第11話 日常と少しの勇気

 少し肌寒くなったな、と汐里はいつもの公園内を歩きながら、緩く吹いてきた風を受けてそう思った。サエジマに初めてこの公園で会った時よりも日が出ている時間は短くなっているのだから、それはそれだろう。秋も深まってきている。

 色とりどりの紅葉、とまではいかないが公園内の木々も深緑ではなく、色を落としていた。今の雰囲気の方が汐里にとっては好きだった。

 ここ最近は文化祭の準備で放課後に残っていたので、ここに寄ってもサエジマの姿は見つけられずに、しばらくは会っていなかった。最後に別れたときにかかってきた電話は何やら急ぎの用事のようだったので、サエジマの方も仕事が忙しいのだろう。

(いつもの時間よりも遅いけど……それでも、ちょっと期待してるなあ)

 ひらひらと宙を舞っていた落ち葉が、丁度汐里の肩にかかる。その落ち葉を指先で摘まみ、ふっと息を吐いて、落ち葉を飛ばした。その落ち葉の行く末を見届けることなく、汐里は制服の上着のポケットに手を入れ、ベンチと自販機がある場所へと向かっていく。日が完全に落ちて暗くなってしまえばもっと気温が下がるだろうし、そもそもそんな時間にサエジマは来ないだろう。日が出ている間に来るだろうか、と汐里は期待と不安──いや、不安がやや勝った感情を抱いていた。

 それもあり、汐里は二つ並んだベンチの内、一つにどっかりと腰掛けている黒いスーツ姿のサエジマを見つけたときに「あれ?」と思わず声を出してしまっていた。その声に気づき、汐里の方に視線を向けたサエジマだが、その表情は明らかに仕事疲れを感じさせるものだった。お疲れモードというところだろうか。


「おー、汐里ちゃん。久しぶりー」

 手に持っていた缶コーヒーをベンチに置き、サエジマは歩み寄ってくる汐里に手を上げた。笑みを浮かべるサエジマだが、それにもやはり疲労の影が見える。汐里は「どうも」と会釈をすると、少し距離が空いている隣のベンチに腰掛けた。

「お久しぶりです、サエジマさん。……あの、気のせいじゃないと思うんですけど。疲れていますよね? 明らかに」

 と汐里は、まずそう聞いてみた。久しぶりにサエジマに会えたことは確かに嬉しいのだが、初めて見るサエジマの様子に汐里は心配になっていた。思わずそんな視線を隣のサエジマに送ってしまう。

 それに気づいたサエジマは「ははは」と気の抜けたような笑い声を漏らすと、がしがしと頭を掻いた。最初に会ったときよりも髪が伸びているなと汐里は思う。

「うーん、バレたか。まああんな風にぼけーっとしていたら、隠せるものも隠せないかな。完全に油断していたし。そもそも今日、汐里ちゃん来ないと思っていたからね」

「まあ、いつもサエジマさんと会う時間よりは遅いですけど……お仕事、忙しいんですか?」

 いつものサエジマだったら「忙しくないよ」とあっけらかんと言ったり、汐里をはぐらかすようなことを言うものだが、サエジマはうんざりとした様子で頷く。


「忙しい。前に汐里ちゃんと話しているときに、電話がかかってきただろ? それからしばらくは、もう大変だったね。あの案件はどうなっているんだとか、しょうもないことで取引先に呼び出されたりだとか、俺は関係のない第三者なのに目の前で言い争いを見させられたりだとか……えーと、あとは……」

「あ、サエジマさん。もうその辺りで大丈夫です。聞いている私も疲れてくるんで」

 右手の親指、人差し指、中指と順番に折りながらここ最近の出来事を確認していくサエジマに、汐里はぴしゃりとそう言って遮った。

「まだ盛り沢山なんだけどな。取引先に行ったら、そこの新人が上司の胸倉を掴んでいた話とかもあるけど」

「そこの部分だけで、もうお腹いっぱいなんで。……はあ、本当に忙しかったんですね。そりゃあここに来れない訳です」

 やれやれと汐里は頷き、脚を組んで、膝に肘を置くようにして頬杖をついた。

 こうして話すのは、サエジマを誘うことができなかったあの時以来だが、案外引きずらないでちゃんと話せているなと汐里は少しほっとした。それでも頭の片隅には残っているが。

「ま、ようやくここに来れるぐらいの時間は作れるようになった訳だけどね。せっかくの休憩中なんだから、スマホの電源も切ってるし」

 ほら、とポケットからスマホを取り出したサエジマは、真っ暗な画面を汐里に見せる。それを確認した汐里はふうん、と小さく笑った。


「わざわざそこまでするってことは、もしかしたら──私と会って話すのが楽しみだったりしましたか?」

 久しぶりに会ったのだから、少しぐらい困らせてみようか。汐里はサエジマを横目に見ながら、そんなことを言ってみた。軽い冗談のつもりだ。サエジマの苦笑いが汐里の頭の中に浮かんでくる。

 そのサエジマは缶コーヒーを手に取り一口飲むと、「なんだ」と意外そうに呟いた。

「気づいてたのか。汐里ちゃん、勘が良いんだな。それとも俺の態度に出ていたかな」

 汐里はそのサエジマの返答が予想外で、すぐには反応を返せなかった。頭の中に浮かんでいたサエジマの苦笑いの想像が消え、今の言葉を汐里がちゃんと受け止めると、汐里は恥ずかしさを隠すようにサエジマから勢いよく視線を外した。

「……年下の女の子と話すのを楽しみにしていたなんて、現金すぎませんか」

 少し顔が熱くなってきたのを感じながら、汐里は恥ずかしさを誤魔化すためにあえて冷たい口調で言った。声を冷たくしても、体温が下がるとは限らないが。

「ああ、汐里ちゃんのその少しトゲのある言葉、久しぶりに聞いたな。んー……楽しみにしていたっていうのもそうなんだけど、こうしてここで会って、こうやって話すことができて、少しほっとしてるかな」

「へえ、私と話すことでリラックス作用があるなんて、初耳ですね。……ま、お仕事お疲れ様です、サエジマさん」

 と汐里は言いながらも、ほのかに嬉しさを感じている自分がいることに気づいていた。思わず「単純だな、私って」とすぐに消えてしまうぐらいに小さな声でそう呟く。当然、サエジマにはその呟きは聞こえない。


「……そういえば汐里ちゃんは、放課後に何かしてたのかな? いつもよりも遅い時間だけど」

 ふと思いついたように、サエジマが汐里に尋ねた。「大したことじゃないです」と汐里は組んでいた足を戻し、頬杖をついていた格好を止めた。

「もうすぐ学校で文化祭があって、その準備をしていていました。まあ、ありきたりな喫茶店ですよ。下手にお化け屋敷だとかやるよりは間違いないでしょうけど」

「文化祭かあ。そうか、もうそんな時期か。まあ喫茶店だったら王道だし、間違いはないね。汐里ちゃんは何をやるんだ?」

 サエジマからしてみれば、何の気無しにしてみた質問だ。だが汐里はそれを聞いて「私は……えーと……」と言いにくそうに、ごにょごにょと口を動かしていた。サエジマは思わず「ん?」と眉根を寄せる。

「何だか言いにくそうだけど」

「そんなことはないですよ。その……ウェイトレス、的な。スカートをちょっと短くして……」

 自分の柄じゃないということは汐里にも分かっているので、あまり堂々とは言えなかった。だがサエジマは「へえ、似合いそうだね」と頷いた。

「無理にお世辞言わなくても大丈夫ですよ、サエジマさん。向いていないっていうのは、ちゃんと理解していますから」

「ん? いや、お世辞ではないけど。汐里ちゃんみたいな、ちょっとクールな印象の子が「お待たせいたしました」とか言って微笑んだりすれば、そのギャップがいい塩梅なんじゃないかな?」

 そんな風に説明をするサエジマに対し、汐里は顔を傾けさせてじっと横目で見る。先ほどよりも、目つきが少し鋭くなっているようにも見えた。

「何だかお詳しいようですけど、サエジマさん」

「あー……実は何回か、メイド喫茶とかに行ったことあるんだよね。──いや、一人でじゃないよ? 友人に誘われてとかでさ」

「別に慌てる必要はないでしょ。男の人だったら、そういう風に接してもらいたいって思っても軽蔑したりなんかしませんよ」

 汐里の口調はやや早口で、そしてどこか素っ気ない。それにサエジマは気づいており「……もしかして、怒ってる?」と遠慮気味に聞いてきた。それに汐里は「いえ?」と短く答えるも、その答えと汐里の雰囲気は見てわかるように、逆である。


(メイド喫茶か。映像とかで見たことはあるけど……うーん、もし私があの格好をしても馬子にも衣裳って感じだよね)

 と汐里は自分がメイド服を着ているのを想像しようとするが、なかなかうまく行かない。口調だったならば、何となくは分かるのだが。もし普通の喫茶店ではなく、メイド喫茶という案になっていたらと考えるととてもできる気がしなかったが、その中で汐里はさっきのサエジマの言葉を思い返していた。

(ギャップがいい塩梅、か。正直恥ずかしいし、向いてないとも思うけど、でもどうせ見せるなら最初は……)

 汐里はふうと息を吐き、小さく頷く。そしてベンチから立ち上がると、「サエジマさん」と声をかけた。まるで何かを決心したような表情を見せている。

「実は接客の練習、あまりしていないんですよね。もし良かったら、見てもらえませんか?」

「え? ああ、そりゃ構わないけど」

 サエジマは少し驚いたように立ち上がった汐里に答える。その汐里はサエジマの方ではなく、前に設置されている自販機へ歩いていくと、財布から小銭を取り出して暖かい缶コーヒーを一本、購入した。それはサエジマがいつも飲んでいるものだ。

 その缶コーヒーを右手に持ち、サエジマへ歩み寄っていく。ベンチに座ったままのサエジマは、目の前まで来た汐里を見上げている。購入した缶コーヒーを見立てて、差し出すつもりだろうかとサエジマは思っていた。

 汐里は左手を伸ばし、サエジマの左手をそっと掴む。そしてその手をそっと持ち上げると、右手に持っていた缶コーヒーをサエジマの左手に握らせると、汐里の両手はそのままサエジマの左手をきゅっと握り、包み込んだ。それから汐里はできるだけ意識をして、微笑んだ。ぎこちなくならないように。


「お待たせいたしました、ご主人様。暖かいうちにお飲みくださいね」


 汐里の口から出たその言葉は、出会ってから今までで聞いた汐里の言葉で一番柔らかい声色でサエジマに届けられた。汐里自身も、こんな風な声を出すのは生まれて初めてだった。だから二人が初めて聞くのは当然のことである。

 呆気に取られたサエジマが汐里を見つめる二人の距離は、とても近い。汐里はサエジマがちゃんと缶コーヒーをその手に持ったのを確認するとゆっくりと手を離した。汐里の両手はそのまま制服の上着のポケットに戻り、サエジマに背中を見せるようにして自販機の方を向いた汐里は、そのまま数歩歩いてサエジマと距離を取る。その間、二人共何も言葉を発さなかった。

 サエジマは汐里がその手で渡した缶コーヒーの暖かさを確かめた後、蓋を開けて、一口飲む。成分から何まで、サエジマが自分で購入した缶コーヒーと同じだ。何も変わらない。

 しかし何故だかこっちの方が美味しく感じるのは、気のせいだろう。サエジマはそう思いながら、背中を向けたまま立ちつくす汐里に声をかけた。


「コーヒー、ありがとう。正直、ドキッとした」

「そうですか」

「……なあ、汐里ちゃん」

「何ですか」

 サエジマは悪いなとは思いながらも、小さく笑ってしまう。だがそれはからかうような笑みではなく、優しいものだ。

「顔、真っ赤だったね」

「……でしょうね。体、すっごい熱いですから」

 汐里は否定はせずに、そう答える。どうせ見せるなら最初はサエジマに、と思って汐里は行動に移したのだが勇気を出すところを間違えたかな、と汐里は一向に顔の熱が引かないのを感じながら、そう思った。

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