第14話 日常と好意

「よーし、今日も終わったね。帰りはカフェに寄っていかない?」

 今日の授業を全て終えた開口一番、鈴が汐里と澪に提案する。そういえば最近は立ち寄ってなかったな、と汐里は鞄の中に教科書を入れながら思った。

「ん、私は大丈夫。澪はどう?」

「うん、私も問題なし。だけど、いいの? サエジマさんが待っているかも知れないのに」

 と澪は、汐里にそう言って笑みを見せる。カフェに誘った鈴も「ふふふ、しおりんは最近サエジマさんに夢中ですな」と楽しそうに汐里の顔を覗き込む。鈴も澪も、汐里とサエジマの関係がどうなるのか、というのが気になっているようだ。

「鈴も澪もからかって……」

 と汐里は溜息をつきながらも、きっぱりと否定することはできなかった。「夢中っていうか、その……」とどうにかかわそうと思ってもそれが思い浮かばず、汐里は黒髪の毛先を指で弄り始めた。

 そんな汐里に「高畑さん」と声をかけ、歩み寄って来たのは一ノ瀬だ。静かに微笑み、汐里を見つめている。


「もし良ければ、放課後付き合ってもらえないかしら? 一緒に図書室に来てもらえないかなって」

「え、図書室に? えーと、今日は……」

 汐里は言葉を伸ばして時間を稼ぎながら、ちらりと鈴と澪を横目に見た。先に汐里を誘ったのは鈴なのだが、その鈴は「問題なし」とばかりに親指をぐっと上げて、サムズアップのサインを汐里に送った。その隣では澪が苦笑いを浮かべている。

「ん……大丈夫、かな。でもどうして? 私、図書委員とかじゃないけど」

「ふふ、そういうので誘ったんじゃないの。高畑さん、たまに文庫本とか読んでいるでしょ? 小説とかに詳しそうだから、一緒に読む本を選んでくれると嬉しいなって」

 あー、と汐里は納得いったように小さく頷いた。確かにたまに文庫本を読んだりしているときはあるが、そんなにしょっちゅう読んでいる訳ではない。鈴と澪と話したり、スマホを弄ったりしている時間の方がずっと多いのだが。


「いや、まあ読んでいることもあるけど……そんなに詳しくはないと思う。それでも良ければだけど」

 と汐里が控えめな口調でそう言うと、一ノ瀬はぱっと顔を輝かせる。

「ありがとう、高畑さん。──私は高畑さんが選んでくれるだけでいいの。それじゃ、行きましょ」

 一ノ瀬は汐里の手を取り、そのまま腕を組むようにして教室から出て行ってしまった。汐里は足早に図書室へと向かう一ノ瀬に驚いたのか、「い、一ノ瀬さん、歩くの早いって」と思わず口に出していた。

 その様子を見ていた鈴と澪の二人は顔を見合わせる。

「ねえみおりん……一ノ瀬さんって、あんな強引だったっけ?」

「うーん……何か汐里が絡むと、ちょっといつもと違うよね。……あと気のせいじゃないと思うんだけど、汐里に対するボディタッチが多いような」

 と澪は自分で言ったその言葉に気づくことがあったようだ。だがすぐにそれを否定するように、いやいやと首を振る。だが合致する点が多いことも事実だった。

 神妙な表情を浮かべる澪を、鈴は不思議そうに眺めていた。



「うーん……あとはこれとかどうかな。私も読んだことあるけど、結構面白かったよ」

「高畑さんが面白いって言う小説なら、きっと面白いよね。うん、それじゃあさっき選んでくれたのと合わせて、この二冊にしてみるね」

 放課後の図書室で、汐里は以前にここで借りて読んだことのある小説を一ノ瀬に薦めていた。汐里は最近ドラマや映画で原作になった本よりも、それよりもひと昔やふた昔前の小説を読む方が好きだった。一ノ瀬に薦めたのも、恐らくここの図書室に大分前から置かれているであろうものだった。

 もしかしたら一ノ瀬の趣味に合わない、というかその可能性の方が高いはずなのだが、一ノ瀬は汐里が選んでくれたということが嬉しいのか、にこにこと笑みを浮かべている。

「でも図書室に久しぶりに来たな。本を借りに来たのも、結構前だから」

「そうなんだ? 勉強とかで利用したりはしないの?」

「そういう時はさっさと家に帰っちゃうかな。久しぶりに来たし、私も一冊借りるか」

 一ノ瀬と小声で会話をしながら、汐里は適当な文庫本を一冊借りることにした。作者名を見てみると、聞いたこともない海外の作家の翻訳された小説だ。一ノ瀬に誘われて今日ここに来なければ、手にする機会は残りの高校生活で限りなくゼロだったはずだ。


(何だか、サエジマさんに初めて会った時のことを思い出すな)

 と汐里は貸し出しスペースで図書委員の女子にその文庫本を差し出し、借りる手続きをしながら思った。もしあの時に公園に立ち寄らなかったら、サエジマと会うことはなかったはずだ。多分、一生巡り合うこともなかった。それを思い浮かべて、汐里は少し怖くなってしまった。彼がいない世界を想像して怯えてしまう、今の汐里にとってサエジマはそれぐらいの存在だった。

「あの……一ノ瀬さんと、高畑さんですよね。文化祭の喫茶店で見た二人、凄い可愛かったです」

 一ノ瀬が本を借りる手続きをしている最中、図書委員の女子がおずおずとした口調で言った。一ノ瀬は「ありがとう」と微笑み、汐里は「どうも」と小さく頭を下げる。汐里はお手本のような塩対応である。

 本を借りて図書室から出ると、一ノ瀬は明らかに上機嫌だった。

「ふふ、凄い可愛かっただって。あの時の高畑さんにぴったりじゃない?」

「あのさ、文化祭のこと言われるたびに思い出して、めちゃくちゃ恥ずかしくなるんだけど」

 汐里は文庫本を鞄に入れようとして──そこで、鞄を教室に忘れてしまったことに気づいた。あーあ、と面倒くさそうに溜息を吐くと隣を歩く一ノ瀬に、

「一ノ瀬さん、先帰ってて。教室に鞄忘れたから、取りに行く」

 と申し訳なさそうに伝える。一ノ瀬は「そうなんだ」と一言呟き、頷くと汐里の右手に自分の左手をするりと絡ませた。汐里はいきなり手を繋いできた一ノ瀬に驚き、びくっと肩を動かしてしまう。


「高畑さん、私も一緒に行くね?」

 一ノ瀬のその確認の言葉は、有無を言わせないものだった。汐里は思わず「う、うん」とそれを了承する。いきなり繋いできた一ノ瀬の左手を汐里の右手が軽く振り払うと、一ノ瀬は残念そうに自分の左手を握ったり開いたりした。

 図書室から教室へと戻ると、教室内には誰もいない。グラウンドから聞こえてくる部活動に励む生徒たちの声が教室内に届いて来ると、汐里と一ノ瀬しかいない教室内の静かさがより際立っているようだった。

「えーと鞄は……あった、あった。鈴と澪も気づかないで帰っちゃったな」

 汐里は自分の席に置かれていた鞄を見つけると、ほっと息をついた。借りた文庫本をその中に入れて鞄を手にしようとしたところで、「高畑さん」と後ろから一ノ瀬が声をかけてくる。

 汐里が「どうしたの?」と言いながら振り向いた瞬間、汐里の背中に一ノ瀬の両手が回され、引き寄せられた汐里は一ノ瀬に抱きしめられた。放課後の誰もいない教室内、二人の美少女が抱き合っているその光景は、まるで映画のワンシーンのようだ。しかし映画ならばここでカットが入る。一ノ瀬の手は、汐里を離そうとはしていなかった。


「え、ちょっと……一ノ瀬さん? いきなり何してるの?」

「ふふ、ねえ高畑さん、文化祭を思い出さない? こうして、体を寄せ合っていたこと」

 一ノ瀬は汐里の瞳を見つめながら、囁く。二人の顔の距離は近く、もう少しどちらかが顔を寄せれば唇が重なってしまいそうだ。汐里の右手は一ノ瀬の肩を掴んでいて、引き離そうとはしているが思い切り力は込めていない。一ノ瀬のこの行動が悪ふざけなのかどうか、まだ判断に迷っているようだった。

「私が高畑さんと一緒にってわがままを言ったのに、高畑さんはあんなに頑張ってくれた。──凄く嬉しかった。ありがとう、高畑さん」

「う、うん……私も、なかなかできない体験ができて楽しかったかな。……あのさ一ノ瀬さん、そろそろ離れない? もしこんなところ見られたら、変な噂流れるよ」

 一ノ瀬の感謝の言葉は、嘘偽りの無い本心だと汐里は思った。それに対して汐里は嬉しさを感じながらも、一向に離れる気配のない一ノ瀬に少し焦っていた。誰かが教室に入って来てこの瞬間を見られたら、どう言えばいいのだろうか。

 だが一ノ瀬は汐里の言葉とは真逆に、汐里の背中に回した手に更に力を入れ、汐里をより強く抱きしめる。その痛みに思わず顔をしかめた汐里の耳元で、一ノ瀬は妖しく呟いた。


「高畑さんとなら、それでもいいの」

 汐里が「えっ」と声を漏らすと、一ノ瀬は汐里の首筋辺りに顔を埋めるようにして近づけた。汐里の毛先が緩く跳ねた黒髪を愛おしむようにして擦り寄りながら、一ノ瀬はそこで鼻をすすらせ、汐里の匂いを嗅いだ。深呼吸をするような一ノ瀬の呼吸が、段々と荒くなってきている。汐里は明らかに異常な一ノ瀬のその行動に背筋を強張らせ、体を引きはがそうとするもあまりにも密着しすぎているため、上手く力が入らなかった。

「ね、ねえ。一ノ瀬さん、もう離れて……いくらなんでも、ふざけすぎ……」

 汐里の声は突然の出来事に混乱しているためか、震えている。こんなことをされるとは予想できるはずもない。ふざけるにしても度が過ぎている。

 一ノ瀬は汐里の匂いをたっぷりと嗅ぐと、首筋に押し当てる格好となっている唇から、舌先を覗かせた。赤いその舌先は汐里の首筋を舐め上げると、唾液が付着し、鈍く光るその部分にちゅぷ…と緩く唇で吸い付いた。

「や、あ……!」

 汐里はその刺激に思わず声を上げてしまう。初めて味わう感覚にどうすればいいのか分からず、一ノ瀬の肩を掴む右手は小さく震えていた。


 汐里が上げた声は、一ノ瀬の興奮を更に煽ってしまっていた。汐里の耳元には、一ノ瀬の乱れてきた呼吸音と「高畑さん、高畑さん」と名前を呼ぶ声が聞こえてきている。その声にも明らかな熱が込められていた。

 一ノ瀬が汐里の背中に回している手が下りると、その手はスカート越しに汐里の形の良い尻肉を撫で回す。一ノ瀬は汐里がびくっと大きく体を震わせた反応を見てから、スカートをたくし上げた。そして汐里のスカートの中に手を潜り込ませ、下着に指先をかけようとした瞬間。

「──いい加減にして!」

 汐里の叫びにも似た声が教室内に響くと、一ノ瀬の体を両手で思い切り突き飛ばした。その勢いに一ノ瀬の体は汐里から離れてしまい、後ろの席に当たって、がたたっと椅子と机が動く音が聞こえた。

 汐里は一ノ瀬の唾液が付着した首筋を制服の上着で拭き取りながら手で押さえ、体が離れた一ノ瀬を鋭い目つきで睨みつける。その一ノ瀬は汐里のその目つきにさえ興奮しているのかぞくぞくとした表情を見せながらも、残念そうに溜息をついた。


「高畑さんと最後までできると思ったのにな……でも高畑さんの匂い、最高……おかしくなりそうだった」

「もうおかしくなってるでしょ……何? 最初から私にこんなことするのが目的だった訳? 正直、前からそっちの気がありそうな感じはしていたけど……」

 汐里は一ノ瀬と離れたことで冷静になったのか、そう聞いてみた。しかし首筋に走ったあの感覚を思い出すと、汐里は思わず顔を歪ませてしまう。

「ふふ、できたら良いかなとは思っていたけど……高畑さんが鞄忘れて教室に取りに戻って、二人きりになったからつい、ね。それと勘違いしないで欲しいんだけど──私、女の子が好きって訳じゃないのよ?」

「は? じゃあ一ノ瀬さんが私にしたことは、一体何なの? 本当にからかっていただけ?」

 訳が分からない、と頭を掻く汐里に一ノ瀬は柔らかく笑いかける。ついさっきまで性的興奮で昂っていたとは思えない。


「私は私が好きになった人としか、こういうことはしないの。男性でも女性でも、私がそう思った人としか。……でもね高畑さん、私から手を出したのは、高畑さんが初めて。あんなに興奮したのも。言ったでしょ? おかしくなりそうだってって」

 一ノ瀬の笑みが蠱惑的なものへと変わる。汐里は思わず一歩、後ろに下がっていた。

「あのさ……聞きたいんだけど、何で私なの? 一ノ瀬さんと良く関わるようになったのは、割と最近だよね?」

 汐里は自分が一ノ瀬からそういう目で見られていたということに、大きく戸惑っていた。男女問わず、好きになった人となら──というのなら、どうして一ノ瀬のような人目を惹く美人に選ばれたのだろうと。

 その疑問に対して、一ノ瀬の答えは至極単純だった。

「簡単よ、一目惚れ。二年生になって、同じクラスになった高畑さんを見た瞬間から。……高畑さんに無理矢理した私が言うのもどうかと思うけど、好きな人とああいうことしたいって思うのは、当然じゃないかしら? ──高畑さんにもいるでしょ?」

 と一ノ瀬は、汐里に小首を傾げて見せる。思いもよらぬ問いかけに汐里は不意打ちを食らい、言葉に詰まってしまった。バツが悪そうに睨みつけていた視線を外した汐里を見て、一ノ瀬はふふっと笑いかける。


「やっぱり、高畑さん好きな人がいるのね。最近の高畑さん見ていて、何となくそう思っていたけど……うん、そっか。間接的にとは言え、失恋するのは初めてかな」

 一ノ瀬はそう呟くと、教室から出て行こうと足を進めた。汐里に背中を見せたところでぴたりと立ち止まると、振り返らず言葉だけを汐里に向けた。

「謝って済むことじゃないと思うけど、今日はごめんなさい。私となんかもう関わりたくないって思っているでしょうけど……でもね高畑さん、高畑さんと良く話すようになってから私、本当に楽しかった。これは本当だよ?」

 そう言い残し、一ノ瀬が立ち去ろうとしたところで汐里は「待って」と声をかけた。一ノ瀬は再び立ち止まるも、やはり汐里の方を見ようとはしない。汐里は首筋に当てていた手を下ろし、腕組をする。とんとん、と床を踵で軽く何度か鳴らした後、汐里は口を開いた。


「分かっていると思うけど、私は一ノ瀬さんをそういう目で見ることはできないし、特別な関係になることもできない。……だけど、一ノ瀬さんが私と話すようになって楽しかったって言うのなら、私もそうだと思う。文化祭でのことなんて、一ノ瀬さんと一緒じゃなきゃあんな体験できなかったし。今思い出しても恥ずかしいけど」

 そこで汐里は一度言葉を切り、「だからさ」と繋げた。

「普通の友達っていうのなら、一ノ瀬さんとこれからも付き合っていきたいかなって。もうこんなことするのはナシでさ」

 我ながらお人好しすぎるか、と汐里は思った。だが今一ノ瀬に言った言葉は汐里の本心で、自分が酷く落ち込んでいた時に心配してくれていたのも事実だ。汐里はそのことを忘れてはいなかった。

 一ノ瀬にその言葉はしっかりと届いているはずだ。その証拠に一ノ瀬は自分の左腕を、右手でぎゅっと握りしめる。その仕草は先ほどの汐里に対する行為を、後悔しているようにも見えた。

「……高畑さん、優しすぎだよ。……ありがとう」


 そうやって、しぼり出すように呟かれた一ノ瀬の声は震えていた。きっと今、一ノ瀬は泣いているのだろう。それを見せたくないのか、結局振り返らずに一ノ瀬は教室から出て行ってしまう。それを見送った汐里は鞄を机の上に置いて、腰が抜けたように自分の席に座り込む。その表情は色々と起こりすぎてしまったせいで、上手く感情を表せてはいなかった。少し休んでから帰ろうと、汐里は見慣れた教室の窓から見える風景を眺める。

(ああは言ったけど、一ノ瀬さんとちゃんと向き合えるかな……)

 明日からのことを考えるとやはり不安になってしまう。だがああ言った手前、こちらが気にした様子を見せてはダメかと、汐里は首筋を撫でながら思う。同時に、あることも頭に浮かんだ。


(好きな人と……って、私がサエジマさんに? ……いや、サエジマさんが私に?)

 言われた言葉を思い返し、汐里は一ノ瀬にされたことをサエジマと自分に置き換えて考えてみた。自分のスカートの中に手が潜り込んだところを想像してみたところで、汐里は「いやいやいや」と声を漏らしながら、机の上に体を突っ伏した。その顔は真っ赤になっている。

「一ノ瀬さんにあんなことされたからだ……うん、それしかないでしょ」

 正常な思考力を失っているんだと、汐里は自分に言い聞かせていた。とは言え、もしサエジマとの関係が進んだとしたら──そうなることも有りうるのかな、と汐里は誰もいない教室内で難問に四苦八苦してしまっていた。

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