第17話 日常と水族館

 電車とバスを乗り継ぎ、水族館前のバス停で下車をし、そこから少し歩いたところで、汐里とサエジマは目的地である水族館に到着した。

 水族館は日曜日ということもあり、それなりに混雑しているようだ。とは言え入館チケットを購入するのに何十分も待たなければいけない、なんていうことはなく少しの間雑談をしていれば、待機列が進んでチケットを購入するための受付まで来ていた。


「お二人様ですね。男女二名ということでしたら、こちらのカップル割引でお安くなりますが、いかがでしょうか?」


 汐里がチケット代を財布から取り出そうとしている最中、受付の女性が汐里とサエジマを交互に見やり、そう提案をした。汐里は思わず手を止めて、「あ、その、私たちは……」と言いかけたが、ここで断るのも不自然だろうかと考えてしまう。何よりサエジマがどう思うかが汐里にとっては重要で、ちらりと隣にいるサエジマを見上げた。


「そうですね……でしたら、そのカップル割引でお願いします」

「畏まりました。では割引を含めまして、チケット料金の方が……」


 表情を変えずに、さらりとサエジマはそのカップル割引で受付にお願いしていた。ここまで来てしまうと汐里が「そう言う関係ではありません」と否定してしまえば、後ろで待っている他の人たちを更に待たせてしまうことになる。そもそも男女二人で来ている時点でカップルと見られるのは当然のことだろう。汐里は「そういう風に見られているんだ……」と、すぐに消えてしまう小さな声で呟いた。

 気づけばサエジマが汐里の分もチケットを購入しており、その半券を汐里に「はいこれ」と手渡していた。それを受け取りながら、案内の立て札の通りに受付から移動し、館内へと入って行くと、お土産などを購入できるショップがあるホールがまず最初に出迎えた。この水族館オリジナルだと思われる、妙にゆるいキャラの等身大パネルを横目に水族館全体の見取り図を二人は確認する。


「そういえば再入館するときに必要なんだって、この半券。無くさないようにしないとね」

「すいません、いつの間にか私の分まで。今の内にチケット代渡しますね」


 と汐里がパーカーのポケットから財布を取り出そうとすると、サエジマは首を横に振る。


「気にしないでもいいよ。そもそも汐里ちゃん、まだ学生だろ? そんな子にお金を出させるほど、俺も懐は寂しくはないよ。ああ、昼飯代も俺が出すから」

「……サエジマさん。それだと私がお金を出させることを当たり前だと思ってる、しょうもない女だと見られそうで凄く嫌です。生意気なことを言っているとは思いますけど」


 サエジマは汐里のことを考えて、そうしてくれたのだろう。デートのセオリーにあてはめれば、そうなるのは当然と言える。しかし汐里はそうなってしまうと、サエジマとの二人の時間を純粋に楽しめなくなってしまいそうで嫌だと言うのが半分、もう半分が今汐里が言ったように、何でもかんでもねだり払ってもらうのが当たり前だと思っているような、それこそ乞食同然の女みたいに見られそうで嫌だったからだ。その気持ちが強く出ていたのか、サエジマを見上げる目はどこか鋭い。

 その汐里の目線を受け止めたサエジマは、「なるほどね」と頷く。


「──分かった。じゃあここからは、そういうことはしないでおくよ。でもさっきのチケット代は、渡さなくてもいい。それぐらいは格好つけさせてもらえるかな」


 そこはサエジマも譲れないようだ。汐里はふう、と息を吐いてサエジマを見上げていた鋭い視線を緩めた。


「分かりました。サエジマさんも、女の子の前では良いところを見せたいようですし、それで納得します」

「女の子の前でっていうよりは汐里ちゃんの前では、かな。さっきのカップル割引でチケットを買ったのも、実はちょっとドキドキしたんだけどね。汐里ちゃんに怒られそうで」


 サエジマはチケットの半券を指と指の間で摘まみ、ひらひらと揺らして見せる。汐里は自分の半券をスキニージーンズのポケットに入れると、サエジマにくす、と笑いかけた。クールなような、悪戯っぽいような、そんな笑みだ。


「怒る理由がありませんね。──さてと、じゃああっちの方から行ってみましょうよ、サエジマさん」


 汐里は水族館の奥へと続く通路を指差しながら、サエジマの手を握り、先導するように歩いていく。手を握ったその動きは自然なものだったが、実際のところ、汐里は「これぐらいならいいよね」と自分に言い聞かせるように内心で呟いていた。汐里に手を取られたサエジマはあらかじめ調べたとはいえ、この水族館自体は初めてなので、何度か来たことがあるであろう汐里の案内に従うことにした。

 水族館館内は照明は暗めにしており、それがここの涼し気な雰囲気に合っていた。最初のフロアでは無数の水槽が出迎え、その水槽内にはサンゴ礁や砂浜、干潟、磯など様々な海岸線の風景を再現しており、それに合った魚も水槽内をゆったりと泳いでいる様子を眺めることができる。


「水族館なんて何年振りだろうなあ。地元にいたときはちょくちょく海に行ったりはしていたけど」

「本物が見れるから、水族館には行かなかったんですか?」

「んー、そういう訳ではないんだけどね。何かきっかけがないと、なかなか行かないだろうし。でもここの雰囲気、好きだな俺は」


 そうサエジマと話しながら水槽を眺めていると、未だに手を握ったままだということに汐里は気づいた。少しだけ引っ張って離すつもりだったのだが。汐里がサエジマから手を離そうとするが、緩く握られているサエジマの手を振り解くような格好になりそうで、汐里は思い止まる。それにサエジマの手の暖かさを感じられているのが何だか落ち着いたので、汐里はそのままにすることにした。


(手、大きいなサエジマさん。まあ、男の人だから当たり前か。そういえば一ノ瀬さんには、私の手、小さいって言われたっけ。サエジマさんもそれと同じこと思っていそう)


 水槽内を泳いでいる魚の説明が書かれている札を見ながら、汐里は自然とサエジマの手を握る力を少し強めた。それに気づいたサエジマも汐里の手を握り返す。汐里は言葉の無いそのやり取りが、昔、鈴や澪と自分たちだけにしか通じない仕草で意思疎通をしていたことに似てるなと思った。知られて困るような大層な秘密はその時には無かったが、今はそうじゃないかなと汐里は水槽を眺めている。

 ゆっくりといくつかの水槽を見て回り、次のフロアへと二人は向かった。そこのフロアでも水槽が展示されていたのだが、その大きさは先ほどの水槽とは比べ物にならない。説明をしている係員の話に耳を傾けてみると、この大水槽には四十種類以上の魚を展示しているようで、ここの水族館で一番大きな水槽らしい。必然的にこのフロアには大勢の客がおり、その水槽の前で記念撮影をしている家族連れやカップルも見受けられた。


「おー、こりゃ凄いな。汐里ちゃんも水槽の前で撮ってあげようか?」

「中学生のとき、遠足でここに来た時に写真撮ったから私は結構です。それよりもサエジマさんのことを撮ってあげましょうか?」

「男一人が写ってる写真とか、寂しい以外の感想が出てこないな」


 とサエジマが苦笑したところで、横にいた子供連れの夫婦が「良ければ、お二人が写るように撮りましょうか?」と話しかけてきた。汐里は突然のことだったので「えーと……」と戸惑ったような声を漏らしてしまい、反射的にサエジマを見てしまった。サエジマはその汐里をちらりと見下ろしてから、その子連れの夫婦に柔らかく笑いかけた。

「本当ですか? では申し訳ありませんが、お願いしてもいいでしょうか? ──二人のスマホで一枚ずつ、撮ってもらおうか?」

「は、はい。そうしてもらえると」


 まったく焦る様子も見せなかったサエジマはそこで繋いでいた手を離すと、汐里が取り出したスマホと自分のスマホを手渡した。男の方は子供と手を繋いでいたので、女が二台のスマホを受け取る。汐里とサエジマはできるだけ他の客の邪魔にならないようにしながら、無数の魚が悠々と泳いでいる大水槽の前に、並んで立った。まさか写真撮影をされるとは思っていなかった汐里だが、大勢の生徒の前で一ノ瀬と抱き合ったあの文化祭でのことを思い出せば、恥ずかしさなどなかった。結果的に、すこぶる自然な笑顔で写真を撮ってもらうことができた。


「はい、どうぞ。──それにしても、羨ましいですねえ。背も高くて、イケメンの彼氏と美少女のデートだなんて」

「え、その、デートだなんて……あ、ありがとうございます……」


 スマホを受け取る際に、女がそう言ってきたので汐里はぺこりと頭を下げた。恥ずかしいは確かに恥ずかしかったのだが、サエジマとそう見られている……というほのかな嬉しさが汐里の中にあった。「頑張ってね」と最後に一声かけられ、その子連れの夫婦は別のフロアへと向かっていった。何を頑張ればいいのだろうかと、汐里は受け取ったスマホに視線を落とした。


「フラッシュを使用しての撮影は禁止って立て看板にも書いてあったから、ちょっと暗く写ってるかも知れないな。……流れで撮ってもらったけど、汐里ちゃんは嫌じゃなかった?」

「いえ、私は全然嫌だなんて。……その、サエジマさんはどうだったんですか? 私の彼氏と間違われて……何だか、申し訳ないっていうか」

「そう見られている方がむしろ良いと思うけどな、自然で。だから汐里ちゃんが申し訳なく思う必要なんてないし、それに間違われた方が嬉しい」

「……サエジマさんは、またそういうことを言う。ま、いい加減慣れてきましたけどね」


 汐里はサエジマの言葉に、ふふ、と笑みを零した。そしてスマホを操作して、大水槽の前で撮影してもらった写真を確認した。

 サエジマの言った通りに、確かにやや暗く写ってはいる。しかし、さして気にするほどではない。

 サエジマと並んでいるその写真を、汐里のスマホを覗き込むようにしてサエジマも確認した。汐里はじろりとサエジマを見る。


「女の子のスマホを勝手に覗き込むのは感心しませんね」

「あ、つい、ね。……ん、ちゃんと撮れてるな。汐里ちゃんも、笑顔バッチリだし。もしかして撮られるの得意?」

「得意っていうか、最近そういう機会があったっていうだけです」

「読者モデルにスカウトされたとか?」

「いえ、文化祭でちょっと。何故だか撮影会をする流れになってしまって……凄い美人のクラスメイトがいるんですけど、その子と一緒に皆の前で」

「何それ、気になるな。写真とかないの?」


 サエジマがそう聞くと、汐里は「ありますけど……」と呟き、何やら躊躇しているのかスマホの画面近くで右手の人差し指をくるくると動かしていた。だが意を決したように、スマホの画面を操作すると、汐里はサエジマに表示した画像を見せた。それは鈴から送られた文化祭の時の写真で、一ノ瀬と汐里が抱き合っている時のものだった。

 サエジマはさすがにこれは想像していなかったのか画像を見せられ、「こ、こういうタイプか」とその画像と汐里を交互に見やっていた。


「でもこの汐里ちゃん可愛いね。普段とは雰囲気が違うし。直接、見てみたかったな」

「この画像を見せるだけでも相当恥ずかしいので、それは無理な注文ですね」

「そりゃ残念だ。──さてと、もう少し見て回ったらレストランでお昼でも食べようか」


 汐里はスマホをポケットに戻しながら、サエジマの提案に「はい、ちょっとお腹空きましたしね」と頷いて答える。大水槽を展示しているフロアから移動している最中、先ほどのサエジマの「直接、見てみたかったな」という言葉を思い返していた。


(確かに恥ずかしい、恥ずかしいけど……サエジマさんなら私は……)


 それは心の中だけに留めておくことにした。さすがに、口にはできないなと汐里はサエジマと歩きながらそう思った。

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