第8話 日常と事の裏側

「じゃじゃーん。しおりんにはこれをあげよう。感謝してくれたまえ」

 いつもの三人で昼休みにご飯を食べていると、鈴がおもむろに二枚のチケットを取り出し、それを誇らしげに汐里に差し出した。母親が作ってくれた弁当を食べる手を止めた汐里は、机を挟んで向こう側にいる鈴とそのチケットを交互に見てから、おかずのコロッケを口に含んだ。しかしながら何の言葉も返ってこない汐里に対し、鈴は不満げだ。

「ちょっとしおりん、無反応はさすがに寂しいよ」

「それが一体なんのチケットなのか説明がないと、汐里も反応できないでしょ、鈴」

 と、横の席に座っている澪のフォローが入る。それを聞いた鈴は「確かに」と納得したように頷いた。汐里は別に反応しなかったわけではなく、とりあえずコロッケが食べたかっただけなのだが、汐里はそれを言わないことにした。

「実はこのチケット、水族館のペアチケットなんだよねー。お母さんが職場の人からもらったらしくて、私にくれたんだ」

「へえ……ん? せっかく貰ったものを、何で私に渡そうとするの? 鈴が使えばいいじゃん」

 汐里はそのペアチケットを自分に渡そうとする鈴を不思議に思った。母親から貰ったのなら、普通は自分で使うはずだ。だが鈴は「んーん」と首を横に振る。

「これペアチケットじゃん? 私たち三人で行くには一人分足りないし、かと言って私に彼氏はいないから行こうとしても一枚余るし……みおりんも彼氏いないし」

「うーん、そこは別に言わなくてもいいんじゃないのかな」

 補足するように鈴に言われると、澪はにこりと笑った。その笑みにはどことなく威圧感があり、鈴は思わず「ご、ごめん」と謝ってしまう。


「だから私にってこと? ていうか、私にも彼氏なんかいないし……貰ったところで、私も持て余すだけだと思うんだけど」

 弁当を食べ終わり、容器を片付けながら汐里は鈴に言った。三枚分チケットがあれば、この三人で行けたんだけどなと汐里は思ってしまう。しかし鈴は「ふっふっふ」とわざとらしく笑うと、汐里にずい、と顔を近づけた。

「分からないかなあ、しおりん。……サエジマさん、誘っちゃえばいいじゃん」

「──はあ?」

 鈴からサエジマの名前が出てきて、その上でこのペアチケットをサエジマと使ってはどうか。そんな提案をされれば、汐里は思わず素っ頓狂な声を上げてしまっていた。教室内で同じように昼ご飯を食べていた他の生徒たちも、思わず汐里の方に視線をやってしまう。普段、汐里からあんな声を聞いたことがないからだろう。

 それに気づいた汐里は気を取り直すように「あのさ」と鈴に小声で言うも、汐里の指先は自分の緩く跳ねた黒髪の毛先を弄っていた。少なからず動揺してしまっているのが、隣で見ている澪には分かった。


「何でそこでサエジマさんが出てくるわけ? 私は別にサエジマさんとそういう関係じゃないんだけど」

「いやいやちょっと待ってよ、しおりん。そんな怒らないでよ。別にしおりんのことからかってる訳じゃないんだって」

 汐里がじろりと鈴を見つめると、先ほどの澪とはまた違った威圧感を感じたのか、鈴は慌てたように弁明する。そんな時、澪が口の横に手を当て、他の生徒たちに聞こえないように小声で汐里に言った。

「鈴なりに汐里の役に立ちたいからこんなことしてるんじゃない? 二人の仲が進展しますようにってことだと思うよ」

「そうそう、それ」

 澪に倣って、鈴もこそこそと話し始める。逆にこれでは目立ってしまうんじゃないかと汐里は思い、はあ、と息を吐いてから机の上に置かれた、二枚の水族館のペアチケットに視線を落とした。

「仲が進展しますようにって……別に私は今のままでも……」

 汐里はぽつりと呟く。自分の中にあるサエジマに対する感情を自覚し始めてから、まだサエジマには会っていない。今まで通り、あの公園で緩く、のんびりとした時間を過ごせるのであれば、この感情は自分の中だけに留めておくつもりだった。

 だが、こういった形できっかけになるものを親友である鈴から手渡されるとは汐里は思ってもいなかった。鈴からしてみれば、澪の言う通りに汐里の役に立ちたいと思っての行動なのだろう。裏表のない、あっけらかんとしたところが鈴の良いところでもあり、玉に瑕なところでもあるのだが。この場合はどちらにも転びえた。


「汐里、とりあえず受け取ってあげたら? それからそれをどうするかは、汐里が決めたらいいんじゃない?」

 澪は汐里に対して、柔らかい口調で言った。チケットから鈴の方に視線を向けてみると、鈴は緊張しているのか、顔がやや強張ってしまっていた。汐里はそれを見て思わず笑ってしまう。

「あ、しおりん笑ったな? これでも私は真剣にだね……」

「分かってるって。鈴はふざけることはあっても、人をからかうことはしないからね」

 汐里がそう素直に口にすると、鈴は不意打ちを食らったかのようにどきっとした表情を見せる。ふうと短く息を吐いてから、汐里はそのペアチケットを手に取った。

「ま、せっかく持ってきてくれたんだから、受け取っておくことにしますか」

「素直じゃないんだから、汐里は」

 そんな汐里に、澪はくすっと笑いかける。それに関しては正直なところ、自分でもそう思うな、と汐里は考えながらその二枚のチケットを鞄の中に入れる。鈴はほっとしたのか、表情を緩めていた。

 このチケットをどうするか……というのは、鈴の目論見通りになってしまうようで何だか悔しいのだが、汐里の中で決まっていた。

(帰りに公園に寄ってみようかな……)

 と汐里は頬杖をついた。目の前では鈴がにこにこと笑っている。表情がころころと変わる鈴は自分よりももっとずっと素直だな、と汐里は少し羨ましくなった。




 汐里は鈴と澪とは帰らずに、一人で下校した。その最中に一ノ瀬や壮真のグループに帰りにカラオケに行かないかと誘われたがそれを断り、いつもの公園に汐里は立ち寄っていた。サエジマと会うのはお決まりの自販機と休憩用のベンチが並んだスペースで、汐里はそのベンチに腰かけている。スカートのポケットの中には、鈴からもらったあの二枚の水族館のペアチケットがあった。

(せっかく鈴が用意してくれたんだから、無駄にするのは鈴に悪いしもったいない。それだけ……うん、それだけ)

 汐里は自分に言い聞かせるように、内心でそう呟いていた。何だかいつもよりも心臓の鼓動が良く聞こえるのは気のせいかな、と汐里はどこか落ち着きのない様子を見せている。

 サエジマとは公園内のこの場所で会うのだが、そもそも今日ここで会うという約束などしていない。もしかしたらサエジマは今日は……というより、いつ来るかも分からないのだ。ペアチケットは週末の土日にしか利用できないため、金曜日である今日を逃してしまっては、チケットは無駄になってしまう。

 暗くなるまで待ってみようか。いやそんなに待って来なかったら、何だかバカみたいだなと汐里はぐるぐると頭の中で考えを衛星のように巡らせていた。

 その衛星を飛ばしたおかげかどうかは分からないが、革靴のこつこつという小気味いい足音を鳴らしながら、「あれ?」と聞き覚えのある男性の声が、汐里の耳に入る。


「おー、やっぱり汐里ちゃんだ。あの駄菓子屋以来だね」

「あ──サエジマさん。お久しぶり……ですね」

 フレンドリーな笑みを見せながら、サエジマは小さく手を上げて汐里に挨拶をする。汐里はと言えば、どこか歯切れ悪くサエジマに言うと、ぺこりと頭を下げた。

「久しぶりって言うほどでもないんじゃないかな? あー、そういえばあそこで買った駄菓子、会社に持って行ってお裾分けしたら好評だったよ。みんな、懐かしそうに食べてたな」

「それは良かったですね。案内したかいがありました」

 サエジマは前に汐里に連れて行ってもらった駄菓子屋の話をしながら、いつものように自販機で缶コーヒーを購入する。汐里はそのサエジマの背中を見ながら、ポケットの中に左手を入れて、指先でチケットに触れた。

(さてと、サエジマさんを誘わないとね。別に深い意味は無いし……チケットが勿体ないだけだから)

 汐里は立ち上がり、サエジマに話しかけようとするが──口を開きかけたところで、喉に詰まったかのように言葉が出てこない。汐里はそんな自分自身に戸惑っていた。

(何で……シオおばちゃんの駄菓子屋に案内したときみたいに、言えばのに)

 思わず顔を俯かせた汐里の視界に、ひょい、と缶コーヒーを持ったサエジマの手が入り込む。汐里はそこで顔を上げ、サエジマを見た。


「はい、これ。奢るって言っていたけど、この前奢れなかったから」

「……ありがとうございます」

 汐里がその缶コーヒーを受け取ったのを見て、サエジマはうん、と頷く。

「何となくだけど、汐里ちゃん元気無さそうだからさ。缶コーヒー一本分だけでも、元気が出てくれたらってね」

 そう言って笑うサエジマ。汐里はそこで、なぜ自分がいつもより上手く話せないのか気づいた。

 自分の中にある、サエジマに対する感情を自覚してから彼に会うのは初めてだったからだ。まだ整理し切れていない上に、鈴から貰った水族館のペアチケットの誘いというのもあって、自分が思った以上に汐里は臆病になってしまっていた。

「っ……さ、サエジマさん。あのですね……その……」

 汐里は右手にサエジマから受け取った缶コーヒーを持ち、ポケットの中に入れた左手はチケットを強く握りしめていた。汐里の左手の中で二枚のチケットはぐしゃりと形を変えてしまっているが、今の汐里にそれを気にしている余裕はない。

 絞り出すように口にした汐里の声。時間をかければ、言えたのだろう。サエジマは汐里の言葉を待っていてくれたはずだ。

 しかし汐里が誘いの言葉を口にする前に、サエジマのスマホから着信音が鳴り響く。サエジマは珍しく表情をあからさまにしかめると「ごめんね、汐里ちゃん」と一声かけてから、ポケットからスマホを取り出し電話に出る。ところどころ聞こえる会話の内容からして、

仕事関係だろう。


「ごめん、汐里ちゃん。ちょっと急用ができたから今日はもう行くよ」

「あ……はい。その、お気になさらず」

 サエジマから見ても、いつもの汐里とは明らかに違う様子だ。それが気にかかるのか、サエジマは心配そうな視線を汐里に向けてから、公園から去っていく。汐里はただそれを見送ることしかできなかった。あるいは追いかけることができたのかも知れないが、今の汐里にはそんなことはとてもできない。

 汐里は鞄がぽつんと置いてあるベンチにふらりと、力が抜けたように腰を下ろせば、ポケットの中に入れていた左手を出した。左手はぎゅっと握られており、汐里がその手を緩めると、手の中には大きくしわが入り形を変えてしまっている、二枚のチケットがあった。

「……あー」

 汐里はそのチケットを見ると、掠れた声を漏らす。髪が乱れるのを気にすることもなく、汐里は頭をぐしゃぐしゃに掻き乱すと、曇り模様の空を見上げた。もうすぐ、雨が降りそうだ。

「ああ……」

 汐里は目頭がじんわりと熱くなってきたのを感じていた。雨が降るよりも先に、そして簡単に汐里の頬に涙が一筋伝っていく。


 こういうとき、自分がこんなに臆病になるなんて汐里は思ってもいなかった。言いたいことも言えなかったし、渡したいものも渡せなかった。チケットが勿体ないからだのなんだの都合の良い言い訳を考えることだけは簡単にできて、本当に言いたいことは何も言えなかった。時間にすれば、ほんの数秒あれば言えたはずなのに。

 いつもは事の裏側さえも、簡単に覗いて分かった気になっている。だけど、実際はどうだろう? 大事なことを逃してしまった決定的なこの瞬間まで、自分のことを把握することすらできてはいなかった。それは汐里にとって、涙を流すぐらい情けなくて悔しいことだった。

「……くそっ、何で……ちくしょう……」

 汐里は今の自分に比べたら、ずっと晴れ渡っている曇り模様の空から自分の足元に視線を向け、ぽろぽろと零れる涙を拭いながら、悔しさを滲ませる言葉を呟いていた。

 目を真っ赤にし、泣き止んだ汐里の鞄の中にあるスマホには鈴からのメッセージが届いていた。それは「しおりん、うまくいったかな?」というものだった。鈴からすれば気になっているのだから、送られてきても不思議ではない。

 家に帰る前に、汐里はそれに短く返信をした。


 「ミスった」とだけ打ち込み、鈴に送ると汐里は重たい足取りで家へと戻っていく。目を真っ赤にさせた汐里を出迎えたのが母親ではなく妹だったので、はぐらかすのはそれほど難しくはなかった。


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