第20話 日常とその少し先へ

 サエジマとの水族館でのデートを終えてから数日間は、汐里は文字通り上の空だった。期末テストが近づいてきているのは理解しているのだが、どうにもこうにも勉強に身が入らない。汐里は学力に関しては学年の中でも上位に入っているレベルであり、担任の教師からは「上の大学も狙えるぞ、高畑」と期待を込めた言葉を以前に言われたことがある。実際、中間テストも二百人はいる学年で三十番以内には入っていた。汐里自身も期末テストはそれ以上の順位を狙っていたのだが、雲行きは相当怪しいことになっていた。


「しおりーん、サエジマさんと一体何があったのさ。もしかしてケンカしちゃったの?」


 昼休みに入り、いつものように三人で昼食を取ろうとした時、鈴が汐里の顔を覗き込みながら聞いてきた。この瞬間まで鈴は汐里にあえて質問をしなかったのだが、さすがに気になりすぎたのか、好奇心には勝てなかったようだ。汐里の机に椅子を引いてやって来た澪が「あーあ」と溜息を吐く。


「鈴、いくら何でもストレートに聞き過ぎでしょ。汐里の様子を見て、もう少し回り道をして聞かないと」

「ええー。でも今のしおりんにそれをしたら逆に何も聞けなさそうな……」

「……サエジマさんとはケンカなんかしてないよ。むしろ逆……いや、この言い方は正しいのかな」


 のそのそと弁当箱を開けながら、汐里はぽつりと呟いた。鈴と澪はそれを聞くと顔を寄せて、周りに聞こえないように小声で話し始める。その様子を見れば何かしらの内緒話をしているというのが丸わかりなのだが。


「なになに? サエジマさんと、どうしたの? デートに行ったとか?」

「ああ、それはあり得そう。汐里、ついに誘えたんだね。良かったよ、本当」

「うん……デートに誘ったのはそうなんだけど。それで、その、前に行けなかった水族館に行って……そこで、何て言うか……サエジマさんに、好きって言われた。それで、その後……キス、したんだ。……私からねだったんだけど、サエジマさんは優しくしてくれて……」


 鈴と澪のほのぼのした雰囲気を感じている中、汐里はぼそぼそとした声で呟く。たどたどしい説明口調だが、声色には確かな嬉しさが滲んでいた。澪が汐里の顔を見てみると、その時のことを思い出し、喜びを隠しきれていない笑みが口元に浮かんでいる。今まで澪が見たことのないような、汐里の笑い方だった。

 鈴はその説明を聞いてすぐには呑み込めなかったのか、目が点になっている。澪の方はちゃんと理解したものの、汐里からキスをねだったというのに驚いているのか「汐里って私が思ってるより大胆なんだ……」と口にしていた。汐里はそれぞれの反応を見てはっと浮かんでいた笑みを戻す。


「あ、違うの──サエジマさんからの告白じゃなくて、本当は私がサエジマさんのことを好きなのがバレバレだっていうか。サエジマさんに好きって言われたのは本当だけど、告白をしたのは実質的には私からっていうか……」

「くあー! 甘過ぎるー! ハチミツに練乳とガムシロップを混ぜたみたいだ! なんだこれはー!」

「うん! 甘いよね、この玉子焼き! 砂糖の量間違えたんじゃないかなあ!」


 汐里の甘い語り。それを聞き、ようやく状況に追いついた鈴は頭を抱えながら半ば叫ぶような声を上げていた。澪は慌てて鈴の叫びに合わせたことを同じように大きな声で言いながら、鈴の背中を勢い良く叩く。鈴は「ぐえっ」と声を漏らし、叩かれた場所を手で撫でた。教室で昼食を食べていた他の生徒たちは「何? どうしたの?」「いや、なんか玉子焼きがどうのこうのって」と話し、汐里たちの方を見ていたが、すぐに自分たちのグループの会話へと戻っていった。澪はほっと息をついてから、鈴をじろりと見る。


「鈴、ちょっと大きな声出し過ぎだって。驚いたのは分かるけど」

「いやいやいや、驚いたどころじゃないって。あのしおりんが──あのしおりんがだよ? もう聞いてるだけで恥ずかしくなってくるような、甘い惚気話をしてくるって想像できた? 私はできなかったよ」

「まあそれは確かにそうなんだけど……でもこれはちょっと、まずいと思う。期末テストも近いし、汐里がこんな状態のままだったらまともに勉強できないままテストを受けることになるね。それでもし、テストの点数が大幅に下がったら……」

「──原因を追究されるってこと? もし問い詰められて、サエジマさんとのことがバレたら……」


 澪と鈴はそこまで話したところで、話題の中心である汐里を見た。汐里はぼんやりとした表情を浮かべながら弁当を食べているが、おかずのみを食べ終えてしまい残るは白飯しかない。澪は「重症ね、これは……」と目元を指先で押さえ、鈴は「ご飯だけだと飽きない?」と見当違いの心配をしていた。実際、汐里は浮かれている状態であった。

 その汐里に「高畑さん、ちょっといいかしら?」と柔らかな笑みを浮かべ、声をかけてきたのは一ノ瀬だ。三人が集まっている席の近くまで来ると、「ごめんね楽しく話している最中に」と澪と鈴に断りを入れてくる。


「ううん、全然そんなことないって、一ノ瀬さん。それにしても、しおりんのことがお気に入りだねえ」

「あら、バレちゃったかしら?」


 一ノ瀬が首を傾げると、冗談のつもりで言った鈴は「え?」と驚いたように見上げた。澪はじっと一ノ瀬のことを見ていたが、「汐里、ご指名だよ」と汐里の肩をとんとんと叩き、一ノ瀬のことを指差す。澪にそうされる前から汐里は先ほどまでの気の抜けたような表情ではなく、何か思うところがあるような顔つきになっていた。


「場所、変えた方が良いよね一ノ瀬さん」

「そうね、そうした方がいいかしら」


 汐里は食べかけの弁当箱を片付け、鞄の中に入れると席から立ち上がり「こっち」と短く呟いて、一ノ瀬を連れて教室から出ていく。文化祭以降、一ノ瀬は元から学年どころか学校一の美人として注目されていたが、汐里もそういった目で見られることが増えていた。汐里自身は自覚は無かったが、元から密かに人気はあったのだが。その二人が一緒に教室から出れば、「一ノ瀬さんと高畑さん、仲良いよなあ」「文化祭で抱き合ってたのはやりすぎだったと思うけど」「は? でもお前、あの写真で……」というような会話が聞こえてきていた。中学の時からの友人である鈴と澪にとっては、あまり面白いことではなかった。


「ねえみおりん、私たちも行った方が……」

「汐里の邪魔になるよ。……一ノ瀬さんが何を考えているかが問題だけど」




「昼食中にごめんなさい、高畑さん。あの後、二人のデートがどうなったのか気になって仕方なかったの」

「あんな質問をサエジマさんにしておいて良く言えるね。一ノ瀬さん、面の皮が厚くて羨ましいな」


 二人が話している場所は屋上手前の踊り場だ。屋上は特別な理由がない限りは常に鍵がかかっているため、ここに生徒や教員が来ることは殆ど無い。稀にサボりで使用している生徒もいるらしいが、今は汐里と一ノ瀬の二人だけだ。


「ふふ、良かった。いつもの高畑さんに戻ってくれて。この数日間、ずっと心ここにあらずって感じだったもの。あの後に何があったのかなって気になって」

「……意外、心配してくれたんだ。たまに一ノ瀬さんが分からなくなるな。優しいのか、どこまでが本気なのかって。……あのサエジマさんへの質問も、本当に私のためを考えて?」

「勿論よ。ろくでもない男に高畑さんは相応しくないもの。怒られることを分かった上で、あの質問をしたのよ」

「なるほどね……まあ正直、余計なお世話だったんだけど。……で、サエジマさんは一ノ瀬さんのお眼鏡に適ったの?」


 汐里は腕を組み、目の前の一ノ瀬を睨むように見る。汐里の雰囲気はいつもの感じに戻っていた。一ノ瀬はそれを感じ満足げに笑い、「そうね」と一呼吸置いた。


「身長やルックスに関しては問題ないかしら。私の目から見ても、格好良いって思える男性だったかな。それで私の質問に対しても丁寧に、嘘をつくことなくきちんと答えてくれた。取り乱している高畑さんのフォローをしながらね。……悔しいけど、高畑さんが好きになったのも分かるかな」

「素直に褒めすぎて何だか裏がありそうなんだけど……」


 あまりにもあっさりとサエジマのことを認めるようなことを言うので、汐里は拍子抜けしてしまった。一ノ瀬は汐里の反応を見て、思わず苦笑いを浮かべる。

 

「高畑さん、疑りすぎよ。これは私の本心。高畑さんは自分の好きな人が褒められて、嬉しくはないのかしら?」

「それは──嬉しいけど」

「でしょう? だから素直に受け止めて欲しいの。……それで私が気になるのは、私がいなくなった後のことなんだけれど」


 一ノ瀬は「聞かせてくれる?」と期待を込めた眼差しと言葉を汐里に送った。汐里は恥ずかしそうに視線を逸らすも、答えようと口を開いた。汐里の指先はやはり無意識に、自分の黒髪の毛先を弄っている。


「あの後は広場のベンチで少し休憩して……そこで、その……サエジマさんとキス、したかな。本当はイルカショーとか、他の展示も見たかったんだけど、そんな感じでも無かったから……そのまま帰った。途中までサエジマさんに送ってもらったけど……」


 と汐里は正直に、一ノ瀬が去った後のことを話した。これに関しては何一つとして嘘はついていない。汐里からしたら自分の気持ち、そしてサエジマの気持ちを伝えてもらい、初めてのキスをしたことが凄まじい進展だと思っている。

 それを聞いた一ノ瀬は「そうなんだ……」と呟き、何かを考えるように口元に手を当てた。ぶつぶつと呟いているようだが、それが汐里には何を言っているか聞こえない。そして一ノ瀬は口元から手を離すと、不思議そうに汐里にこう言った。


「高畑さん、サエジマさんとセックスしなかったの? どう考えてもそのままサエジマさんの家に上がる流れじゃないかしら?」

「…………ああ、うん。一ノ瀬さんってそういう人だったね、私の前では」


 汐里は怒りを通り越して、呆れを込めた口調で言った。あの時の汐里ではそんなことはできるはずもないし、考えることもできなかった。ただ身を包むような幸福感を噛みしめていたかったのだ。

 だが一ノ瀬は分からないといった風に首を横に振る。価値基準が違うのだから、そうなるのは当たり前ではあるのだが。


「高畑さん、私も以前に言ったことがあるよね? 好きな人とそういうことをしたいと思うのは当然だって。高畑さんもサエジマさんも両想い、拒む理由なんてないんじゃないかしら?」

「それは……私はサエジマさんとは、そんなことはしなくても」

「でも興味はあるし、考えたことはあるのでしょう? だから高畑さんは、あんな風に上の空だったのね。期末テストも近いのに、いつまでもそんなこと考えている余裕はないと思うな」


 一ノ瀬はそう言いながら汐里へと歩み寄り、そして汐里の横に並ぶ。耳元に唇を近づければ、言葉に詰まる汐里に囁くようにこう言った。


「迷っているなら踏み出してみた方がいいよ、高畑さん。サエジマさんはそれで高畑さんを嫌いになる人なのかしら?」


 その言葉を言い終わると、一ノ瀬は汐里の耳元から唇を離し「じゃあ先に戻るね」と告げて、階段を降りていく。その最中ぽつりと「本当に妬けるなあ」と呟いたのだが、それは誰にも聞かれることなく消えていった。

 汐里は少しの間、思考の海に沈んでいた。一ノ瀬からの言葉と自分の気持ちが絡み合い、その海からなかなか抜け出せずにいた。──その海から顔を出し、呼吸をするきっかけとなったのは、先ほどの一ノ瀬のアドバイスにも似た言葉だ。ずっとぼんやりしていた自分を見かねて、ここに連れ出して来たんだろうなと汐里は考える。導き出させた結論がこういったものなのは彼女らしいなと、汐里は小さく笑った。

 制服の上着のポケットからスマホを取り出した汐里は、サエジマに電話をかける。丁度昼休みを取っているならば、電話に出れるかも知れない。

 数回のコールを経て、サエジマは汐里からの電話に出た。汐里の心臓の鼓動が少し早くなる。


【や、汐里ちゃん。この時間に電話をかけてくるのは初めてだね。何か用事でもあるのかな?】

「ええ、まあ……用事というか、サエジマさんにお願いなんですけど」

【ん? お願い?】


 汐里はすう、と息を吸ってから言った。すんなりと言えたのは、汐里自身も少し驚いた。


「今日、サエジマさんの仕事が終わった後に部屋に上がらせてもらってもいいですか?」

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