義母からのお誘い

 真澄たちの怒りからしばらくして。陽翔はすっかり元の穏やかな食卓を取り戻し、これまでと変わらぬ日々を過ごしていた。


 ……いや、完全に元の日常を取り戻したとは言い難いだろう。


「あれ、真那は今日もいないのか?」


「はい、今日も友達の家に遊びに行っています」


 学校を終えて黒川家を訪問した陽翔は、一人の少女がいないことに即座に気が付いた。


「またか。最近、ずっと友達とばかり遊んでるな」


「そうですね、仲のいい友達がいることは、姉としては安心できます。陽翔君は、真那がいないと寂しいですか?」


「……そんなことはない。友達と仲がいいのは、悪いことじゃないだろ」


 などと強がっているが、実際は陽翔が来たら「陽翔お兄ちゃん!」と満面の笑みで迎えてくれる真那がいないことに僅かな寂寥感を覚えたりしている。もちろんそんな幼稚な感情を表に出すような真似は、決してしないが。


 そんな陽翔の胸中を見透かしたかのように、真澄は口元に微笑を浮かべている。


「大丈夫ですよ、陽翔君。真那が友達の家に遊びに行っているのは、陽翔君のためなんですから。あの子、今度の誕生日会のために飾り付けも頑張って作ってるんですよ?」


「知ってるよ。本人から聞いた」


 そう、ここ数日真那が友達の家に遊びに行ってるのは、今度行う陽翔の誕生日会の準備のためだ。具体的には飾り付けの準備などのことを指す。


 真那は夕食時になると毎日進捗を自慢げに報告してくれるので、真那がどんなことをしているのかは大体把握していた。


「真那、随分と張り切ってくれてるみたいだな……俺の誕生日なんかのために、そこまでしなくていいのに」


「そんな風に言わないでください。あの子はただ、陽翔君に喜んでほしくて頑張っているだけですから」


「……悪い。余計なことを言った」


 真澄の言う通りだ。真那は純粋な善意で一生懸命頑張ってくれているのに、陽翔はそれを蔑ろにする発言をしてしまった。


 真那がこの場にいなかったことに安堵しつつ謝罪する。


「あの子は今、本当に頑張っています。それもこれも、陽翔君の誕生日を最高のものしたいからです。だから誕生日当日は、いっぱい褒めてあげてください。それがあの子にとって、何よりの報酬になりますから」


 そう言って、真澄は笑みを深める。


「真那だけじゃなくて、綾音さんや磯貝君も陽翔君のために準備を進めています。もちろん私も当日は腕によりをかけてご馳走を用意しますから、期待していてください」


「真澄の料理はいつも美味いからな。そこまで言うのなら、期待させてもらうよ」


 誕生日まであと一週間ほど。決して長くはない日数だというのに、不思議と今の陽翔は待ち遠しいと感じていた。真澄や真那の前では平然を装っているが、まだかまだかと当日が楽しみで待ちきれない子供のような心境だ。


(誕生日を祝ってもらうのって、こんな気持ちにさせられるものなんだな……)


 ここまで何かを心待ちにするのは、陽翔にとって生まれて初めての経験。正直、自分でも戸惑っているのが分かった。


 だが、決して悪い気分ではないことは確かだ。


 真澄と二人で誕生日会の話題で盛り上がっていると、不意に陽翔のスマホから着信音がした。


 陽翔は一旦会話をやめてスマホを手に取り――画面に映った名前を見て一瞬、身体を硬直させた。


「陽翔君、電話に出ないんですか?」


「あ、ああ……そうだな。出なくちゃいけないよな」


「…………?」


 普段よりやや固い声音で応じた陽翔に、真澄は首を傾げる。


 だが今の陽翔にそちらを気にする余裕はなく、恐る恐るといった手つきで電話に出た。


「……もしもし」


『こんばんわ、陽翔君。元気にしていたかしら?』


「はい……」


 聞こえてきたのは、最後に話をしてからまだ一か月足らずの義母――葵の声。


 以前彼女の誘いを断ってしまった負い目もあって、声が微かに震えるのを自覚した。


『ごめんなさいね、いきなり連絡なんてして。……今、少し話せるかしら?』


「はい、俺は大丈夫ですけど……」


 真澄の方を一瞥してから、やや固い声で陽翔は答えた。


 葵が陽翔に連絡など、以前の来訪と同じくらいのレベルで珍しい。わざわざ電話をしてきたということは、余程のことなんだろう。


『ありがとう、陽翔君。それでお話なんだけど……陽翔君、来週誕生日だったわよね?』


「そうですけど……俺の誕生日、知ってたんですか」


『もちろんよ。陽翔君が生まれてきてくれた日なんだから、大事なことよ……って、去年も一昨年も何もお祝いをしなかった私が言っても、説得力がないわね』


「いや、そんなことは……」


 原因は陽翔にある。去年もその前も、陽翔の方が葵たちから距離を取っていたのだ。決して葵が悪いわけではない。


 だからそう申し訳なさそうにされるのは、ただただ心苦しかった。いっそのこと、陽翔のことを責め立ててくれた方が気が楽なくらいだ。


 けれどそれを口にしても葵に気を遣わせてしまうだけだと分かっているため、陽翔にできるのは口を閉ざすことだけだった。


『だからそのお詫びというわけではないのだけれど、今年の陽翔君の誕生日は、当日ウチでお祝いをしたいと思っているの。陽翔君、当日は何か予定はあるかしら?』


「…………ッ」


 わざわざ電話をしてきたのは、このためだったようだ。


 葵も真澄たちと同じく、陽翔がどうでもいいと思っていた誕生日を祝おうとしてくれている。陽翔が生まれた日を本人以上に大切に想ってくれている。


 当然、嬉しくないわけがない。戸惑いはあるが、それでも祝おうとしてくれている気持ちだけで、胸がいっぱいになる。


(けれど……)


 陽翔の表情が僅かに強張る。


 葵の言った誕生日当日は、すでに真澄たちとの先約がある。そちらを蔑ろにすることはできない。


 けれど同時に、せっかくの葵の誘いを断ることも躊躇われた。つい最近、旅行の誘いを断った負い目もあって、陽翔の中に迷いが生じる。


『陽翔君? さっきから静かだけれど、どうかしたの?』


「え……あ、いや、大丈夫です。気にしないでください」


 どうやら黙っていることを訝しまれたようだ。胸中を悟られまいと、慌てて誤魔化した。


 これまで陽翔は、父親とのわだかまりから葵のことは避けてきた。つまらない意地を張って、逃げ続けてきた。


 本来なら嫌われてもおかしくない。なのに、葵は陽翔に家族として接してくれている。そのことを感謝すると同時に、何も返せずにいることを申し訳ないと思っていた。


(本当にどうしようもないな、俺は……)


 葵に何一つ返すことができず、今から再び彼女の想いを無碍にする自分がどうしようもないほど嫌になる。


 きっと葵は怒りはしない。ただ仕方のないことだと、引き下がってくれるだろう。これなら、いっそ罵ってくれれた方がいくらかマシだ。


「――陽翔君」


 ふと真澄が名前を呼び、電話中にも関わらず陽翔はスマホを耳元から話してそちらを振り向く。


 いったい何なのかと用件を問う前に、真澄は話を先に進める。


「行ってあげてください、陽翔君」


「……真澄? お前何を言って――」


「盗み聞きをする形になってしまいましたが、話は大体分かっているつもりです」


 真澄のすぐ近くで電話をしていたのだ。聞こえていたこと自体は、別に問題はない。問題なのは真澄の今の発言。


「陽翔君、今誕生日のお誘いを断ろうとしましたよね。それで本当にいいんですか?」


「……仕方ないだろ。先約があるんだから」


「やっぱり私たちのためなんですね」


 真澄は微笑む。ただ、それが多少の困ったように見えたのは、きっと陽翔の目の錯覚ではないだろう。


「ありがとうございます、私たちのことを優先してくれて。本当に凄く嬉しいです。……ですが陽翔君は、ご家族の誕生日会に参加するべきです。私たちよりも、ご家族を優先してあげてください」


「どうしてそんなこと言うんだよ。みんな誕生日会のために準備をしてくれてるって、さっき言ってただろ」


 陽翔の誕生日を祝おうと、綾音、大地、真那、真澄の四人が頑張ってくれていることを陽翔は知っている。


 だからこそ、家族の方を優先するよう促してくる真澄のことが、陽翔には信じられなかった。


「それに何より……真那が悲しむだろ。今日だって一生懸命、誕生日会のための準備をしてくれてるんだろ? それを今更中止になんて……」


「別に中止になるわけじゃありません。ただ延期するだけです。真那だって、きっと分かってくれるはずです」


「だとしても――」


 まだ抗弁の姿勢を見せる陽翔。陽翔を想っての発言であることは重々承知だが、それでも素直に受け入れるわけにはいかない。


「陽翔君、家族といつまでも一緒に過ごせるなんて保障は、どこにもないんですよ。現実はいつだって理不尽で、大切な人との別れは突然来てしまうものなんです」


「…………ッ」


 それは他ならぬ真澄が口にしたからこそ、その言葉は陽翔に重くのしかかった。


「だからせめて誕生日くらいは家族と――大事な人と過ごしてください。陽翔君には、私と同じような後悔はしてほしくないんです」


 ――真澄があまりにも迷いなく言い切るから、陽翔はそれ以上は何も言えなくなってしまった。

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