第18話 日常と偶然

 水族館館内のレストランで昼食を済ませた汐里とサエジマは、イルカショーが開催されているというスタジアムに向かったが、間が悪いことにショーが終わり、次の開始の時間まで一時間ほど空くという説明をスタッフから受けたところだった。


「うーん、それなら先にこっちを見ておくべきだったかな」

「でもこの間に、他のショップとかも見れますよ。逆に丁度良かったんじゃないんですか?」

「まあ、そう考えれば問題無いか。それじゃあ時間潰しにお土産とか売っているショップを見てみようか」


 と二人は一旦、イルカショーが開催されるスタジアムから離れて、ここの水族館のオリジナルグッズが多数販売されている、ミュージアムショップへと足を運んだ。どうやら同じことを考えている人間が多かったようで、店内は大勢の客で賑わっている。あらかた館内を観終わり、最後にここでお土産を買って帰ろうとしているのも含まれているだろう。


「客が多いなあ。どうする、汐里ちゃん。はぐれないように手を繋ぐ?」

「いくらなんでも子供扱いしすぎですよ。その必要は無いです。私、あっちの方見て来ますね」

「ん、分かった。俺はちょっとトイレに行って来るよ」


 汐里はサエジマからの提案を呆れ気味に却下すると、先に店内へと入って行く。家族に買うなら、ぬいぐるみやキーホルダーよりは、お菓子の方が良いかなと汐里は考えて棚に並んでいる物を眺めていた。とそこで同じようにグッズを物色していた他の客と肩がぶつかってしまい、汐里は左隣を向いて「すいません、大丈夫ですか?」と声をかけた。汐里とぶつかったのは汐里よりも身長が高く、長い黒髪の美少女よりは美女と例えた方が似合う女性で……。


「大丈夫ですよ、気にしないで──」


 男でも女でも魅力的と感じる笑みを浮かべ、そう言おうとした一ノ瀬はぶつかった相手が汐里だと気づくとその言葉を途中で切り、「高畑さん?」とさすがに驚いたように呟いた。それは汐里にしてみても同様で「い、一ノ瀬さん?」と思わず声を上げていて、この偶然の出会いに戸惑っているようだった。まさかここで会うとは想像さえもしていなかったのだから、無理もないだろう。


「凄い偶然、まさか高畑さんと会うだなんて。もしかしたら、運命だったりするのかしら?」

「相変わらずだなあ、一ノ瀬さんは。その台詞言えば、一ノ瀬さんなら大抵の男は落とせそうだね」

「ふふ、ありがとう。でも高畑さんを私は落とせなかったもの、他の男に響いても何の意味も無いよ」

「……ああ、そう」


 と一ノ瀬はくすくすと楽し気に笑い、さり気なく汐里の腰に手を回そうとしていた。汐里はその手をぱしっと軽く叩くと、「こんなところで盛らないでよ」と呆れたように溜息を漏らした。あの教室での一件は強烈だったが、一ノ瀬は未だに汐里のことを諦めきれてはいないようだった。一ノ瀬は汐里に叩かれた手を戻しながら、「気にしなくてもいいのに」と至極残念そうに呟く。気にするに決まってるだろと、汐里は更に深く溜息を吐いてしまう。


「そういえば高畑さんの私服姿、初めて見たかも。……うん、良い感じだね。高畑さんの雰囲気に合ってると思う」

「ありがとう、一ノ瀬さん。それは素直に嬉しい言葉かな。……一ノ瀬さんは、何で水族館に? 一人で来てるなんて、ちょっと意外」

「ううん、一人じゃないんだ。今日はちょっとした付き合いで、他の高校の男子と来ているの。高畑さんは知らないと思うけど。……でも高畑さんが、まさか同じ日に同じ場所に来ているなんて。知っていたら、予定合わせたんだけど……ああ、本当に残念」


 一ノ瀬は相当にがっくりと来たのか、力なく首を横に振った。汐里からしてみればちょっとした付き合いで水族館に他の高校の男子と来るだろうか、と疑問に思うも、それは口に出さないことにした。


「それで──高畑さんは、誰と来ているのかしら? もしかして、デート?」

「そんな訳ないって。今日は鈴と澪と、久しぶりに水族館に遊びに来てるの。二人は別のショップを見てるから、今は私一人っていうだけ」


 一ノ瀬の探るような質問に、汐里はきっぱりと答えた。出来るだけ、平静を保った声で。

 もちろん汐里のその言葉は嘘だ。もし今日、鈴と澪以外の友人と会ったらこうやって答えようとあらかじめ決めていた。まさか一ノ瀬と会うことになるとは思わなかったが、恐らく嘘だとはバレていないはずだと、汐里は思っていた。実際、表情も変わっていないし、視線も揺らがなかった。今の言葉は嘘だとは思われないはずだ。

 だが一ノ瀬は、汐里のある仕草を見逃さなかった。


「ふうん、そうなんだ……ふふ、でも高畑さんやっぱり可愛いな。嘘ついているの、簡単に分かっちゃうんだもん」

「嘘なんてついていないよ。一ノ瀬さん、あんまり適当なこと言わないでくれる?」


 汐里がじっと一ノ瀬を見つめる。その鋭い視線に一ノ瀬は何かを刺激されたようで、ゾクっと体に走るものを抑えるように右手を左腕に回し、ぎゅっと掴みながら、汐里に笑いかけた。


「ほら、それ。自分の髪の毛先を指先で弄る癖──それって、高畑さんが自分を落ち着かせようとするときに出る癖でしょ? 何で今、それが出ているのかしら?」


 そう指摘された汐里は、そこで自分が一ノ瀬に言われたとおり、髪の毛の毛先を指先で弄っていることに気が付いた。癖というのは基本的には自分で気づかないもので、第三者から言われることで初めて気づく。だから汐里は、今初めて自分の癖を知った。はっと髪から指を離した汐里の反応は、先ほど答えた言葉が嘘だというのを証明するのには充分なものだった。


「……たまたま、髪の毛を弄っていただけでしょ。これが癖だっていう証拠でもあるの? いくら一ノ瀬さんでも、これ以上は──」


 汐里がどうにか誤魔化そうとしているその時、非常に間の悪い所で「お待たせ、汐里ちゃん。参ったね、トイレも混んでたよ」と声をかけながら、サエジマがやって来た。汐里はぐっと唇を噛んで、言葉を呑み込む。これではどう言ったところで無駄だ。いっそのこと、最初からデートだと認めていた方がまだ良かったかも知れない。

 一ノ瀬はサエジマに視線を向けると、一度顔から足元まで確認するように滑らかに目を動かす。それから上品な笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。


「初めまして、私は一ノ瀬と言います。そちらは高畑さんのお知り合いでしょうか? それともお兄さんですか?」

「ああ、これはどうもご丁寧に──自分はサエジマです」と名乗ったところで一度言葉を切り腕を組むと、「汐里ちゃんのお兄さんじゃなくて、知り合いかな。付き合いはそこまで長い訳ではないんだけど」

「サエジマさん、ですか。……急で申し訳ないのですが、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか? 高畑さんも一緒に」


 と一ノ瀬は、そう頼み込みながら首を傾げた。あざとい仕草に見えるが、一ノ瀬がそれをすれば効果はより絶大なものとなる。汐里は彼女は自分の容姿や体つきを理解した上で、こういう風に振舞っているんだなとそこで気づいた。その振る舞いが無くなるのは、汐里が関わる時だけのようだ。


「ん……俺は大丈夫だけど。汐里ちゃんは?」

「……はい、私も大丈夫です」

「お時間は取らせないつもりです。……ここだとゆっくり話せませんね、場所を変えましょうか」


 サエジマが頷き、汐里に確認すると汐里も了承した。どの道、一ノ瀬には説明しなければいけなくなったのだから、丁度良いと言えば丁度良い。一ノ瀬は周囲を見渡すと、「あちらに」と指差してその場所を示した。そちらへと向かおうとした際、「おーい、欲しいぬいぐるみってこれか?」と水族館オリジナルキャラのぬいぐるみを手に持ち、一ノ瀬に歩み寄ってきた金髪の少年がいた。彼が一ノ瀬がちょっとした付き合いでと言っていた、他校の男子だろう。


「探してくれたんだ? ありがとう。……あ、これ私が欲しいものと違うかも。せっかく持ってきてくれたのに、ごめんね」

「え、マジで? 教えてもらったのと同じやつだと思ったんだけど。別のやつだったかな?」

「うん、もしかしたらそっちだったも。……ねえ、もし良ければそっちも探してくれないかな? 見つけてくれたら、後でちゃんとお礼するから……」


 金髪の少年の手をそっと握り、一ノ瀬は囁きかける。口元に浮かべた小さな笑みは、どこか蠱惑的だ。同じ性別の汐里でも、あの笑みを向けられたときは不覚にも何かの感情が芽生えてしまいそうなほどだった。それを年頃の少年が向けられれば、断れるはずも無いしその理由も無いだろう。


「お、おう──任せとけよ、ちゃんと見つけるからさ。お礼とかは別に、気にしなくてもいいって」

「ふふ、ありがとう。私、高校の友達と会ったから、向こうで話してくるね。終わったら戻るから」


 一ノ瀬が金髪の少年から手を離せば、彼はすぐさま別のぬいぐるみを探しに行ってしまった。一ノ瀬はそれを見送った後に、汐里とサエジマの方に向き直った。


「ごめんね高畑さん、待たせちゃって。サエジマさんも、こちらからお話がしたいと言ったのに申し訳ありません」

「いや、俺は気にしていないから。──汐里ちゃんは?」

「う、うん、私も。……あのさ一ノ瀬さん、本当に大丈夫?」

「大丈夫って……? ──あ、私たちのこと? それなら気にしないでくれていいよ、高畑さん。彼とはただの付き合いで来ただけだから。今は何よりも高畑さんと、サエジマさんのことを優先したいの」


 そう一ノ瀬は言って、自分が指差した方向へと向かっていく。確か向こうに行くと屋外広場に出るための通路があったな、と汐里は思い出した。

 汐里とサエジマも一ノ瀬について行くが、その時にサエジマが汐里の肩を指先でとんとん、と叩く。横のサエジマを見ると、神妙な顔をしていた。


「一ノ瀬さん……だっけ? 彼女、さっき見せてもらった写真の子だよね。何というか──汐里ちゃんに相当懐いているというか、気に入られている感じがするな」

「それに関してはサエジマさんに言われるまでもなく、よく分かっています。……一ノ瀬さん、身長は高いしスタイルは良いし美人だし、人当たりも良いんですけど……私限定で、情熱的すぎるんですよね」


 汐里はあの時のことを思い出し、さすがにあれはサエジマさんには言えないなと、思わず首筋をさすってしまう。それにしても一ノ瀬さんは何を話すつもりなんだろうかと、汐里は一抹の不安を感じていた。

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