第24話 日常とバレンタインと

「高畑先輩、これ受け取ってください!」

「ん、ありがとう。……名前と学年とクラス、教えてもらってもいい?」


 昼休み中の廊下で、汐里は女子生徒からあるものを受け取っていた。それはチョコレートで、袋の中に入っているが一口サイズに型取られたものの中には、形がややいびつなものもある。恐らくは彼女の手作りなのだろう。

 何故手作りのチョコレートを汐里に渡しているかと言えば、本日がバレンタインデーだからである。汐里は今までにバレンタインで異性にチョコレートを渡したことはなかった。鈴や澪とは、チョコレートに限らずお菓子を毎年交換しているのだが。

 汐里はむしろこうして、チョコレートを受け取る側に毎年回っていた。汐里の雰囲気が一部の女子に好評なのか、必ず何個かは貰っていた。だが今回に関しては、文化祭での一件が働いて例年よりも多くのチョコレートを貰っている。断る理由も無いので全て受け取っているのだが、「本当に私でいいのか?」と疑問に思ってしまっていた。

 女子生徒から名前と学年とクラスを聞き、それをスマホのメモ帳に保存する。女子生徒は「お返しはいりませんから!」と言って頭を下げると、足早に去っていった。その様子を一歩後ろから見ていた鈴と澪が、汐里に話しかける。


「しおりーん、今ので今日何個目? 明らかに過去最高ペースじゃん」

「ええと……十一個目。いや、十二個目かな」

「凄いね、汐里。モテモテじゃない。私と鈴の分も入れたら十四個になるよ」

「それは鈴と澪が自分で食べて。さすがにこれ以上はきついって。貰ったチョコは冷蔵庫に入れておけば、しばらくは大丈夫かなあ」


 汐里は今日受け取ったチョコを鞄の中に入れているが、さすがにもう入り切らなくなってきていた。そもそもこんなにチョコを貰っては食べることが辛いぐらいだ。だが捨てることは失礼極まりない行為だろう。とりあえず食べさえすれば……と考えながら、三人は教室へと戻った。

 教室に入るとチョコレートが入った袋を持っている汐里を見たクラスメイトが、「高畑さん、またチョコ貰ってるじゃん」「男子よりもモテてね?」と話しかけてきた。汐里は苦笑いを浮かべて肩をすくめ、「どうやって食べきろうか考え中」と返し、自分の席に腰掛けた。鈴と澪も自分の席に戻っていく最中、汐里は鞄の中に貰ったチョコを入れる。今日は用意する教科書が少なく、鞄の中に余裕があったのがラッキーだ。


(でもこれ、本当にどうしよう。うーん、家族と食べるっていうのもなあ。でも血縁だから私が貰ったものを一緒に食べても、ギリセーフ……?)


 と汐里が机に頬杖をついて考えを巡らしている所に、汐里の髪をそっと撫でる手が伸びてきた。汐里は思わず「うわっ」と声を上げ、体をびくっと揺らしてしまう。横に気配を感じ、椅子に座ったままそっちを見上げると、いつの間にか汐里の隣には一ノ瀬が柔らかな笑みを携えて立っていた。


「一ノ瀬さん、びっくりさせないでよ」

「ごめんなさい、高畑さん。でもそんなつもりはなかったのよ。それに高畑さんを本当にびっくりさせたいなら、もっと別なところを触って……」

「あー、それ以上は言わなくてもいいよ、一ノ瀬さん。で、どうしたの?」

「これを渡したかったの。高畑さん沢山チョコ貰っているから、渡すタイミング遅れちゃって」


 そう言って一ノ瀬が汐里に差し出したのは、袋に包装された小さな箱だ。一ノ瀬も今日の例に漏れず、チョコレートを汐里に渡したのだろうが、これは明らかに高級そうだ。汐里はその箱を受け取ると、一ノ瀬を見上げたまま聞いてみる。


「これ、もしかして高いやつ? そこまでしなくても……」

「高畑さんに相応しいチョコを選んでいたら、必然的にブランド品になっちゃっただけ。それに私、義理チョコって送らないの。渡す時は必ず一人だけだから、その分を回しているのよ」


 一ノ瀬は「口に合うと嬉しいな」と言って、楽し気に汐里を見ている。一ノ瀬の言葉から考えるに、これは本命チョコということだろう。汐里がサエジマと付き合っているというのは一ノ瀬も知っているはずだが、まだ汐里が諦められないのかそれを抜きにして、単に汐里が好きなのかのどちらかだろう。一ノ瀬ならば明日にでも彼氏の何人かはできそうなものである。もしかしたら、自覚が無いだけでもういる可能性もあるのだが。


「嬉しいけど……お返しは、あまり期待しないでね。今年、妙にいっぱい貰っちゃって」

「そういうことなら気にしないで、高畑さん。私が好きで渡しただけだもの。それにお返しを貰うなら、物よりも──」

「一ノ瀬さん、それ以上は言わなくてもいいから。言いたいことは分かった」

「あら、残念。でも高畑さん──気が向いたなら、私はいつでもいいから」


 と一ノ瀬は小声で、誘うような口調で汐里に言うと自分の席へ戻っていく。このチョコを男子に渡して、今みたいな調子でああやって言えば、大抵の男は手玉に取れるんだろうなと汐里はある意味で感心した。


(しかし一ノ瀬さん、高そうなチョコ買ったなあ。……でもまあ、私も人のこと言えないか。義理チョコは送らないっていうのも、同じだし)


 汐里に関しても、一ノ瀬と同じだった。義理チョコは送らず、渡すのは一人だけ。そしてその一人に渡すチョコも、彼に合うものをと考えていたら必然的に高価なものになっていた。だが彼がクリスマスプレゼントに送ってくれたものを考えると、安すぎるぐらいだろう。本当はあのイヤーカフをずっと身に着けていたいが、さすがに学校には着けて登校することはできない。


(サエジマさんとは、今日公園で会う約束してるし。その時に私も渡そう)


 汐里はそう考え、次の授業の準備を始めた。手作りではないがサエジマさんは喜んでくれるだろうかと思いながら。




 学校を終えた汐里は一度自宅へと帰宅すると、サエジマに渡すために購入したチョコレートを持って制服姿のまま公園へと向かった。その際にクリスマスプレゼントでサエジマから送られた、銀色のイヤーカフを右耳につけていた。これを貰って最初に耳に着けたときは、鏡の前からしばらく汐里は動かなかったぐらいだ。

 汐里が公園に到着し、いつもの場所でいつものベンチに腰掛ける。約束の時間には少し早いが、汐里は仕事で大変なサエジマを出迎えてあげたいと思い、約束をした時にはこうして早めの時間に待ち合わせていた。

 鈴と澪からは「サエジマさんに渡すチョコはどうするの?」と聞かれたが、手作りではなく店で買ったチョコにすると言った。手作りとは言え、よほど手が込んでいなければ溶かした市販のチョコを型取るぐらいだ。それならばちゃんとした職人が作ったものを、多少値が張るとは言え買った方がいいだろうと汐里は考えた。

 それについては二人は納得してくれたのだが、チョコを渡した後、どうするのかを澪にこっそりと聞かれていた。明日も学校があり、サエジマももちろん仕事があるだろう。チョコを渡して、少し雑談をしたら今日は帰るつもりなのだが……。


(……少しぐらいなら家に寄っても大丈夫、かな。サエジマさん次第だけど……)


 汐里はそうなった場合のことを頭の中で想像し、もじもじと脚を摺り寄せていた。妙な気分になりかけていることに気づき、汐里は頭を振った。少し気を取り直そうと、自販機で缶コーヒーを買おうと思いベンチから立ち上がった時、「遅れてごめん、汐里ちゃん」と声をかけられた。汐里がその方向を向けば、サエジマの姿が見えた。黒いスーツ姿に、首元のネクタイは汐里がクリスマスに渡したものが巻かれている。汐里と会う時は、殆どこのネクタイをサエジマは身に着けていた。単純に気に入っているのもあるだろう。


「いえ、まだ時間にはなっていませんよ。私が早く来ただけですから」

「俺ももっと早く来れればいいんだけどね……いかんせん、仕事の状況で左右されちゃうから」


 サエジマは汐里の傍に歩み寄ると、財布から小銭を取り出して自販機に入れる。そしてサエジマは「どうぞ」と汐里に笑みを見せ、自販機を指差した。奢ってもらうつもりはなかったのだが、断ってもサエジマは「気にしない、気にしない」と言うのが汐里には目に見えていた。ここは素直に買っておこうと、汐里は缶コーヒーを購入した。がたんっ、と音を鳴らし、取り出し口に落ちて来た缶を汐里が手に取ったのを見てから、サエジマは「実はね」と申し訳なさそうに頭を掻いた。


「今日はあまり時間が取れないんだ。この後、すぐ会社に戻らないといけなくて」

「そうなんですか? それだったら、無理に時間を取らなくても……」

「あー、いや。ちょっと今日は、電話とかじゃなくて汐里ちゃんに直接、言わないといけないことがあるから。だから来たんだ」

「その様子だと、愛の言葉……とかじゃなさそうですね。でも私もサエジマさんに渡したいものがありますから、来て頂いたのは嬉しいです」


 汐里はそう言ってから、手に持っている袋をサエジマに手渡す。一ノ瀬が汐里に渡したチョコレートほど高価ではないだろうが、汐里がケーキ屋でバレンタイン限定チョコというのを見つけ、らしくもなく可愛いラッピングをしてもらったものだ。気合が入っていると思われそうで恥ずかしいが、正直それも今更だろう。


「ハッピーバレンタイン、ってやつです。よければどうぞ」

「俺に? ──ああ、そういえば今日はバレンタインか。はは、社会人になって随分経つから、こういうの忘れていたな。ありがとう、汐里ちゃん」

「手作りじゃないですけどね。それにサエジマさんからしたら、クリスマスの時みたいな過激な方が良かったですか?」


 と汐里は悪戯っぽく笑って見せる。いつものサエジマならば、汐里に何か一言返して反応を確かめるだろう。だがサエジマは「そうかもね」とだけ呟いて、どこか寂しそうな表情を見せた。その表情がいつもは見せないものであること、それが直接言わなければいけないことに関係しているのだと、汐里は気づいた。


「……ああ、チョコを貰ったんだから、お返ししないとな。確かホワイトデーは、バレンタインデーの一か月後だったか」

「ええ、そうですね。……それがどうしました?」



 汐里は頷きながらも、サエジマが自分に伝えなければいけないことが何なのかというのを理解していた。していたが、それを汐里は聞きたくなかった。できることなら耳を塞いだり、無理矢理この場から去ってサエジマが口にする言葉から逃げたかった。だがそんなことをしても、何の意味も無いというのも汐里は知っている。

 自然と髪の毛先を、汐里は指先で弄っていた。もしかしたら、サエジマも汐里のこの癖に気づいているのかも知れない。だから汐里に伝えるのを一瞬、躊躇ったのだろう。

 だがサエジマも、汐里に言わなければならない。それを分かっているから、口を開いた。


「それまでは何とかこっちにいられるなと思ってさ。……三月の三週目が終わるぐらいに、地元に帰ることが決まってね。こっちの仕事が落ち着いたんだ。後は引き継ぎ作業ぐらいかな」

「……一時的に地元に帰る、とかじゃなくてですか?」

「ああ。向こうに完全に戻るよ」

「それでも定期的には、こっちに仕事で来るんですよね?」

「あるいはね。でもほんの数日ぐらいになるだろうし、しょっちゅうこっちに来ることもないと思う」

「そうですか。……ま、そうですよね」


 汐里はぽつりと呟く。それで自分を納得させることができるのなら、どれだけ楽になれるか。しかしそれができないから、汐里はサエジマから奢ってもらった缶コーヒーを右手でぎゅっと握り締めていた。

 別れの時が来るのは、知っていた。だが音を立てずに忍び寄ってくる別れの予感を信じたくなくて、汐里はそれから目を背けて過ごしていた。サエジマとの時間がそれを忘れさせてくれた。あるいはサエジマもそうだったのだろう。

 だが必ずその瞬間はやって来る。忘れようとしても、忘れたくても。汐里はその事実を受け止めるのに必死だった。


「でもサエジマさんの仕事がひと段落して良かったです。……今日だってこのことを直接、伝えに来てくれたのは正直、ありがたいです。電話だったら、もっと取り乱していたかも知れません」

「はは、ありがとう。──取り乱すのは、俺がこうしてすぐ傍にいないからかな?」


 サエジマはこの空気を少しでも和ませようと、汐里にそう言って笑いかけた。いつもならば「自意識過剰じゃないですか」とでも返しているのだろうが、サエジマとの今の関係を考えれば、誤魔化す必要なんてないなと汐里は思った。


「ええ。サエジマさんが傍にいなきゃ寂しいですから」


 汐里はそうきっぱりと言った。そしてサエジマの首の後ろに手を伸ばすと、ぐいっと半ば無理矢理に自分の方へと引き寄せる。突然のことに思わず前のめり気味になってしまったサエジマの顔が汐里へと近づくと、汐里は軽く背伸びをしてサエジマの唇に自らの唇を重ねた。突然のキスにサエジマの目が驚いたように開くが、汐里はそれに構わずに、サエジマの唇を啄んでいく。そして軽く歯を立てて、甘噛みをしながら緩く唇を吸い上げ……そこで汐里は唇を離した。サエジマの首の後ろに回していた手も同時に離すと、さすがに困惑したようにサエジマは汐里を見つめていた。それに応えるように、汐里は肩をすくめる。


「サエジマさんと離れ離れになるから、嫌いになった……なんて思われたら嫌ですから。もう隠す意味も必要も無いから言いますけど、私はサエジマさんのこと大好きなんで。……本当ならこれからサエジマさんの部屋に行きたいんですけど、さすがにそれは無理ですからね。ここではキスだけです」

「……随分とまあ、大胆になったもんだ汐里ちゃんも」

「今更じゃないですか? 色々としたのに」


 と汐里はくす、と笑い小さく首を傾げた。その仕草が妙に艶のあるものでそれを見たサエジマは、「……まだ今日仕事あるんだけどな」と呟き、腕を組んだ。そこでサエジマは腕時計に目を落とす。どうやら時間的にそろそろ行かなければいけないようだ。


「とりあえず、今日はもう行くよ。……また連絡するから」


 サエジマはそう言って汐里から貰ったチョコレートが入った袋を手に、公園から立ち去ろうとする。と、背中を向けたところに汐里が「サエジマさん」と声をかけた。


「サエジマさんがどう考えているかは分かりません。でも、私はまだ答えを出してはいませんから。サエジマさんが戻ってしまうまでの間に、私はそれを見つけて伝えます」

「……分かった。それについては、俺がどうこう言うことじゃないな。どんな答えであれ、俺はそれを受け止めるよ」


 サエジマは汐里の強い意志を感じる言葉に一度振り返り、笑みを浮かべた。それからまた汐里に背を向けて、公園から去っていく。

 汐里はサエジマを見送ってから、奢ってもらった缶コーヒーをまだ飲んでいないことに気づいた。蓋を開け、中身のコーヒーを口に含む。少し時間が経っているため、ホットで買ったがぬるくなってしまっていた。

 このコーヒーがぬるくなるよりは、答えを考える時間はある。それまでにそれを見つけ、サエジマに伝えなければならない。

 どちらにしろ、汐里にとっては短い時間だった。

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