第19話 日常と大切なもの

 一ノ瀬が話をする場所に選んだのは、休憩場所として利用される屋外広場だった。広々としたそこは庭師が手入れしているようで、綺麗なものだった。春から夏にかけてはここを利用する客も大勢いるようだが、今は冬に差し掛かっている時期ということもあり、この三人以外には片手で数えられるぐらいしかいない。水族館の中にはレストランや他の休憩場所もあるのだから、暖かい場所に行くのは当然だ。一ノ瀬がここを選んだのは、人が少ないからという理由だろう。


「ごめんね高畑さん、こんな寒い場所で。もし暖まりたかったら言って、抱きしめてあげるから」

「あのさ一ノ瀬さん、今日はサエジマさんもいるから。そのノリは、私といる時だけにして。それでもきついんだから」


 汐里はパーカーのポケットに両手を入れた格好で、顔をしかめている。サエジマは一ノ瀬が汐里と関わっている時と、そうでない時のキャラの差が激しすぎることにさすがに戸惑っているようだ。だが肝心の一ノ瀬はそれを気にしている様子は無く、「遠慮しなくていいのに」と不満そうにしている。


「えーと、一ノ瀬さん……って呼ばせてもらおうか、とりあえず。君は俺に話があるんだろ?」

「ああ、申し訳ありません、サエジマさん。はい、色々と聞きたいことがありまして」


 とりあえず話を進ませようと、サエジマが切り出す。一ノ瀬は脱線しかけた話題をレールに戻すと、一度小さく咳払いをしてから、サエジマを見つめまず一つ目の質問をした。


「サエジマさんは、高畑さんと何処で知り合ったんですか? お二人は雰囲気が似ていなくもありませんから、もしかしたら親戚同士かも……という考えもあるのですが」

「汐里ちゃんとは、彼女の家の近くにある公園で知り合ったんだ。その時は汐里ちゃんは、学校帰りだったかな。俺は仕事でお得意先を回っていて、休憩場所にその公園を見つけて、立ち寄ったんだ。俺は仕事で地元からこっちに来ている人間だからね、本当に偶然さ」


 とサエジマは、一ノ瀬に汐里と知り合った経緯を説明する。その口調には淀みはなく、本当のことを言っているというのが伝わる。一ノ瀬もそれは理解しているが、念のためということだろう、「高畑さん、本当なの?」と確認をしてきた。


「ん、サエジマさんは本当のことしか言っていないから」

「ふうん……信頼しているんだ、このサエジマさんのことを」


 汐里が自信を持って頷いたのを見て、一ノ瀬はどこかつまらなさそうにそう口にした。一ノ瀬の中にある感情は、紛れもなく嫉妬だろう。サエジマもそれを感じ取っているようだ。


「一ノ瀬さんは、サエジマさんが怪しい人だと思ったんでしょ? 全然そんなことはないから。もう気が済んだら、中に戻ろうよ。イルカショーも見たいし」


 汐里からしてみれば、サエジマが怪しまれてあれやこれやと質問をされているのを目の前で見るのは面白くはない。不快感さえも若干芽生えていた。だから汐里はこの問答をさっさと切り上げさせようと、一ノ瀬に強い口調で言った。だが一ノ瀬は「まだ聞きたいことがあるから」と汐里の要求をつっぱねる。汐里からのお願いであれば何でも聞きそうな一ノ瀬だが、これに関しては別なのだろう。


「では次の質問をさせてもらいますね。サエジマさんは、高畑さんと付き合っているのですか?」


 その質問にサエジマが答える前に、「一ノ瀬さん!」と汐里が声を荒げ、彼女に詰め寄ろうとしていた。それをサエジマが手で制すと、「落ち着いて、汐里ちゃん」と静かな声で呟いた。汐里はその声でどうにか湧き上がってきていた感情を抑えた。


「汐里ちゃんとは、そういう関係ではないよ。その公園では学校帰りの汐里ちゃんと、休憩中の俺が何てことはない雑談をしているのさ。仕事で疲れている俺にとっては、そののんびりとした時間が大切なんだ」


 サエジマはそう説明をしながら、自分の隣にいる汐里を優しい目で見る。そのサエジマと不意に目が合った汐里は、思わずどきっとしてしまった。こんな状況じゃなければな、と汐里は思ってしまう。

 そんな二人を一ノ瀬は冷めた目で、しかしどこか羨ましそうに見ると「分かりました。では次の質問をしますね」と切り出した。


「サエジマさん、貴方が高畑さんとそうやって会っているのは、結局のところ高畑さんの体が目的だからですか? ──高畑さんは身長もありますし、スタイルも良いですから。そうなってしまっていても、分からなくはありませんよ」

「随分とまあ、思い切りの良い質問を──」


 一ノ瀬のストレートな質問を聞き、サエジマは思わず苦笑してしまった。変に誘導尋問にかけない辺り、正直と言えばそうなるだろう。

 だがそこで汐里を制していた手が緩んだ瞬間、汐里は一ノ瀬へと詰め寄っていた。汐里は右手を一ノ瀬の胸倉へと伸ばすと、Vネックのニットセーターをその右手で鷲掴みにして、勢い良く自分の方へと引き寄せた。余程力強かったのか、自然と前へとつんのめるようになった一ノ瀬は、胸倉を鷲掴みにされた状態で汐里に睨みつけられていた。汐里の右手はぶるぶると震えており、どれほど感情が昂っているか一目で分かる。


「最ッ低……何考えているの? 一ノ瀬さん、今すぐサエジマさんに謝って! 一体何のつもりなの! サエジマさんを侮辱するようなことを言って!」


 サエジマは汐里がここまで感情をはっきりと出しているのを、初めて見た。しかしその感情は怒りだ。それを露にしている汐里の目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。悲しみや感動の類の涙ではなく、自分の感情をコントロールできないが故に滲んでいる涙である。それだけ今の一ノ瀬の質問は、汐里の逆鱗に触れるものだったということだろう。

 それは汐里にとって、サエジマがどういう存在かというのを示すものでもあるのだが。


「私は高畑さんのことを考えて、サエジマさんに質問したのよ? 考えてもみて、何の目的も無く高畑さんみたいな魅力的な子に関わると思う? それが男なら尚更だと思わないかしら?」

「ふざけないで! サエジマさんはそんなこと考えていない! もしそうだったとしたら、一ノ瀬さんみたいなことをとっくに私にしてる!」


 汐里は怒りのあまり、自分が口にする言葉を深く考えずにそのまま発していた。サエジマは訝しむように眉根を寄せ、一ノ瀬に視線を向ける。探る様なその視線に対して、一ノ瀬は妖しく微笑むだけだった。


「高畑さんはサエジマさんのことを、本当に信頼しているのね。正直、嫉妬しちゃうな。……でもね、高畑さんはサエジマさんのことをどれだけ知っているのかしら?」

「はあ? いきなり何言ってるの? 話をすり替えないでよ」

「すり替えてなんかいないわ、高畑さん。……高畑さんは、サエジマさんのことが好きなんでしょう? だからこんなに怒ってる。でもそれは、サエジマさんのことを良く知らないから──彼の良いところしか見たことがないから、好きになっただけじゃないかしら?」

「……いい加減にして、一ノ瀬さん。私はサエジマさんのことを……」


 あなたよりずっと知っている、と汐里は言おうと思った。だがすんでの所で、汐里はそれを口にはしなかった。一ノ瀬はつい十数分前にサエジマと会ったばかりだ。何も知らないのも同然であり、その一ノ瀬よりサエジマのことを知っているのは当然だ。

 それならば、自分はどうだろう? サエジマのことをどれだけ知っているのだろうか。どんな仕事をしていて、どこに住んでいて、どんな音楽が好きで、どんな食べ物が好きで……それらを汐里は知らなかった。だがそんなことは汐里にとって、大した問題ではなかった。ただサエジマと一緒にいる、あの時間が汐里にはとても大切だった。ありふれているようで、かけがえのない時間。だからサエジマのことを好きになった。

 だがそれは彼の良いところしか見ていない、見ないようにしていたから? と汐里は自問自答を繰り返していた。


(もし……もしサエジマさんが、一ノ瀬さんの言うように私の体しか見ていなかったとしても、それでも私は……でもそうなったら、サエジマさんといたあの時間は何だったの? 私がただ一人で勘違いしていただけだったとしたら、私は──)


 一ノ瀬から投げかけられた言葉は今の汐里では、とても整理できるものではなかった。いや、こんな状況下でなくとも、簡単に答えは出せないだろう。汐里は怒りだけではなく、様々な感情が混ざり合ってぐちゃぐちゃになった心がどこかに行ってしまいそうになっていた。

 一ノ瀬の胸倉を掴んでいた右手が力なく離れたのと、サエジマが汐里の頭にぽん、と手を乗せたのは殆ど同じタイミングだった。汐里は一筋の涙を流している瞳で横にいるサエジマを見上げ、自然とサエジマの服を指先でぎゅっと摘まんでいた。まるで縋るように。


「一ノ瀬さん、あまり汐里ちゃんを追い込まないでやってくれ。……汐里ちゃんはこう見えても、抱え込みやすいんだ」

「高畑さんのためを思ってだったんですが……でもこれでは、フェアな質問ではありませんね。……質問を変えましょうか。そしてこれが、最後の質問です」


 一ノ瀬は「サエジマさん」と名前を呼んでから、サエジマをじっと見つめる。サエジマは精神的に大分揺らいでしまっている汐里を落ち着かせようと、汐里の頭をそっと撫でながら、その視線を受け止めていた。


「先ほど言いましたが、高畑さんはサエジマさんのことが好きなんだと思います。では、サエジマさんは高畑さんのことをどう思っているのですか? 包み隠さず、答えて下さい」

「……サエジマさん」


 一ノ瀬がサエジマに問いかけたその質問を聞き、汐里はどくんっと心臓の鼓動を大きくさせた。思わず彼の名前を囁くように呼んでしまう。それを聞いてか、サエジマは汐里に微笑みかける。

 それからサエジマは、口を開いた。その声は落ち着きながらも、はっきりとした意思を感じさせるものだった。


「俺は汐里ちゃんのことが好きだよ。年齢は十歳以上離れているけどね。……さっきも言ったけど、汐里ちゃんとあの公園で過ごす時間は大切なものなんだ。いきなり地元から遠く離れたところへ転勤させられて、慣れない土地に勝手が違う職場に上司と同僚、得意先への挨拶回りも一苦労だ。いい加減へとへとになったところに、偶然見つけた休憩におあつらえ向きの公園。そこで汐里ちゃんと会った」


 サエジマは一度、汐里に視線を落とす。涙は止まったものの、未だ瞳が潤んでいる汐里と一瞬だけ目が合い、それからサエジマは一ノ瀬に視線を戻した。


「汐里ちゃんももしかしたら疲れていたのか、そうでなくとも日常の中に別の何かが欲しかったのか……そこは分からないけど、でも汐里ちゃんと会って話すのは、俺のうんざりしていた日常を少しだけかも知れないけど、彩ってくれた。俺が汐里ちゃんに対する感情を自覚したのは、それに気づいてからだよ。だから今日のデートも、楽しみにしていた。……単純だって笑われるだろうけどね。これが俺の質問に対する答えだよ」


 サエジマは言い終わると、ふう、と短く息を吐く。隣にいる汐里はサエジマの服から指先は外していたが、顔を俯かせてサエジマのことも一ノ瀬のことも見てはいない。今しがた聞いたサエジマの言葉が頭の中を巡り、その顔を真っ赤にしている。

 一ノ瀬の質問に答えたそれは、紛れもない汐里に対する告白だった。汐里の心臓はあっという間に鼓動を速くしてしまう。隣のサエジマにも聞こえてしまっているんじゃないかと、不安になるほどだ。

 一ノ瀬は自分の胸元にまでかかっている長い黒髪を指で摘まみ、その毛先を弄る。それは汐里が行う癖にそっくりだった。恐らく、それを真似ているのだろう。


「珍しいぐらいの、まっすぐな告白ですね。でもサエジマさんの言葉はひとつも淀んでいませんでしたし、その声も取り繕っているとは思えませんでした。……ふふ、本当に妬けちゃいますね。高畑さんのことが好きなのは、私も負けていないんだけどな」


 一ノ瀬はその言葉の最後を寂しげに呟けば、羨ましそうに汐里とサエジマを見た。そして目元を指先で小さく拭うと、「時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」と言って深々と頭を下げて、館内へと戻るための道を歩き始めて行った。

 遠ざかっていく一ノ瀬の背中を見送りながら、汐里とサエジマは冬空の下、屋外広場に立ち尽くしている。他に客がいないところを見れば、もうすぐ二人が見ようと思っていたイルカショーが始まるのだろう。スタジアムの方から、アナウンスも聞こえてきていた。


「あー……もう始まるな。今から行けばギリギリ間に合いそうだけど」

「あのですね、サエジマさん……今の私の状態で、行けると思います?」

「……無理だな。正直、俺も今は落ち着く時間が欲しい」

「気が合いますね、私もです」


 汐里はそこでサエジマの服の袖をくい、と引くとベンチを指差した。半ばサエジマを引っ張り、二人はそのベンチに腰掛ける。風が緩く吹けばより寒さを感じるものだが、今の二人にはそれは大して気になるものではなかった。

 二人はしばらく無言で座っていた。スタジアムの方から聞こえてくる歓声で、イルカショーの盛り上がりが分かる。それを聞きながら、汐里は体を傾けてサエジマの肩に自分の頭を預けた。不思議と恥ずかしさを汐里は感じなかった。


「さっきの、一ノ瀬さんに言ったこと……あれって本当ですか?」

「ん、まあね。あの場面で嘘をつくほど性根が曲がっているつもりはないよ」

「……じゃあ私のこと好きなんですね」

「告白をした相手にそう言われると、何だか恥ずかしくなってくるな。……ああ、好きだよ。十歳以上年下の女の子を好きになったよ、参ったねどうも」

「気にしないで下さい。私は十歳以上も年上の男の人を好きになりましたよ」


 汐里はサエジマを見上げながら、悪戯めいた笑みを見せる。サエジマはくっと苦笑を浮かべて「そりゃお互いに大変だ」と可笑しそうに呟く。

 場所は違えども、いつもの公園で話しているような緩やかな時間を二人は過ごしていた。しかし今日はそれとは違う。お互いに想いを自覚した仲となった。だから汐里はサエジマの肩に預けていた頭を動かし、顔を向けるとぐいっと更に近寄った。サエジマとの顔の距離はもう目と鼻の先だ。


「……汐里ちゃん、やっぱり大胆だよな」

「ご心配なく、周りに人がいないことは確認していますから。何だか今は恥ずかしくないんです」

「へえ。そうなんだ」


 サエジマはそう呟くと、汐里に体を寄せた。それは結果的にお互いの顔の距離が近づくことになり、目と鼻の先しかなかったお互いの唇──それがそっと重なった。汐里は目を閉じて、今この瞬間を自分だけのものにしたかった。

 初めてのキスは何々の味がすると言うが、汐里にはよく分からなかった。だからサエジマの下唇を自分の唇で啄み、舌先でなぞるように舐めてみる。……彼の口の中に舌を入れればもっと分かるだろうか、と汐里はぼんやりした頭で考えていた。それを実行するため、汐里は舌を伸ばそうとする。

 そこでサエジマは唇を離した。汐里は「あ……」と、名残惜しむように声を漏らす。それは意識してはいなかったが、非常に艶のある声だった。


「これ以上はその、なんだ……危ない。色々と」

「でもサエジマさん、今は人いませんし……その、私は……」

「汐里ちゃん、一旦落ち着こう。な?」


 サエジマはそう言うと、汐里を落ち着かせるためにそっと頭を撫でる。何だか子供扱いされているようだが、汐里にはそれが心地よく、サエジマの狙い通りに汐里は様々なことが重なり昂っていた気分を平静に戻すのを手伝っていた。


「すいません、なんだか頭がぼーっとして……初めてだったからですかね」

「ああ、なるほど。……まさかね、汐里ちゃんから舌を入れてこようとするとは思わなかったから、さすがに驚いた」

「そうなんですか……実は私も一ノ瀬さんに抱き締められて、スカートの中に手を入れられた時はびっくりしましたよ」

「……汐里ちゃん、一ノ瀬さんに何をされたのかちょっと聞かせてもらえないか?」


 汐里のその言葉をサエジマはさすがにスルーすることはできず、食い気味に汐里に聞いていた。

 スタジアムからは先ほどよりも大きな歓声が聞こえてきた。きっとイルカショーを見に行っていれば、楽しかったのだろう。

 だが汐里にとっては今のこの時間が、何よりも楽しくそして甘いものに感じていた。

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