。そこでサエジマがゆっくりと口を開いた。


「汐里ちゃんが俺に言ったその言葉が、昨日今日考えたものじゃないのは良く分かる。きっと頭を悩ませたんだろうね。それを分かった上で汐里ちゃんに聞くけど──もしそうなったとして、汐里ちゃんは後悔しない?」

「……どうしてそんなことを? サエジマさん、私は真剣に考えました」

「ああ、良く分かるよ。だからこそだ。一度大学に入れば、お金も沢山かかる。簡単に辞めることもできない。それに入る大学によって、その後の人生が左右されるなんてことにもなりかねないからね、今のこのご時世じゃ。……俺だけのために、そうなってしまうリスクを汐里ちゃんに負わせたくは──」


 ない、とサエジマは言おうとしたのだろう。だがそれは汐里がサエジマの顔をぐいっと自分の方に向かせて、重ねられた唇によって言い終わることができなかった。目を瞬かせるサエジマを、汐里はじっと見つめている。数秒間、唇を重ねただけの口づけ。汐里はそっと顔を離すと、「サエジマさん」と呟いた。声は大きくはない。だがその声には、しっかりとした意志が込められていた。


「心配をするのは当然です。サエジマさんの方が年上ですし、人生の先輩としてなんでしょう。でも私は『それ』に決めたんです。……巡り合えただけで自分の世界を変えてしまった人と一緒にいたいと思うのは、おかしいことですか?」


 汐里はそう言って、屈託なく笑った。サエジマは汐里がこんな風に笑うのは初めて見たような気がした。いつもはもっと、涼しいような雰囲気をしているのにと思わず見惚れてしまう。それと同時に、汐里に何を言ってもこの決意が変わることはないのだろうなとサエジマは理解した。それを嬉しく思うと同時に、不安にもなるのは仕方のないことだろう。


「……俺の地元の大学っていうと、あそこか。俺も結構勉強したな、受験のために」

「あ、サエジマさんもその大学だったんですね。それは聞いていなかったです」

「まあ、言っていなかったからね。こういうことになるとは思っていなかったから」


 サエジマはそう言うと、ベンチから立ち上がった。前に設置されてある自販機まで歩くとそこでいつも購入している缶コーヒーを買い、またベンチの前まで戻って来た。そしてベンチに座ったままの汐里にその缶コーヒーを手渡す。


「安いと思われるだろうけど、バレンタインのお返し。……何度目かな、ここでこうして缶コーヒーを買うのも。汐里ちゃんもいつの間にか、飲めるようになっていたし」

「それに関しては、サエジマさんの影響ですね。……あの、来週にはもうこっちにいないんですよね」

「ああ。今週の土曜日に帰るよ。荷物ももうあらかた地元に送ったからね」

「じゃあ、しばらくはもう会えないんですね」

「……そうなるかな。でも、夏の長期休暇とかを利用して汐里ちゃんに会いに来るつもりではあるよ」


 サエジマが頷きながら言ったところで、汐里がサエジマの手に自分の手を伸ばし、ぎゅっと掴んだ。そして今にも泣きそうな顔で、サエジマを見上げる。


「あのっ……今から、サエジマさんの部屋に行ってもいいですか?」


 これで二度と会えなくなる訳ではない。夏に会いに来るとサエジマは言っていたし、電話で話そうと思えば毎日話せる。それは分かっているのだが、汐里は少しでも長くサエジマと一緒に過ごしたかった。

 サエジマは汐里が握った手をそのままに、小さく頷いて見せる。汐里は目元を指先で拭うと、ベンチから立ち上がった。そこで汐里はサエジマから手を離し、「行きましょう」と囁く。自分の我儘、それ以上でも以下でもない頼みをサエジマが何も言わずに受け入れてくれたことが、汐里には嬉しかった。

 公園から出ていく前に、汐里は振り返って休憩場所を眺めた。どこの公園にでもあるような、ありふれた風景。だが汐里にとっては、かけがえのない時間を過ごせた大切な場所だ。


「サエジマさん。一番最初に話しかけたのは私からでしたけど、もしそれが逆だったらどうなっていたと思いますか?」


 ふと汐里はそんな質問をサエジマにしていた。汐里の隣を歩くサエジマは「うーん」と少し考えた後に、難しくもなさそうに答える。


「今と同じになっているんじゃないのかな、きっと」




 季節は四月に移り変わり、汐里も二年生から三年生へと進級をしていた。クラス替えは二年生から三年生になる際には行われず、鈴や澪、一ノ瀬たちとはそのまま同じクラスで

残りの一年間を過ごすこととなった。汐里からすれば嬉しいことだが。

 サエジマの地元の大学を受験するということを、三年生になった時に行われた三者面談で汐里は担任と母親に伝えていた。当然のことながら驚かせてしまったのだが、汐里は大学のことを詳しく調べていた。そしてそこの大学に、単純に入りたいと思えるような学部と講義内容を見つけたのでそれを理由にここを受験したい、と説明した。もちろんサエジマのことは伏せてだ。大騒ぎになるに決まっている。

 担任も母親も一応は納得してくれたが、今の成績のままでは汐里の自己評価通りに合格できるかは五分五分だと言われた。やはり今まで以上に勉強を頑張る必要がありそうだった。

 鈴と澪は、元々受ける予定だった地元の大学への進学を希望している。澪は「サエジマさんにまた会えるように頑張らないとね」と言ってくれたが、鈴は「やっぱりしおりんと離れるのは寂しいよー!」と駄々をこねられてしまった。それも鈴らしいと言えばらしいが。

 一ノ瀬に関しては、それとはまた別の大学の受験を考えているようだった。話を聞けばどうやら女子大で、お嬢様学校らしいが「男でも女でも、高畑さんより素敵な人なんているのかしら」と溜息混じりであった。いやいるだろうと思わず汐里は言いたくなったが、汐里もサエジマに対しては似たような感情を抱いているので、それについては口にしなかった。

 汐里は授業を終え、放課後に図書室で少し勉強をした後に下校していた。家に帰った後も夕飯までは今日の復習をするつもりだ。

 その汐里は少し道草していた。公園に立ち寄り、犬の散歩をしていた人とすれ違いに挨拶をして、休憩場所へと辿り着く。ベンチが二つ並び、自販機が置いてある見慣れた場所。


(それにしてもこの自販機、いつになったら電子マネー対応になるんだろ)


 と汐里は思いながら自販機で缶コーヒーを購入し、蓋を開け、中の甘いコーヒーを一口飲んでからベンチに腰掛ける。こうしているとサエジマさんみたいだなと、汐里は小さく笑った。

 ──そう、いつもならば隣のベンチにはサエジマが座っている。こうして缶コーヒーを飲みながら、ゆったりと時間を過ごしていた。だがそのサエジマは、いくら待ってもここに来ることはない。既に地元に戻ってしまっているからだ。

 サエジマが地元に戻る際に見送ることも考えたが、「そこまでは大丈夫だよ」と言われたので、見送ることなくサエジマとは別れていた。しかし電話で毎日のように話している。とは言え、電話をかけるのは汐里からが殆どなのだが。

 一ノ瀬からのスキンシップが相変わらず多いということを伝えると、サエジマはらしくもなく複雑な感情を抱いているようだった。汐里が「浮気しないでくださいね」と悪戯っぽく言えば、「するわけないだろ」とサエジマが呆れたように返すのが恒例になっている。それを澪に話したら「甘すぎて胸焼けしそう」と言われてしまったのだが。

 汐里は少し暗くなってきた空を見上げる。そういえば最初にサエジマに会った時も、こうして空を見上げていたなと思い出した。

 どこかで彼も、こうして同じように同じ空を見上げているのだろうか。汐里はそんなセンチメンタルなことを考えながらコーヒーを飲み干し、ベンチから立ち上がる。


「サエジマさんに会えるのは夏か。……よし、勉強頑張ろうかな」


 自らを鼓舞するように呟き、汐里は空き缶入れに缶を捨てると歩き出した。一度振り返り、ベンチを見てみるもそこには誰もいない。

 それに少し寂しさを覚えながら、汐里はまた歩き始める。今日もサエジマさんに電話をしようか、したら何て話そうか。そんなことを考えながら、日常はまたひとつ次の駅へと向かっていった。


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