その想いの名前は

「――真那、夕食ができましたよ。そろそろ出てきてください」


 真那の部屋の前に立つ真澄は、部屋の向こうに声をかけたが返事はない。


 だが室内にいないわけではない。時折すすり泣くのが聞こえるので、答えるだけの余裕がないのだろう。


「……夕食はテーブルの上に置いておきますから、お腹が空いたら食べてくださいね」


 それだけ言い残して、真澄はその場を離れた。


 普段なら何があろうと無理矢理にでも部屋から引っ張り出すが、今日はそこまでする気になれなかった。


 というのも、今真那が部屋に引きこもっているのは陽翔の誕生日会が延期になったことが起因している。


 一週間ほど前に陽翔の口から誕生日会の延期が告げられてから、真那は連日こんな調子だ。


 学校にこそ行ってはいるが、帰ってきたら基本的に自室に籠もってしまう。真澄はもちろん、陽翔の前にも最低限しか姿を現さない。


(本当は無理にでも部屋から出すべきなんでしょうが……)


 あれだけ楽しみにしていたのだから、ショックも相当のものだっただろう。真澄も気持ちが分かるだけに、あまり強く言えない。


 今の真澄にできるのは、精々真那に根気よく付き合ってあげることだけ。


 陽翔は自分のせいだと酷く罪悪感抱いていたので、真那にはできるだけ早く立ち直ってほしいところだ。


(陽翔君は今頃、ご家族と楽しく過ごしているのでしょうか?)


 もしそうだったのならいいなと、この場にいない彼の幸福を願う。真澄が二度と手にすることのできない幸せを、陽翔には享受してほしい。


 それが真澄の偽らざる想いだった。


 陽翔のことを考えていると、不意にインターホンの軽快な音が鳴る。


「……こんな時間に誰でしょうか?」


 すでに時刻は七時を過ぎた頃。比較的日の出ている時間が長い時期とはいえ、外はすっかり暗くなっている。


 こんな時間帯に訪ねてくる人間など陽翔くらいのものだが、彼は今日ここには来ないはずだから彼ではない。


 誰が訪ねてきたのかと首を傾げつつも、玄関に足を運ぶ。


 そしてドアを開けた先に立っていたのは――。






 ――とにかく早く彼女の元へ行きたかった。


 だから駅を出てからは休む暇どころか呼吸を整える余裕もなく、ただただ走り続けた。


 身体が限界を訴え悲鳴を上げても、他ならぬ陽翔が休むことを許さず足を酷使する。


 そうしている内に、見慣れた部屋の前に着いていた。


 逸る気持ちを抑えながらインターホンを押すと、そう間を置かずに真澄が出てきてくれた。


「陽翔……君? どうして――」


 この場にいるはずのない陽翔の存在に目を丸くした真澄。けれど、彼女の疑問は最後まで言葉にならずに終わった。


 なぜなら、陽翔が真澄のことを抱き寄せたからだ。腕の中の真澄は突然のことに目を白黒させるが、陽翔は腕を緩めることはない。


「は、陽翔君……!?」


 顔を熟れた果実のように赤くして動揺しつつも、真澄は視線で一連の行動の意図を問うてくる。


 けれど今の陽翔は、真澄以上に余裕がなかった。


 激しく脈打つ心臓がうるさい。周囲の音が心音に塗り潰されて、自分と真澄以外のことは何も考えられなくなる。


 こんなにも心臓がうるさいのは、先程まで走っていたからなのか、それとも別な理由なのか。今の陽翔には、それすらも分からない。


 そもそも、どうしていきなり真澄に抱きついてしまったのか。真澄を見た瞬間、衝動的にやってしまったなんて言い訳にもならない。


 グルグルと、様々な考えが浮かんでは消えてを繰り返す。そんな陽翔を現実に引き戻したのは、腕の中の真澄だった。


「あ、あの、陽翔君はどうしてここにいるんですか? 実家に帰っていたはずじゃ――」


 当然の質問だ。本来なら腕から開放して、答えるべきだ。送り出してくれた真澄には問う権利があるし、陽翔には答える義務がある。


 けれど陽翔の口をついて出たのは、真澄の疑問に対する答えではなかった。


「……真澄、この前言ってたよな? 誕生日くらいは、大切な人といるべきだって」


「え……? はい、確かに言いましたけど……」


「だから俺はここに来たんだ。俺にとって……」


 その先を言えば、きっとこれまでの関係ではいられない。理性の部分がそう警告するように、陽翔が口を閉ざす。


 けれど、それはほんの一瞬のこと。一つの衝動に突き動かされるように、陽翔の口が想いを言葉に変える。


「――俺にとって大切なのはお前だ、真澄」


 言ってしまった。衝動に――生まれて初めて芽生えた想いに従って、胸の内にあるものを告げてしまった。


 腕の中の真澄が、身体を震わせたのを感じる。けれど今の陽翔には、彼女がどんな顔をしているのか確かめる勇気も余裕もない。


 生まれて初めて覚えた、身を焦がすような、けれど心地良さを伴った想い。その想いの名前は――。

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公園で泣いている女の子を助けたら、姉が学校一の美少女でした エミヤ @emiya

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