第21話 日常から少し離れたその場所

 制服の上に白いパーカーを着た汐里は日も落ちて、すっかり暗くなってしまった空を見上げながら、駅前広場に一人佇んでいた。時間帯としてはまだ夕方の六時を回ったところなのだが、季節的にもうこの時間になると日の影も見えなくなってしまう。時折吹く風の冷たさが、冬の到来を本格的なものだと知らせてくれていた。

 汐里は昼休み中にサエジマに電話をして「仕事が終わった後に、部屋に上がってもいいですか?」という、唐突すぎる頼み事をしてしまったのだが、サエジマは一分ほど「んー……」や「あー……」と頭の中で考えを巡らせていることが分かる声を漏らしていたが、「分かった。じゃあ夕方六時頃に駅前広場で」と汐里に伝えて、電話を切った。サエジマも恐らくは昼休みを取っていたのだろうが、まさか汐里からこんな電話がかかってくるとは思っていなかっただろう。


(……突然すぎたかな。いや、でも早い方がいいか。私もいつまでもこのままじゃいけないだろうし)


 と考えながら、汐里はスマホを取り出し時間を確認する。約束の時間は過ぎてしまっているが、汐里は別に気にはしていなかった。むしろ予定を合わせて、自分のために時間を作ってくれたであろうサエジマに感謝をしていた。こうして待ち合わせをしているのがいつもの公園ではなく、駅前広場だというのが何だか新鮮ではあった。もしサエジマと出会ったのがここだったら、あんなにのんびりとは話せなかっただろうなと、汐里は思う。


「ごめん汐里ちゃん、ちょっと遅れちゃったよ。定時で帰ろうとしたら、少し雑談で捕まってね」


 そこにやって来たのは、見慣れた黒いスーツ姿のサエジマだ。私服姿も汐里にとっては新鮮だったのだが、こちらのお馴染みとなっているスーツ姿の方が汐里にとっては好みだった。サエジマにスーツが似合っているというのもあるのだが、正直なところ、汐里の趣味の部分もある。汐里は無自覚ではあるが。


「気にしないでください、私も大して待ってはいませんから。むしろ、無理なお願いをしてしまってすいません、サエジマさん。……あの、迷惑でしたよね」

「んー、そりゃちょっと卑怯だよ、汐里ちゃん。女の子からそれを言われて迷惑だって言える男はいないんじゃないのかな」

「あ、いや、そんなつもりは……」


 サエジマが軽くからかうつもりで言うと、汐里はそれを真に受けてしまいそうになる。サエジマは「真面目だなあ、汐里ちゃんは」と言って軽く笑って見せた。確かに今の流れで迷惑だ、と言える男はそうそうはいないだろう。


「……あれ? 汐里ちゃん、制服姿なんだ。上にパーカーは着ているけど」

「はい。最近は随分気温も下がりましたから、制服の上にこれを着て登校しているんです」

「なるほどね……いや、でも制服姿でいいのかなって。ほら、俺と歩いているところを学校の友達だとかに見つかったら、何か言われるんじゃないのかな」


 サエジマの考えていることは最もだ。制服姿でなく、私服に着替えて伊達眼鏡や帽子などの一点で、汐里だということはバレにくくなるだろう。少なくとも今よりは。

 だが汐里は「大丈夫ですよ」とパーカーのポケットに手を入れたまま、そう答えた。


「もしそうなっても、親戚のお兄さんだと言えば問題ないでしょう。サエジマさんと私が、その……そういう関係だって言われても、証拠はありませんし」

「まあ、ね。それと親御さんへは何て連絡しているんだ? 何の連絡も無しにいつもよりも帰りが遅くなって心配しない親はいないだろ」

「親へは友達と遊びに行くから遅くなるって連絡してます。帰る前にもちゃんとメッセージを入れるって伝えていますから、ご心配なく」


 明日も学校がありますから、と汐里は付け加えた。それにサエジマも仕事がある。そこは汐里も弁えているつもりだった。

 きちんと準備……をしていることを聞かされたサエジマは「そっか」と短く呟いて頷くと、駅から住宅街の方へ続く道を指差す。汐里の自宅がある方向とは逆だった。


「それじゃ案内するから、行こうか。さすがに手は繋げないな、今は」

「残念です。……って言ったほうが良かったですか?」


 汐里はそう言って、首を傾げた。サエジマは「あるいはね」と肩をすくめ、反応を返してから歩き始める。汐里はサエジマの横には並ばず、少し後ろをついていった。汐里の歩幅を考えてなのか、サエジマの歩く速度は少しゆったりとしていた。

 帰宅途中、もしくはまだ仕事途中のサラリーマンや部活動を終えて集団で帰っている他校の学生たちの姿を見ながら、二人は駅前から離れていく。汐里が通っている高校の制服を着た学生も目に入ったが、それだけだ。特に関わることもなく、離れてく。下手に気にしている方が逆に興味を引いてしまうものだ。

 どれほど歩いただろうか。時間は確認していなかったが、恐らく十五分ぐらいは歩いたはずだ。その間、汐里とサエジマは会話をすることはなかった。どちらかが話題を振ることも無く、黙って歩いていた。


「ここだよ」


 とサエジマが言って立ち止まった場所は、一軒のマンションだった。てっきりもっと小さいところだと思っていたので、汐里は思わず「いいところに住んでますね」と呟いていた。言った後に、値踏みをしているしょうもないような人間の発言だ、と思い汐里は少し後悔をする。


「ん、まあそうでもないよ。マンスリータイプのマンションだからね。こっちには元々それほど長くいる予定ではないし、この方が便利だったからね」


 サエジマは汐里にそう説明をしながら、マンションの中へと入っていく。汐里もサエジマの背中を追うようにしてついていった。サエジマはエレベーターの上行きへのボタンを押し、扉が開いたエレベーターの中へ汐里と共に入る。③のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと三階へと上がっていく。ドアが開き、エレベーターから出ると、サエジマは通路を歩いていく。丁度エレベーターにも通路にも人がいなかったので、汐里は少しほっとしていた。

 通路を歩いていき、三階の一番奥へと来たところでサエジマはスーツの上着のポケットから鍵を取り出すと、ドアに差し込みロックを解除した。ここがサエジマの住んでいる部屋のようだ。


「一応、昨日綺麗にしたつもりなんだけど……まあ、上がって」

「男の一人暮らしで部屋が汚くても、別にそれで引いたりはしませんよ。……お邪魔します」


 汐里は自分を落ち着かせるようにふう、と息を吐いてから玄関に入りスニーカーを脱いで、それを揃てから部屋の中へと上がった。サエジマは汐里が部屋に上がったのを見てから玄関に入り、靴を脱ぐ。その際にいつもはやらないが、自分の脱いだ靴を揃える。その理由はまあ、汐里がいるからだろう。

 サエジマが住んでいるこのマンスリーマンションは、1LDKのようだった。汐里が上がったリビングは「綺麗にしたつもり」とサエジマが言っていたのもあり、ゴミや脱いだ衣服なども落ちてはおらず、読んでいるであろう本もきちんと整頓されて置かれていた。マンスリーマンションなのでこの部屋に用意されているテーブルやソファなどの家具は、全てあらかじめこの部屋に置かれている物だ。そうでなければ、この部屋はもう少しサエジマの好みのものにレイアウトされていることだろう。


「あまり見られるとさすがに恥ずかしいな。……汐里ちゃん、飲み物どうする? いつもの缶コーヒー以外だと、オレンジジュースか炭酸があるけど。あ、とりあえずそこのソファにでも座ってよ」

「いえ、綺麗にしているなと思って。それじゃ……缶コーヒー、お願いします」


 部屋の中を確認され、くすぐったそうにしているサエジマは、部屋の暖房をつけると冷蔵庫の中を開けて、公園でいつも飲んでいる缶コーヒーを二本取り出した。どうやら常備してあるらしい。それを見た汐里は何だか微笑ましく思いながら、パーカーを脱ぎソファに腰掛ける。サエジマも汐里に缶コーヒーを手渡し、少し間を空けてその隣に座った。


「悪いね、今インスタントのコーヒーを切らしてるんだ。冷たいけど、いつものそれで我慢してくれないかな」

「気にしないでください。暖房が効いてくれば、部屋も暖かくなりますし……冷たいので丁度良くなります」


 汐里は受け取った缶コーヒーの蓋を開け、「いただきます」と一言言ってから、口にした。以前は苦手で飲めなかった缶コーヒーだが、サエジマと一緒に話している内にその苦手意識はなくなっていた。

 サエジマも蓋を開けて、中身のコーヒーを口に含んだ。こうして見ればいつもの公園で話しているのと変わらないが、今は場所が違う。初めて入った、サエジマが住む部屋の中だ。男の人の家に一人で来たのは初めてだな、と今更ながら汐里は気づいた。


「……で、汐里ちゃん。部屋に上げてから聞くのも何だと思われるだろうけど、どうして急に俺の部屋に来たいって思ったの? ……あの一ノ瀬って子に何か言われた?」

「まあ……それもあります。一ノ瀬さんに何か言われたのは事実ですけど、でもサエジマさんに確認したいこともあって」

「確認したいこと?」


 汐里は「はい」と頷き、手を伸ばしてまだ中身が入っている缶をテーブルの上に置くと、顔を向けてサエジマを見る。サエジマの方も汐里に倣い、同じように缶を置いてから汐里の言葉を待った。


「水族館でデートをして、そこで……その、私もサエジマさんのことが好きですし、サエジマさんも私のことが……っていうのが、分かったじゃないですか。いや、まあ、キスをしたんでわざわざ確認をすることはないと思うんですけど」

「……改めて言われるとやっぱり恥ずかしいな、年甲斐もなく」


 文字通り確認をするように汐里がそう言うと、サエジマは思わず頭を掻いた。汐里はそんなサエジマとの距離を、体を寄せて詰めていく。サエジマが気づいたときには汐里とはぴったりと体を寄せ合うぐらい近づいており、汐里の左手はサエジマの左肩を掴んでいた。スーツの上着に皺が入ってしまうくらい、ぎゅっと握りしめられている。


「ですから……あの、私とサエジマさんはそういう関係と思っても良いんですよね? 私一人が浮かれちゃってるんじゃなくて、そう思っても良いのかなって」

「……あの時、あそこで言った言葉に嘘はないよ。だから、まあ……そういうことかな」


 サエジマが頷き、自分の左肩を掴んでいる汐里の手をそっと離そうとするも、汐里は力を緩める気配はない。むしろ汐里は更にサエジマに体を寄せており、「汐里ちゃん?」と声をかけられても汐里はそれに応じることはなく、体を汐里の方に向けようとしていたサエジマを、そのままソファに押し倒してしまう。サエジマの上に覆いかぶさるようになった汐里の目の前には、驚きで目を瞬かせているサエジマの顔があった。

 汐里は一度、吐息をサエジマの唇に吹きかけてから顔を寄せて、唇を重ねた。水族館でキスをしたときには出来なかったな、と汐里は熱を持ち、ぼんやりとした頭で考えながら、自分の舌をサエジマの口内に差し込んだ。サエジマの手がぴくん、と動くも今この状態で汐里を押しやってはケガをさせてしまう可能性があった。だからサエジマの手は動かない。

 動けないサエジマの体の上で、汐里は自分の舌にサエジマの舌を絡ませてみた。ねっとりと生暖かく、不思議な感触が広がっていく。だが不快感はなかった。頭の中だけではなく、体にも熱が回ってきているのを感じながら緩く舌をすすり、それから汐里はゆっくりと唇を離した。口の中には自分の唾液と、サエジマの唾液が混ざっている。汐里はそれを知りながら、サエジマに見せるようにしてごくん、と喉を鳴らし、飲み込んでいく。


「……あ、そうか……」


 汐里はぽつりと呟く。もう冷静な判断ができなくなっている汐里の頭の中で思い出されているのは、夕暮れの教室で汐里を襲いかけた一ノ瀬の言葉だった。

 サエジマとこうしていると、頭がおかしくなりそうになる。部屋の中は暖房が効き始めているものの、まだそこまで暖かくはない。だが汐里の首筋にはうっすらと汗が滲んでいた。

 汐里は体を起こして、ソファに押し倒したサエジマを見下ろす。跨った状態のまま、汐里は制服の上着のボタンを外すと、無造作に脱ぎ捨ててしまう。それでも汐里の体の熱は冷める気配はない。


(体が熱いなあ……そうだ。もう全部脱いじゃおうかな。……ん、その方が良いよね)


 そのまま、ブラウスのボタンに汐里の指がかけられる。上からひとつ、ふたつとボタンを外していき、汐里の胸を包む水色の下着が覗いて見えた。同年代の女子の中でも比較的成長しているのか、はっきりと胸の谷間がある。そしてブラウスのボタンを全て外してしまおうと、汐里が指を動かしているところで、サエジマの手が汐里の腕にそっと触れた。


「汐里ちゃん」


 サエジマの静かな声。大きくはないその声は汐里にしっかりと届き、ブラウスのボタンを全て外しかけていた汐里の手を止めると、汐里は顔を真っ赤にしてしまう。今の自分の状態を見て、というのもあるだろうが、半ば暴走しかかってサエジマを押し倒してしまったのも原因だろう。ぱたん、とサエジマに再び覆いかぶさるように体を倒すと、汐里はサエジマの首元に顔をうずめるようにした。真っ赤になった顔を隠すように。


「……ご、ごめんなさい。……わ、私、失敗ばかりで……今日サエジマさんに会って、初めて部屋に上がって、サエジマさんの口から……こ、恋人同士になれたのを聞けたら、嬉しくて……いきなり、こんなこと……」

「……多分、軽蔑されると思うんだけど」


 震えている汐里の声。その途中でサエジマが汐里の頭を撫でながら、言うべきかどうか迷っているのか、歯切れ悪くこう口にした。


「頭のどこかで……そういうことを出来るだけ考えないようにしても片隅に、汐里ちゃんとこうなるのを想像していた自分がいるんだよ、部屋に上げるって言った時点で。お坊さんでもなければ、期待しないのは無理だな」


 サエジマが諦めたように白状する。汐里はそれを聞いてくす、と小さく笑った。それからサエジマの耳元に唇を寄せて、「軽蔑なんかしませんよ」と囁いた。自分にも少しは魅力があったのだろうか、と汐里はほのかに実感する。

 そこで汐里は「んっ」と艶のある声を漏らしながら、サエジマの首元にうずめていた顔を上げた。汐里が自分の体にちら、と視線を向けて見ると、サエジマの両手が汐里の形の良い尻肉をスカート越しに掴んでいた。だが汐里に抵抗するような様子は欠片も無い。


「……やらしい手つきですね、サエジマさん」

「そりゃあ、ね。……汐里ちゃん、ひとつ聞きたいんだけど。もしかして制服姿でここに来たのって……」

「──お察しの通りですよ。サエジマさんが喜ぶかなって思って……」


 汐里はバツが悪そうにサエジマから視線を外しながら、「笑いたいならご自由に」と投げやり気味に言う。そんな汐里の様子を見て、「お気遣いどうも」とサエジマは小さく笑った。その最中、サエジマの両手が動くと、汐里のスカートの中にその手がゆっくりと潜り込んだ。汐里は喉から上げてしまいそうになる嬌声を必死に我慢しながら、サエジマの頬に手を添える。まともに話せる内に、言おうと思った。


「あの……お手柔らかに、お願いします」

「……善処するよ」


 そして汐里はまだかけられていた残りのブラウスのボタンを外すと、前を全て開けてしまう。下着姿をサエジマに晒しながら汐里は「勝負下着も用意しておくべきだったかな」……なんてことを考えていた。





 いつもの公園で汐里は一人、ベンチに座っている。当然のことながら公園内に人の姿は無く、街灯が頼りなく汐里の周囲を照らしていた。その汐里はと言えば、スマホを耳に当てて通話をしている最中だ。相手は母親で、サエジマの部屋から帰る前にメッセージは入れておいたが、一応電話もかけることにした。もうすぐ家に着くので、その必要は無いと言えばそうなるが。


「お母さん? うん、もうすぐ家に着くから……分かってるよ、期末テスト前に遊ぶのはこれが最後だから。ちゃんと勉強するって。……ん、じゃあ家に帰ったらご飯食べてからお風呂に入る」


 汐里はそう言って通話を切ると、スマホをパーカーのポケットに入れる。だが汐里はすぐにはベンチから立ち上がらず、ぼんやりと自分の足元に視線を向けていた。

 ポケットに入れたスマホを再び取り出し、汐里はサエジマに電話をかけようとした。だがそれを思い止まり、またポケットにスマホを戻した。スマホから離れた汐里の手は、自分の髪の毛を弄っている。その顔はほんのりと赤い。何だかまだ体に熱が残っているような気もした。


「サエジマさんは隣は空き部屋って言っていたけど……あんな声、サエジマさん以外に聞かれたら……」


 汐里は「ああ……」と情けない声を上げながら、夜空を見上げた。今はこの冬の冷たい空気がむしろ心地良いぐらいだ。


「次にサエジマさんと会う時、どんな顔をして会えば良いのかな……いや、会わないといけないよね。そのためにはまず目先の期末テストか……」


 汐里は立ち上がり、よし、と決意を固める。期末テストできちんと結果を残さなければ、今のように自由な時間も減ってしまう。それでサエジマに会えなくなるのは嫌だったし、何なら何で中間テストよりも悪くなったのか、と教師や親からも聞かれそうなのが一番まずい。

 自宅に向かいながら汐里は「明日一ノ瀬さんにお礼を言うべきかな」と呟いたが、それもそれで面倒になりそうだった。根掘り葉掘り聞かれるに違いない。

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