第9話 日常と自覚
「しおりん、元気出しなよ。チケットのことなら気にしなくてもいいってば」
と、鈴が明るく笑みを浮かべ汐里を励ましているのは、駅前にあるカフェの店内だった。放課後に文化祭の準備をした後、汐里と鈴と澪の三人でこのカフェにやってきていた。店内には同じく制服姿のグループや、仕事の打ち合わせをしているサラリーマンなどの姿が見えた。汐里たち三人は、店の奥の丸いテーブル席に座っている。
その中で最もうかない表情をしているのは、間違いなく汐里だった。頼んだコーヒーには手を付けておらず、既に冷めてしまっている。汐里がここまで落ち込んでいるのを見るのは、鈴と澪にとっても初めてだった。
「コーヒー、もう冷めちゃってるよね? もう一杯頼む? お金なら私が出すよ」
と澪が汐里に言っても、当の本人は首を小さく横に振るだけで言葉は聞こえてこない。これは相当重症だ、と澪は思いながら、汐里を見た。
汐里が気になっている(と鈴と澪は思っている)男性、サエジマとの仲を進展させるために鈴が用意してくれた、水族館のペアチケット。だが汐里はそれをサエジマには渡すことはできなかったようで、週初めの月曜日に学校にやってきた汐里は、気分が落ち込んでいるのと土日にあまり寝れなかったのだろうか、非常に目つきが悪くなっていた。クールな印象を持たれている汐里というのもあり、クラスメイトからは男女問わずに「何か今日の高畑さん、怖くない?」と囁かれてしまっていた。
しかし今日の汐里はそんなことを気にしている余裕すらもないのか、殆ど一言も発さないまま学校を終え、鈴が半ば無理矢理に帰りにこのカフェに誘って、今に至っている。
「水族館のペアチケットをしおりんにあげたのは私なんだからさ。私にかっこいい彼氏がいれば、使っていたんだけどねー。だからしおりんが落ち込む必要なんかないって。サエジマさんも、仕事忙しかったかも知れないし」
早口気味の鈴の言葉。その様子から、鈴も何とかしなければと思いやや焦っているのが澪には分かった。それは多分汐里にも分かっているはずなのだが、それでも汐里は何も言わない。さすがの鈴も「あうう……」と、小さくうねって言葉に詰まってしまう。
テーブルを人差し指の指先でとん、とん、と小さく叩いていた澪はふうと小さく息を吐く。
「汐里、ごめんね」
と短く言った澪は汐里の眼前に右手を伸ばすと、親指を使いしならせた中指を汐里の額にぱちんっ、と小気味良い音を立てて打ち付けた。澪がいきなり汐里に強烈なデコピンをかましたのを見て、鈴は手に持っていたカップを落としそうになっていた。
いきなり額にデコピンを受けた汐里は、思わずそのうっすらと赤くなった部分を手で押さえて「いった……」と小さく漏らした。汐里はいつもよりも悪くなっている目つきで澪のことを睨むも、澪はそれを見てうん、と頷いた。
「ようやく反応してくれたね、汐里。今日朝からずっと、魂が抜けたみたいになっていたんだもん。でも痛がっているってことは、大丈夫だってことね」
「みおりん、いきなりデコピンをかますのはどうかと……」
荒療法に踏み切った澪におずおずと鈴が話しかける。「今の汐里にはこれぐらいしないと」と澪が言ったところで、汐里がカップを手に取り、冷めたコーヒーを一口飲んだ。受け皿にカップを戻したところで、汐里がようやく口を開いた。
「……私、自分があんなに臆病だなんて知らなかった。言いたかったことも言えなかったし、渡したかったものも渡せなかった。……自分のことも把握できていないなんて、笑えるよね」
汐里は少し掠れた声でそう言うと、自嘲気味に笑った。鈴は「そんなことないよっ」と汐里に力強い視線を向ける。いつもと変わらない鈴に少し癒されたのか、汐里は「ありがと、鈴」と先ほどよりも柔らかくなった雰囲気を感じさせていた。
「……汐里とは中学校からの付き合いだけど、今日みたいな汐里は初めて見たな。鈴はどう?」
「うん──私も初めてだよ。しおりんでも、こんなに落ち込むんだね」
「私も落ち込むことぐらいあるって」
と気を使う必要のない、鈴と澪と会話をしている内に、汐里は張り詰めたものが緩んでいくような感じがした。つまるところ、きっかけさえあればこうして普通に話せるぐらいまでは気分も落ち着くものだが、いかんせん学校にいる間は、汐里が周りを拒絶してしてしまっていたので、そのきっかけすらできなくなってしまっていた。
「鈴の言う通り、汐里がこんなに気が滅入っているところは初めて見たな。……うん、その原因も分かるかな。汐里、サエジマさんのこと好きでしょ?」
澪の汐里に対する質問はど真ん中への直球勝負、と言ったところだろう。鈴は思わず「ひえっ」と短く声を漏らしていた。いつもの汐里ならば「はあ?」と一蹴するところだろうが、少し間を置いてから、汐里はこくんと首を縦に動かした。
「……私の中にある感情がそれだって言うんなら……きっと、好きなんだと思う。そうじゃなきゃ、自分でもこんなに落ち込んでいる説明がつかないし」
そこで一息ついてから、汐里は続ける。鈴と澪は汐里の言葉を聞いていた。
「好きになった理由なんて、そんな大層なものじゃないよ。いつもの、何も変わらない日常の中にサエジマさんっていう、ほんの少しの非日常と出会って……気づいたら、私の中でサエジマさんとあの公園で話すのが、日常になってた。もしかしたら私は、それが変わるのが怖かったのかも知れない」
と汐里は言い終わると「ま、ただのヘタレだね」と笑って見せた。無理はしていない、自然な笑みだ。
「そうだったんだね……ふふふ、でもしおりんってば結構乙女なんだねー。何だか私まで顔が熱くなってきたよ」
「鈴、茶化さないの。でも、話してさっぱりしたんじゃない? いつもの汐里に戻ってるよ。これで明日は廊下ですれ違う後輩たちを怖がらせないで済むね」
鈴を注意する澪だが、その澪が汐里を茶化すようなことを言う。汐里はそれに対して「え、怖がってた?」と、少なからずショックを受けたようだった。
だが明日はそんな目つきになることはないかな、と自分の目元を気にしている汐里を微笑ましく見ていた。
「あれ? ──ヤバっ、もうすぐ電車出ちゃうじゃん。しおりん、みおりん、早く行こっ」
ふと自分のスマホに目をやった鈴は時間を確認すると、慌てた様子で鞄を手に立ち上がる。放課後に文化祭の準備をしていた上に、カフェで話し込んでいたので帰宅時間がいつもよりも大分遅くなってしまっていた。これ以上遅くなるのは良くないなと汐里と澪も頷いて立ち上がり、会計を済ませて外へと出た。すっかり暗くなってしまっている。
「汐里、急ぐよ」
鈴に続いて、澪が小走りで駅へと向かっていく。汐里もそれに続こうと走り出そうとしたとき、不意に後ろから「高畑さん!」と名前を呼ばれた。さすがに汐里もそれには驚いたのか、びくっと肩を動かしてから振り向くと、そこにいたのは汐里を心配そうな眼差しで見つめている一ノ瀬だった。
「一ノ瀬さん? びっくりした……どうしたの、いきなり」
さすがに声をかけられて、それを無視して駅まで走る……ということはできずに、汐里は一ノ瀬へと歩み寄った。目の前まで来た汐里を一ノ瀬はじっと見つめており、視線は逸らさない。汐里はもしかしたら今日の自分の態度のことで怒っているのでは、と不安になった。実際そうなってしまっても、非があるのは汐里の方だ。
「もしかして、今日の私の学校でのこと……かな? あー……今日のことは、本当にごめん。詳しくは言えないんだけど、ちょっと落ち込むことがあって──」
「そうじゃないの、高畑さん。私、高畑さんのことが心配で……」
汐里がその不安からか、一ノ瀬に今日のことを謝罪するとそれを切るようにして、一ノ瀬がそう言った。汐里が思わず「え? わざわざそのために?」と聞くと、一ノ瀬は強い口調で「当たり前じゃない」と言い、汐里の右手を取る。一ノ瀬の両手にぎゅっと握られた汐里の右手は、彼女の掌の暖かさをしっかりと感じていた。
「あんなに落ち込んでいる高畑さんを初めて見たから、私心配で仕方なかったのよ? でも何があったかなんて簡単に聞けないし……」
「あはは……一ノ瀬さん、優しいね。私なんかのためにそんな優しい言葉かけてくれるなんて。でももう大丈夫、心配しないで」
あんなに分かりやすくヘソを曲げていた自分のために励ましてくれているんだな、と思うと汐里は一ノ瀬の優しさが嬉しかった。握られている右手に少し力を入れて一ノ瀬の両手を握り返すと、一ノ瀬はドキっとしたような表情を見せた。
「一ノ瀬さん? その、恥ずかしいから……手、離してもらってもいい?」
「あ──ご、ごめんね、高畑さん」
カフェの前で、整った顔立ちの制服姿の少女二人が手を握っているのは、他の通行人たちの目を引くには充分だ。それに気づいた一ノ瀬は顔を赤くし、汐里の右手を握っていた両手を引いた。
「ありがとう一ノ瀬さん、心配してくれて。電車の時間だからもう行くけど……また明日学校で」
「うん。また明日ね、高畑さん」
汐里は別れ際に一ノ瀬に感謝の言葉を送ると、駅へと駆け出して行った。あの急ぎ具合からして、間に合うかどうかはギリギリと言ったところか。
一ノ瀬は小さく手を振り、汐里を見送った。汐里の姿が雑踏に紛れて見えなくなったところで、一ノ瀬はついさっきまで汐里の右手を握っていた自分の手に視線を落とす。
「……やっぱり手、小さいよね。高畑さん」
そう呟き、指先を唇の近くまで持ってきた一ノ瀬は、舌先で自らの指を小さく舐める。くちゅ、くちゅ……と口の中で唾液を舌に絡ませ、その味をしっかりと堪能したところで、こくん、と喉を鳴らし唾液を飲み込んだ。
はあ……と一ノ瀬は満足感に溢れた吐息を漏らすと、自分の指先を時間をかけてネイルしたときのようにじっくりと見つめてから、小さく笑った。
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