新しい関係

 真那の家出騒動から数日後、陽翔はこれまでと変わりない日常を取り戻していた。何の変哲もない、けれど平和ないつも通りの日々。陽翔が望んでいたものだ。


 しかしそんな日常にも、細やかではあるが変化はあった。


「陽翔君、ちょっといいですか?」


「どうした、く――真澄?」


 台所から顔だけを出した真澄にで呼ばれ、胸の奥がざわつくのを感じらながら反応する。


 家出騒動の後から起こった数少ない変化の一つが、陽翔と真澄の互いの呼び方だ。いつまでも苗字で呼ぶ合うのもなんだからと、互いに名前で呼び合うことを真澄の方から提案してきたのだ。


 どういう心境の変化かは知らないが、陽翔には彼女の要望を断る理由はなかったので了承した。ただし学校関係者に聞かれたら有名な真澄は間違いなく面倒になるので、名前で呼ぶのはあくまで家にいる時限定だ。


「夕食ができたので、真那と一緒に食器の準備をお願いしてもいいですか?」


「分かった。行くぞ、真那」


「はーい」


 真那と一緒にソファーから立ち上がり台所へ向かうと、慣れた手つきで食器を準備する。半年も夕食を共にしたおかげで、今では黒川家の食器の位置は大体把握できている。


(陽翔君……か)


 動かす手を止めず、真澄の呼び方を脳裏で反芻する。


 大地や綾音にだって名前で呼ばれているのだから、今更新鮮味なんかはない。だというのに、真澄に名前で呼ばれると言葉にし難いむず痒さを感じてしまう。こんな感覚は初めてのことだ。


 決して不快というわけではないが、上手く言語化できない感覚はもどかしさを覚えずにはいられない。まさか、ただ名前で呼び合うだけでこんな風になるとは思いにも寄らなかった。


「陽翔君? 手が止まっていますが、どうかしましたか?」


「え? あ、いや何でもないから、気にしないでくれ」


 いつの間にか考え事に没頭しすぎていたらしい。食器を手に取ったまま、思考の海に意識が飛んでいた。


 何でもないと答えたが、真澄は納得していないようで訝しむような視線を向けられる。


「そ、そういえば、春休みが終わったら俺たちも二年生だな」


「私たちももう二年生ですか……月日が経つのは早いですね」


 突然の話題の切り替えではあったが、真澄は陽翔の思惑通り、疑問を抱くこともなく話題に乗っかってくれた。


「そうか? 俺は入学したのは随分前のことって感じがするけどな。真澄は違うのか?」


「私にとってはあっという間でしたよ。特に陽翔君と一緒にご飯を食べるようになってからの、この半年間は」


 真澄は柔らかく瞳を細め、口元には微笑を浮かべる。その表情に憂いや陰の類はなく、穏やかなものだった。


「きっとこの半年間が楽しいことばかりだったから、時が経つのを早く感じてしまうんでしょうね」


「真澄……」


 この一年間は、真澄にとっては辛いことばかりだったはずだ。両親を亡くし、悲しむ暇もなく誰かを頼ることもできず、残された妹をたった一人で育てていく道を選んだ。陽翔には想像すらできないほど、辛い日々だったに違いない。


 それでもこの一年を辛いではなく楽しいと言ってくれたことが、なぜか無性に嬉しかった。


「……半年前は、真澄とこんな関係になってるなんて想像もできなかったな」


「私もです。自分の部屋一つまともに掃除できないような生活力がない人が、まさかこんな身近にいるとは思いませんでした」


「悪かったな、生活力が皆無で」


「ふふふ、冗談ですよ。そんなに拗ねないでください」


 口を尖らせる陽翔に、真澄は口元をほんのり緩めながら続ける。


「私、陽翔君と一緒にご飯を食べられるこの時間が好きです。人からすれば大したことではないかもしれませんが、大好きなんです。陽翔君は、どうですか?」


「……ああ、俺も真澄と同じ気持ちだよ」


 僅かな逡巡の後、多少の照れ臭さを感じながらも素直な気持ちを吐露した。


 今こうしていられるきっかけは、偶然に過ぎないものだ。何か一つでも違えば、陽翔はここにいなかっただろう。そんな偶然の産物の関係が、今の陽翔にとっては手放しがたい、かけがえのないものになっていた。


 真澄と真那がいて、温かいご飯を一緒に食べる。ささやかだけれど、確かな幸福を嚙み締められるこの時間が、今の陽翔にはたまらなく愛おしい。


「それは良かったです」


 陽翔の言葉に、真澄は華のような笑みを浮かべた。


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