第3話 日常と猫
「しおりん、みおりん、この間はごめんね! まさかお母さんが急に熱を出すとは想像もしていなかったよー」
「それは全然気にしてないから。それよりももう鈴のお母さんの体調は大丈夫なの?」
「うん、一応大事を取って昨日はパートを休んだけど、もうすっかり熱も下がったから今日は仕事に行ったよ」
そんな会話は鈴の母親が熱を出してしまってから二日後、授業を終えた後、汐里の家で約束をしていた勉強会を行うために、汐里と鈴と澪の三人で下校をし、汐里の家に向かっている最中のものだった。
「でも鈴、偉いじゃない。料理とか洗濯とか、買い物も全部お母さんの代わりにしたんでしょ?」
という澪の言葉に、鈴は「いやー」と照れくさそうな表情を見せた。
「普段はお世話になりっぱなしだからねー。お父さんも仕事で忙しいし、弟はまだ小学生だしで、私がやるしかなかったんだけどね。お母さんはすっごい心配そうにしてたけど」
「まあ、鈴のお母さんのその気持ちは分からなくもないけどね」
手提げバッグを右手から左手に持ち替えながら、汐里は悪戯っぽく鈴に言ってみる。その言葉はもちろん本気ではない。鈴はそれを聞いて、「しおりんは私のお母さんだった……?」と愕然としたように呟く。二人のそんなやり取りを、澪は小さく笑って見ていた。
「勉強会の予定はずれちゃったけど、明日は学校休みだし丁度良かったかもねー。しおりんの家で勉強するから、今日は帰るの遅くなるかもって連絡入れといたし」
「そんなに遅くなるまで、鈴の集中力がキープできればいいんだけどね。それも見越して、最初は鈴の苦手な教科から勉強するのはどうかな?」
と、澪が汐里に提案をする。確かに鈴が途中で集中力が完全に切れて寝てしまったり、スマホをいじり出すのは簡単にイメージできる。「それで間違いないね」と汐里は頷いて、今回の勉強会は鈴の苦手な教科を中心に取り組むことに決定した。
「おおー、ありがとう。持つべきものは頼れる友人だよね!」
「寝たらたたき起こすけど。そのつもりでね」
「せ、せめて優しく起こしてね……?」
おそるおそると鈴は汐里にお願いをするも、汐里はくす、と笑みを見せるだけだ。「ひええ……」と鈴が声を漏らしたとき、澪がふと歩く足を止める。数歩前に行った汐里と鈴の二人は後ろを振り返り、前ではなく横に視線を向けている澪を見た。
「なになに、どうしたのみおりん」
澪が何を見ているか気になった鈴は澪の方へと戻り、そちらに視線を向ける。何か落ちていたのかな、と汐里はそんな二人の様子を見ていたが、二人の視線の先はここ最近汐里が足を運んで、サエジマと出会った(そんな大層なものではないが)公園があった。
その公園の入り口の少し先には、一匹の白い猫が尻尾をゆらゆらと揺らしながら座っている。自宅で猫を二匹飼っている澪は非常に猫好きであり、のほほんとしている白猫を見るその目はとても嬉しそうだ。
「可愛い……首輪ついていないけど、飼い猫かな? こっち見てもすぐ逃げないし……」
「みおりんの猫好きが発動しちゃったねえ。……あ、公園の中に入っていったよ」
座っていた白猫は尻尾を揺らしながら起き上がると、公園の中へのそのそと歩いていく。公園のどこでひと眠りでもするつもりなのだろう。その様子を見て猫から視線を外し、「ほら行くよ」と二人に言った汐里だったが……
「猫が公園の中に入ったぞ! 追え!」
「ごめん汐里、この公園を通ってから汐里の家にも行けたよね?」
と鈴と澪が、猫の後を追って公園へと入ってしまった。それを見た汐里は「ええ……」と呆れたような声を出すが、ひとつ短い溜息をついた後に二人に続いて公園へと入って行く。
昨日、汐里は公園には立ち寄っていない。別に毎日ここに来る必要もないし、あのサエジマという男性と会う約束もしていない。だから今日もここの公園には立ち寄るつもりはなかったのだが、まさかの流れになっていた。
(鈴と澪……いや、鈴だけかな……サエジマさんに会ったら面倒なことになる気がする)
と汐里は先を行く二人の背中を追いかけ、小走りになりながら考える。とは言え、サエジマがそうそう都合よく、このタイミングでいるはずもないだろうと汐里は思っていた。実際、いない確率の方が圧倒的に高い。
しかしながら日常の中の非日常は、思いもよらぬところで起きるものだ。
「おっと、お兄さん。もしかしてその猫ちゃんの飼い主だったりしますか? すっごく懐かれてますねえ」
「あ、あの、よろしければ猫を撫でさせてもらってもいいでしょうか?」
「ええ? いや、この猫、俺知らないよ。今日初めて見たし……」
汐里が二人に追いつくと、ベンチが二つ並び、自販機が設置されている休憩スペースにてそんな会話がされていた。それは鈴と澪だけの会話ではなく、二人が追いかけた白い毛並みの猫がごろごろと喉を鳴らし、汐里がまさか今日、ここにいるはずもないだろうと思っていた男性、サエジマの足元でじゃれつきながらの会話だった。
汐里は「ええ……」と思わず声に漏らしてしまう。サエジマの足元で人懐っこそうにしている白猫に鈴と澪が夢中になっている中、サエジマが汐里に気づくと「あれ?」と声を上げる。それに気づいた鈴と澪は猫から視線を外し、サエジマと汐里を交互に見た。
「……? 汐里、もしかして知り合い?」
「うー……まあ、知り合いって言うか……この公園でちょっと話した仲っていうか……」
澪の質問に、汐里はどうしたものだろうかとはっきりしない答えを返した。知り合いと言えばそうなのだが、そこまで言えるようなものではないような気もする。まあ澪ならば面白おかしくしようとはしないだろうが……問題は鈴の方だ、と不安げに視線を向けると、
「ええー!? ちょっとお兄さん、しおりんとどういう関係なんですか!? いつ知り合ったんですか!? ていうかしおりん、私たち全然知らなかったよ!? 秘密にしているとか、大人の関係だなー!」
……と、汐里の悪い予感は的中してしまい、追いかけてきた猫をそっちのけで、サエジマに質問をぶつけてしまう。その勢いの良さにサエジマは押されてしまっているようで、「ちょっと落ち着いて」と、苦笑混じりに鈴に言いながら待って待って、と両手でジェスチャーを取り、説明に入った。
「汐里ちゃんとは、俺がここの公園で休憩しているときに会ったんだよ。それで仕事で疲れた俺の話を聞いてくれたって訳。まあ、公園でのお茶仲間かな?」
と言った後に、「ね、汐里ちゃん」とサエジマが汐里に同意を求めた。
「……そんなところですね。だから鈴が考えているような関係じゃないってこと。ていうか、興奮しすぎでしょ。小学生でももうちょっと落ち着いてるって」
とサエジマの落ち着いた返答を聞き、汐里は自分の黒髪の毛先を指先でいじりながら、鈴に「分かった?」と視線を送った。何だかそれが有無を言わさぬものだと気づいた鈴は、「な、なるほど」と、若干たじろいだように頷いて納得した。いや、させられたと言うべきだろうか。
「ん? ああ、もう猫どっかに行ったみたいだね。びっくりしちゃったのかな」
「あ……本当ですね。撫でたかったな……」
サエジマの足元でじゃれていたあの白い猫は、既にどこかに姿を消してしまっていた。澪は辺りを見渡してからその姿が見えないことに、残念そうに肩を落とす。
「いやいやお兄さん、私は猫ちゃんよりもお兄さんとしおりんのことに興味が……」
そんな中、諦めずにサエジマにこそこそと話しかけた鈴の肩を汐里がぐい、と引いた。鈴はそれに驚いて「うわあ」と声を上げてしまう。
「もう行きますね、サエジマさん。私たちは勉強会をする予定があるので。あまりゆっくりはしていられませんから」
「ああ、そうなんだ。テストがあるのかい? そりゃ大変だ。俺も今日はコーヒーを一本飲んで、会社に戻るとするよ。まとめなきゃいけないことがあってさ」
やれやれと苦笑を見せるサエジマに、汐里は「お仕事大変ですね」と返した。なるべくどうでもよさそうな口調で。
「じゃ、失礼します。ほら澪、鈴、行くよ」
小さく頭を下げてから、汐里は二人に促して公園の出口へと先に歩いていく。その様子を見て澪は「し、失礼します」と慌てたように頭を下げて汐里の後を追う。鈴は何だか悔しそうな顔でサエジマのことを見ていたが、それは彼の話を詳しく聞けなかったからだろう。「またの機会にお会いしましょう!」と元気よく挨拶し、鈴も遅れて駆け出していった。
先頭を足早に歩く汐里は、なんだか少しイライラしていた。それは今まで抱いたことのないような感情だった。
汐里がサエジマと今日ここで会うことはまったく考えていなかった上に、友人である鈴と澪もいた。驚いたのは多分サエジマも同様のはずなのに、まったく変わらない様子で自分と鈴と澪と話していたことが、何だか悔しかったのだ。自分だけが慌てていて、そしてサエジマはそれに気づいていて、それがバレないように助けられたみたいで。
(ああ、もう! 何なのよあの人!)
汐里はやり場のないこの感情を、心の中でそう叫んで少しでも和らげることしかできなかった。
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