第2話 日常と再会
「おっはよー、しおりん。昨日振りじゃーん?」
「……いや、顔が近いって、鈴。朝からそのテンションはきつい」
そう言って座っている椅子を後ろに引いて距離を取った汐里に対し、鈴(すず)と呼ばれたショートカットの少女は、わざとらしくショックを受けたような表情を見せる。
今の時間は汐里が通っている高校の、SHRが始まる前の朝のひとときだ。汐里がいるこの2-2のクラス内も、まだ自分の席に座っている生徒はまばらで、教室内ではいくつかのグループで話をしたり、他のクラスに足を運んだりしていた。汐里に関して言えば、友人である鈴が自分がいる席の前の席順であるため、最初から自分の席に座っていた。
「鈴のテンションがこれなのはいつも通りじゃない? むしろテンションが低い時の方が珍しいよ」
くすくすと笑いながら、座っている汐里の横に立つボブヘアの少女、澪が汐里にそう言うと「確かにね」と汐里は納得したように頷いて、汐里が使っている机に半ば身を乗り出している鈴を見た。
「鈴がもう少し静かだったら、私の朝はもっと穏やかなんだけどな」
「えー、なにそれ。ひどくないしおりーん」
中学の時からの友人である鈴と澪は、二年生の時から同じクラスとなった。別々のクラスであった一年生の時からももちろん一緒に遊んだりしていたが、同じクラスになってからはこの三人でいることが多くなった。三人が三人とも、部活動には所属していないというのも放課後の予定が合いやすくなっている要因だろう。
「あ、そういえば汐里。もうすぐテストがあるよね。前みたいにまた誰かの家に集まって、勉強会でもする?」
「んー……そうだね、私はそれでもいいよ」
「あ、私もさんせーい。集まるなら今回はしおりんの家が良いと思います!」
ふとした澪の提案に汐里は少しだけ考える風を見せたが、すぐに頷いた。
そこへ鈴が元気よく汐里の家に集まるのを主張したが、汐里はそれにあからさまに顔をしかめてしまう。
「いや……澪を部屋に上げるのは全然問題無いんだけど、鈴は……」
「ええー? 何で? どうして?」
納得いかないと声を上げる鈴に、澪が「ほら……」とその理由を汐里に代わって説明する。
「前に汐里の部屋に遊びに行ったとき、鈴がベッドの上でポテチを散らかした上に踏んづけて、粉々にしちゃったからでしょ。あの時の汐里の顔、今でも思い出せるよ」
その時のことを鈴は「あっ」と短く声を漏らしたと同時に思い出したのか、汐里の机に両手を置いて「ごめんなさい」と頭を下げた。その様子を見ていた汐里は椅子の位置を前に戻して座り直すと、ぺし、と鈴の頭を軽く叩いた。あいた、と鈴は声を出す。
「反省したなら、来ても良し」
「さっすがしおりん! 大丈夫大丈夫、次はじゃがりこにするから食べやすいし、零さないよ!」
「……ねえやっぱり、澪の家に集まらない?」
「いや私の家、猫二匹飼ってるから……」
ぱっと頭を上げ、別のベクトルに反省点を持って行ってしまった鈴に汐里は「反省してねーなこいつ」と思わず零してしまい、それがまた澪の笑いを誘ってしまった。
そんな他愛のない、いつもの日常の会話をしている内にチャイムが鳴り、SHRの開始を告げると、教室に担任の教師が入ってくる。教室内に散らばっていた生徒や、他のクラスに行っていた生徒が慌てて戻ってきてそれぞれの席に座る、いつもの光景。
そんな中、SHRが始まると汐里は(一限目は現国か……移動教室よりは全然マシかな)と窓際の席の特権である、外の風景を見ながら物思いに興じるというのを行使したのだった。
「高畑さん、これ。本当は昨日書いてもらうつもりだったんだけど、別のところでプリント止まっちゃってさ」
昼食を食べ終えた昼休み中、汐里の席の周りに鈴と澪がいる中、一人の男子がプリントを汐里に渡しにやってきた。身長は180近い。短髪で、健康的な爽やかな少年というのが彼に対する大体の第一印象だろう。
「文化祭の出し物をどうするかだっけ? まあ、もう喫茶店で決まっちゃいそうなもんだけど」
手渡されたプリントを受け取ると、「ありがと」と汐里は彼に言って、そこに書かれている内容に目を通す。それを前の席に座っている鈴が、体を反転させて汐里の方に向き直ると、汐里と一緒にそれを覗き込んだ。
「ふむふむ……あー、しおりんの言うとおりこれもう喫茶店で決定じゃん。なーんかつまんないね。何とかならないのかね、壮真君」
「俺に言われてもなあ。つーかこれ多数決で決めてるからさ。クラスの皆の意見だし」
「壮真君に言ってもしょうがないでしょ、鈴。それに下手にお化け屋敷とか遊園地もどきなんてやったら、大失敗するのが目に見えてるじゃない」
「そう言うのも含めて文化祭なんじゃないのかね、みおりん」
自分の机の周りにいる三人の会話を聞きながら、汐里はプリントのチェック欄にボールペンで〇をつける。プリントの内容は文化祭でのクラスの出し物を何にするかというものなのだが、鈴が言った通りにいくつかある候補の中で、クラスの生徒の殆どが喫茶店に投票していた。それに習って、汐里も喫茶店に投票をした。澪の言うとおりに下手に大冒険をして、その結果が大爆死……というよりは、間違いのない喫茶店で行くのが確実だろう。
「ん。学級委員も大変だね、壮真君」
プリントを壮真に戻した汐里は、彼を見上げながら労う言葉をかけた。汐里からすればなんとなしに口にしたものであるが、彼にとってはそうではなかったのか、「いやまあ、このぐらいはさ」と何だか歯切れ悪く言うと、そのプリントを手にして男子のグループが雑談をしているところに戻っていった。そこからは「おめーらも早く書けよ、今日中に出すんだから」と、会話が聞こえてくる。
「……壮真君って、結構分かりやすいよね」
「ありゃ。みおりんも気づいてる?」
その様子を横目に、思わずという感じに呟いた澪に対して、鈴もそれに同意するようなことをこそこそと漏らした。そして二人はちらりと汐里に視線を向ける。
器用にボールペンを指先でくるくると回している汐里は二人の視線に気づくと、ボールペンをぱしっ、と人差し指と中指の間に綺麗に戻してから、
「……え? まさか澪と鈴、喫茶店以外に入れたの? さすがに冒険しすぎじゃない?」
と二人を心配するように言って、首を傾げた。その様子を見た澪と鈴の二人は、うーん、と溜息をつく。それは残念がっているようにも見える仕草だった。
「まあ汐里は、中学の時からこういうとこあるよね」
「四人……あれ、五人だっけ? 今までしおりんに挑んで玉砕した男の子。骨は拾えなかったよ……」
「いや、二人とも何の話してんの?」
鈴と澪、二人の会話の内容を汐里は分かっていないのか、頭に疑問符を浮かべたような口調で聞いてしまう。中学時代からの友人である二人は、汐里のこういったところを今まで何度も目撃してきた。その結果、鈴が呟いた通りの結果が生まれてきてしまっているのだが。
その後は上手いことはぐらかされてしまい、汐里は納得のいかないまま午後の授業を迎えることとなった。
本来ならば今日、汐里の部屋に集まり勉強会を開くはずだったのだが、下校時間になったところで鈴の母親が熱を出してしまったと連絡が入り、その関係で家事やら買い物を鈴がしなくてはならなくなったために、勉強会は後日に回されることとなった。鈴は「ごめんね!」と汐里と澪に謝った後、早々に帰ってしまったので、学校に長居することなく、下校をした。
汐里が降りるひとつ前の駅で澪は下車してしまうので、汐里が駅から出てきたときには一人になっていた。そこから自宅まで、特に急ぐことも無いのでのんびりと歩いていく。
(鈴のお母さん、大丈夫かな……後で鈴に連絡してみようかな。気にしてたみたいだし)
汐里は自分と澪に本当に申し訳なさそうに謝っていた鈴のことを気にかけた。賑やかすぎるところもあるが、鈴のまっすぐな性格が汐里は好きだった。それはきっと澪もだろう。
そんな風に考え事をしながら歩いていた汐里は、ぴた、と足を止めた。横を向く彼女の視線の先には、昨日何となく立ち寄った公園がある。昨日もそうだったのだが、今日もここに立ち寄る用事などはない。ここの公園の中を通ったからと言って、近道になるようなこともなかった。むしろ遠回りになる。
だからそのまままっすぐ自宅に向かえばいいのだが、その場で少しばかり立ち止まっていた汐里は、視線の方へ足を運ぶと、公園内へと入っていった。
ここの公園は広さ自体はあるのだが、遊具が撤去されているために今は遊ぶための場所というよりは、散歩のための場所になっているようだ。しかしながら公園内を歩く人影はおらず、制服の上着のポケットに両手を入れたまま歩く汐里しかいない。
ゲームだったら何かしらのイベントが発生するのかも知れないが、
(……ま、そんなことあるわけないし。昨日のはたまたまだよね)
と汐里は先日、ここの公園で出会った男性……サエジマのことを思い出した。ここに来るまで今日一度も思い出すことはなかった。そんな程度の出会いだ。
ふと、汐里は昨日自分が座っていたベンチを見つける。そしてそのベンチの少し前には自販機が設置されており、どうやら誰かが利用しているようだ。
利用者の姿は男性で、黒いスーツ姿で、缶コーヒーを購入していて……。
「「あ」」
自販機からベンチの方へと振り返った男、サエジマとその顔を目にした汐里が発した言葉とタイミングは、まったく同じだった。缶コーヒーの蓋を開け一口飲んでから、サエジマは彼女に向けて軽く右手を上げる。
「……どうも」
挨拶をされたのだから無視するわけにもいかず、そして無視をする理由も無いので汐里はぺこり、と会釈をしてサエジマに挨拶を返す。二日続けて、同じような時間に同じような会い方をすることになるとは思っておらず、汐里は正直驚いていた。
「や。汐里ちゃん……だったよね。今日も公園で休憩?」
「学校帰りに立ち寄っただけです。家、この辺なんで」と汐里はそこで首を傾げて、「サエジマさん……は、今日も公園でサボりですか?」
と続けた。それを聞いたサエジマは「うーん辛辣だな」と苦笑交じりに呟くと、ベンチに向かって歩いていく。
「サボりと言えばそうだし、休憩中と言えばそうなるし……一息ついている最中ってことで」
「モノは言いようですね」
ベンチに腰掛け、缶コーヒーを口に含むサエジマに対し、汐里はそう返す。サエジマは汐里のドライな言葉に浮かべた苦笑をそのままにしていた。
夕方の公園のひと時。昨日知り合った……とも言えない、サエジマという名しか知らない男性との会話。別に長引かせる意味もないし、付き合う必要もない。「失礼します」と一言告げて、ここから立ち去ることもできる。
だが汐里はどうしてか、それをせずに昨日と同じようにサエジマが座っているベンチの隣のベンチに腰掛けた。
立ったままでは疲れるから。汐里の中でベンチに座った理由はそんなものだ。
(……そうだよね。それしかないじゃん)
と、汐里は履いている革靴を見ながら、そう考える。隣のベンチに座るサエジマは昨日と同じように缶コーヒーを飲み、ふっと一息ついていた。
そんなサエジマの様子を見て、汐里はぽつりと言葉を漏らす。
「昨日よりは元気そうですね」
「ん? ああ、確かに昨日よりは疲れていないかな。昼飯もちゃんと食べたし」
「昨日は食べていなかったんですか?」
呆れたように言うと左手を上着のポケットから出した汐里は、脚を組んでその膝の上に左腕の肘をつき、頬杖をつく格好を取った。制服のスカートを穿いているがサエジマの方からは見えないし、他に通行人もいないから構わないだろうと汐里は考えていた。
「あー、ちょっと時間が無くてね……昨日、汐里ちゃんと会ったときは腹ペコだったんだよ」
「それで缶コーヒーで栄養補給ですか? 足しにもならなそうですけど」
と汐里がサエジマを横目に見ながら言ったところで、ふと、汐里は疑問に思った。その疑問は言葉となり、するりと口から零れ落ちる。
「サエジマさんって、この辺りの人じゃないですよね」
「へえ。どうしてそう思うの?」
「この辺りに住んでいたら、わざわざ休憩にここの公園に来たりしないでしょ。私だって、昨日この公園に来たのは数年振りだし」
と汐里は、不思議そうに聞いてきたサエジマにそう答えた。小学生の時以来来なかった近所の公園で、こんな良く分からない出会いがあるとも思わなかったが。それは日常の中の非日常、と考えてもいいのだろうか。
サエジマは缶コーヒーをベンチの上にそっと置くと、「お見事」と汐里に対し、ぱちぱちとささやかな拍手を送った。それが何だか子供をあやしているように思えてしまい、汐里は少し恥ずかしくなり、それを隠すために「どーも」と気のない返事をしてしまう。
その様子を見てサエジマはくすりと小さく笑い、
「雪が降るし、海が見える街。元々はそんなところに住んでいるんだ」
と汐里にその小さな笑みをそのままに言った。もちろんそれだけではサエジマの出身がどこだか分かるはずもなく、汐里は「それ答えになっていないでしょ」と思わず口に出してしまう。だがサエジマが恐らく仕事の関係で、地元からここにやってきたのは間違いないだろう。
「まだそんなに経っていないんだけどね、こっちに来てから。だからここの公園に来てるのは、思いもよらない休憩場所を見つけたからかな。駅前のカフェとかだと、どうにも人目につくし」
とサエジマはそこまで言ったところで、飲みかけの缶コーヒーを手にベンチから立ち上がる。脚を組み、頬杖を突いたままの格好の汐里はサエジマを見上げる形となった。
「ちょくちょくここの公園に来るとは思うからさ、多分この時間に。また会ったら、今度はジュースぐらいは奢るよ」
自販機を指差すサエジマ。汐里はその自販機とサエジマを交互に見てから、
「ジュース一本で女子高生と話せるんですから、相当お得ですね」
と肩をすくめた。その返しを聞いたサエジマは、思わず声に出してしまうぐらいおかしかったのか楽しそうに笑う。そしてその笑いが収まると、「確かにね」と頷いた。
「でも汐里ちゃんは、ジュース一本で話してくれるんだから、相当人が良い子だな。そうだろ?」
「……知らないですよ、そんなの」
サエジマの、どこか屈託のない言葉に汐里はそう呟いた。そして思わず、サエジマからふい、と視線を外してしまう。その仕草をしてから、なんだか自分が照れてしまったみたいに見えるんじゃないかと思い、汐里は本当に照れくさくなってきてしまった。
サエジマはそんな汐里に気づいているのか、どうかは分からないが、さっき会った時と同じように手を軽く上げてから歩き出し、公園から去っていく。
昨日と同じようにサエジマの後姿を眺めながら頬杖をついていた手を崩すと、両手をベンチにつきながら、汐里は空を見上げた。それはある事実に気づいたからだ。
(……饒舌になってるの、間違いなく私じゃん)
父親や教師を除けば、年上の男性と話す機会は殆どない。同年代の男子たちと話しても、今みたいに相手を皮肉ったりすることも無いはずなのにと、汐里はサエジマとの会話内容を思い出して、夕暮れの中、それに気づいた。
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