久々の実家

 義母である葵からの電話から約一週間後。今日は陽翔の誕生日当日だ。


 時刻は午後三時頃。丁度、陽翔は身支度を整えて部屋を出るところだった。


 部屋の鍵を閉めようとしたところで、何となく視線を隣の黒川家のドアに向ける。ついで脳裏に浮かぶのは、先週の真那のことだった。


 真澄から諭され、誕生日当日は葵の元へ行くことを決めた陽翔だったが、当然の如く真那が猛反対した。


 あれだけ一生懸命準備をしていたのに、延期になってしまったのだから当然の反応だ。


 真澄が何とか宥めようとしたが、聞く耳など一切持たず疲れて寝てしまうまで泣き喚き、その後は今日まで拗ねて口も利いてくれなくなってしまった。


 真澄はそのことを謝罪していたが、悪いのは陽翔なので、悲しくはあるが責める気にはなれなかった。


「……ごめんな」


 届かないと知りながら謝罪だけを残し、陽翔はその場を後にした。






「あら陽翔君、早いのね」


「遅れるよりはいいかと思って早めに来たんですけど……迷惑でしたか?」


「そんなことはないわ。今日は来てくれてありがとう、陽翔君」


 徒歩と電車で数駅の距離を移動して、久方ぶりに実家へ戻ってきた陽翔を出迎えたのは、エプロンを身に着けた葵だった。


「外で立ち話もなんだから、早く中に入りましょう」


「あ、はい。……お邪魔します」


 中に入るよう促されて、挨拶をしながら家の中に足を踏み入れる。


 そんな陽翔を見て、葵は浮かない顔をしていた。


「ここは陽翔君の家でもあるんだから、そんな他人行儀にならなくていいのよ?」


「あ……すいません」


 困ったような顔で指摘され、短く謝罪を零す。


 完全に無意識の行動だった。久々に戻った実家だというのに、どうしてか自分の家なのだという実感が持てなかった。そのせいで、自然と言葉にしてしまったのだ。


 軽く家内を見回してみるが、特に大きな変化は見受けられない。それでも僅か一年という時間は、長年暮らしていた家を過去のものに変えるには十分だったようだ。


 少し気マズい空気になりつつも、靴を脱いでリビングまで通される。


 リビングには、陽翔と葵を除けば誰もいなかった。


「ごめんなさいね、陽翔君。実はまだ戻ってないの。今日陽翔君が帰ってくることは伝えているから、時間までにはちゃんと帰ってくるとは思うけど……」


 葵が語るまだ戻らない二人の内一人は、陽翔が今最も顔を合わせたくない人物だ。


 この後嫌でも顔を合わせなければいけないが、それでも今この場においては、いないことに胸中で安堵する。


「さて、それじゃあ私は料理の続きをさせてもらうわね。陽翔君は久々に帰ってきたんだから、料理ができるまでゆっくりしていてね」


 それだけ言い残して、葵はそそくさと台所に消えてしまった。


「…………」


 ゆっくりしてと言われたが、一人では特にやることもない。それに葵一人を働かせて、自分一人で寛ぐというのは、大変居心地が悪い。


「あの、葵さん」


「あら、どうしたの陽翔君?」


 陽翔の呼びかけに料理の手を止め、葵は台所から顔だけを出す。


「あの……もし迷惑じゃなかったらなんですけど、葵さんの手伝いをさせてもらってもいいですか?」


「私は迷惑じゃないけれど……陽翔君はいいの? 別に面白いものでもないわよ?」


「はい、それでもいいです。俺じゃあまり役に立てないかもしれないですけど……」


 目を丸くした葵だが、それも僅かな間のみ。すぐさま表情を綻ばせた。


「そんなことはないわ。手伝ってくれるなら、私はとても助かるもの。そういうことなら手を借りるわね、陽翔君」


 陽翔の申し訳なさからした提案だったが、葵が迷惑だと拒絶せず喜んでくれたことに安堵する。


 陽翔は葵からエプロンを借りてから台所に立つ。といっても、先程自身が言っていた通り大したことはできない。


 できて料理の盛り付けが精々だ。自分から手伝いを申し出ておきながら、ほとんど役立たずで情けない。


「ふふふ、何だかこういうのっていいわね。誰かと一緒に台所に立つのは久しぶりだから、楽しいわ」


 しかし葵はそれでも隣で楽しそうにしている。陽翔と一緒に台所に立っていること自体を喜んでいるようだ。


「ねえ陽翔君、最近はどうかしら? 何か困ったこととかない?」


「ええと……特にはないです」


「そう、それなら良かったわ。この前お邪魔した時も元気そうだったからあまり心配はしていなかったけれど、一人暮らしって大変だから……心配性でごめんなさいね」


「いや、そんなことは……心配してくれてありがたいです」


 これは陽翔の偽りない本音だ。自分の身を案じてくれているのだから、嬉しくないわけがない。


 葵は手際よく料理をしながら、新たな話題を口にする。


「陽翔君は、普段どんなことをしているのかしら? 学校や家でのこと、色々と聞いてみたいわ」


「……面白い話でもないですけど、それでもいいですか?」


「ええ、もちろんよ。陽翔君のお話、聞かせてくれる?」


 面白くないと前置きした上で、それでも葵は陽翔の話を聞かせてほしいと要求した。


 それならと、陽翔は高校生になってからの――特に真澄と知り合ってからの日々を語って聞かせた。


 事前に話していた通りの面白味のない、そして他愛ないただの日常に、それでも葵は終始笑みを浮かべたまま耳を傾けていた。


「そう、色々なことがあったのね。けれど、陽翔君が楽しい高校生活を送れているみたいで安心したわ」


 つまらない話をしないようにと気を遣いながら話していたが、満足はしてくれているようで一安心だ。


「それにしても……ふふふ、陽翔君は黒川さんのことが本当に大切なのね。話を聞いていて、それが伝わってきたわ」


「別に大切な人ってわけじゃ……生活面で色々と世話になってるから、感謝はしてますけど」


「けど黒川さんのことを話している時の陽翔君、とても優しい顔をしていたわよ? あんな顔、余程大事な人じゃないとできないわ」


 ニコニコと満面の笑みで言い切られるものだから、咄嗟に反論の言葉が思い浮かばず押し黙るしかなかった。


 そんな陽翔の反応が面白かったのか、葵の相好は更に崩れる。


「……ねえ、陽翔君。今日は帰ってきてくれて本当にありがとう。しかも一緒に料理までしてくれるなんて、幸せだわ」


「……この程度で料理をしたと言っていいのかは微妙なところですけどね」


 突然の葵の言葉に、陽翔は顔に熱が集まるのを自覚してそっぽを向いた。


「そんなことはないわ。陽翔君のおかげで、料理の時間がいつもより楽しくなったの」


 葵は声を弾ませながら話す。


 こんなに喜んでくれるのなら、もっと前からこうするべきだった。少しでも歩み寄る努力をしていたなら、もっと違った関係を構築できていたかもしれない。そんな今更な後悔が脳裏をよぎる。


「だからね陽翔君、私はもう十分満足したの。私のことはもう、気にしなくていいのよ」


「葵さん? 何を言って――」


「本当は今日、黒川さんと誕生日会を行くはずだったんでしょう? そっちに行ってもいいのよ?」


「…………!」


 陽翔は瞳を大きく見開き、葵の方を振り向いた。

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