行ってきます

「葵さん、どうして誕生日会のことを……」


「ごめんなさい、陽翔君。実はこの間電話した時、途切れ途切れだけど黒川さんとの会話が聞こえていたの」


 再び陽翔は瞠目する。


 確かにあの時、陽翔はスマホを通話状態のままにして真澄と会話をしていた。まさか聞かれていたとは、思いも寄らなかったが。


「黒川さんが陽翔君のために誕生日会の準備をしているって知っていたのに、知らないフリをして私のワガママで黒川さんには申し訳ないことをしてしまったわ」


 余程の罪悪感を抱いていたのだろう。沈痛な面持ちで、葵は語る。


「そんな風に言わないでください、葵さん。ここに来ると決めたのは俺です、葵さんが悪いわけじゃありません」


 どんな理由があろうと、葵を選んだのは陽翔だ。これだけは、誰にも否定できないしさせるつもりもない。


 何より陽翔は、葵を悲しませたくてここに来たわけではない。だから、そんな風に自分を責めないでほしい。


「ありがとう陽翔君。でもやっぱり、私は悪い大人だわ。だって、黒川さんに悪いことをした自覚があるのに、こうして陽翔君と一緒にいられることが嬉しいって感じているんだもの」


 葵は「ダメね、私ってば」と自嘲気味に笑う。


「今日は帰ってきてくれてありがとう、陽翔君。私はもう十分だから、黒川さんのところに行ってあげて?」


「それは……」


 葵の発言が真澄、そして陽翔のためであることは分かる。彼女は陽翔と真澄のために、身を引こうとしているのだ。


 それを分かっているからこそ、頷くことは躊躇われる。また葵を悲しませるのではないかと、不安が陽翔の決断を鈍らせる。


「もう、陽翔君は本当に優しいのね。まだ私のことを考えてくれるなんて」


「……俺は優しくなんてありませんよ」


 本当に優しいのなら、目の前の葵に胸を痛めるような想いをさせなかった。真那の期待を裏切るようなことはしなかった。


 そして何より、真澄に辛い決断をさせることもなかったはずだ。


 けれど葵はそれでも、頭を振った。


「そんなことはないわ。私のためにそこまで悩んでくれた陽翔君が優しくないなんて、誰にも言わせないわ。もちろん、陽翔君自身にも」


「……それを言うなら、葵さんだって悪い大人じゃないですよ」


 本当に悪い大人なら、もっと自分本位になっているはずだ。少なくとも、こんな風に陽翔に気を遣ったりはしない。


「まだそんな風に思ってくれるのね……でも、今その優しさを向ける相手は私じゃないでしょう?」


 慈しみだけを宿した瞳が、陽翔の姿を視界に収める。


「確か黒川さんも言っていたわよね? 誕生日は大事な人と過ごすべきだって。今の陽翔君にとって大事な人は誰なのかしら?」


「…………ッ!」


 そう問われた瞬間、反射的に陽翔の脳裏をよぎったのは少し親しいだけの隣人でしかないはずの少女。


 彼女の姿を真っ先に思い浮かべたことに、不思議と戸惑いはなかった。むしろそれを当然のことと受け入れている自分がいる。


「……葵さん、俺、行きます。その……今日はすいませんでした」


 まずは謝罪をし、「それから」と話を続ける。


「ありがとうございました。おかげで、大切なことに気が付けました」


「どういたしまして。陽翔君の力になれたのなら、何よりだわ」


 変わらず笑顔のまま応じる葵に軽く頭を下げて背を向けた陽翔だったが、ふと玄関へと向かっていた足を止めて振り返る。


 まだ一つだけ、言い残していたことがあった。


「あの、葵さん……行ってきます」


「…………!」


 葵は大きく目を見開く。


「――ええ、行ってらっしゃい」


 けれどそれは僅かな間のことで、次の瞬間には破顔して陽翔を見送った。






 ――陽翔が家を出てから数分後。玄関には、二人の人物が立っていた。


「おかえりなさい、達也たつやさん」


「ああ、ただいま」


 にこやかな葵とは対照的に、無愛想に応じる男性。彼の名前は戸倉達也、葵の夫であり陽翔の父親だ。


 達也は満面の笑みと共に玄関で出迎えてくれた葵を見つめ、ゆっくりと口を動かした。


「……何かあったのか?」


「え? どうしてそう思うんですか?」


「君がいつもより機嫌が良さそうだったから、何かいいことでもあったのかと思ってな」


「ふふふ、正解です。実はさっきまで、陽翔君がここにいたんですよ」


「ああ、知っている。さっきすれ違った。何やら急いでいたようで、私には気が付かなかったが。それが君の機嫌がいい理由か?」


「もちろんそれもありますけど、陽翔君、家を出る前に『行ってきます』って言ってくれたんです。それがとても嬉しくて……」


 それは一見すると、ただの言葉でしかない。けれど、葵にとっては次を期待させてくれる言葉だった。


「あら、達也さん。その手に持っているものは……」


 葵の視線が、ふと達也の手で止まる。


 ビジネスカバンを持っている方とは逆の手。そこに、見慣れない紙袋が握られていた。


 それが何なのかは、紙袋の口から僅かに見え隠れしているラッピングの施された箱で検討がついた。


「ふふふ、いつもより帰ってくるのが遅かったのは、それが理由ですか」


「……今時の子供の好むものというのが、よく分からなくてな。随分と悩まされた」


 笑みを浮かべる葵から、達也は逃げるように視線を逸らした。


 そんな彼の珍しい反応に、葵は更に笑みを深める。


「でも残念ですね。もう少し早く戻ってきていれば、そのプレゼントも直接渡せたでしょうに」


「構わないさ。あいつも、私とは顔を合わせたくはないはずだ。これは、君から渡しておいてくれ」


 達也はそれだけ言い残すと、紙袋を葵に預けて自室のある二階へと上がって行ってしまった。


「もう、自分で渡せばいいのに……」


 素直ではない達也に呆れながらも、彼らしいと考えて再び笑みが漏れる。


「陽翔君、次はいつ帰ってくるのかしら?」


 遠くない内に来るだろ次を期待しながら、葵は達也のプレゼント片手に台所へ戻って行くのだった。

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