第二章

悪夢

 ――それはもう、十年も前の話だった。


 場所はとある病院の小さな病室。窓から夕陽が差し込む時間帯。


「お母さん!」


「あら、また来たの?」


 病室内唯一の患者である女性が勢いよく開かれたドアの方を見ると、そこには黒いランドセルを背負った少年が立っていた。


 少年はベッドの上で上半身だけを起こしている母親を見つけると、パっと表情を輝かせて駆け寄る。


「こんにちは、お母さん。身体は大丈夫?」


「ええ、もちろん大丈夫よ。ここ最近は調子がいいわ」


 母親は笑みと共に答えた。顔色もいいようだから、調子がいいというのは嘘ではないのだろう。


「それよりも、あなた友達はちゃんといるの? こうして毎日会いに来てくれるのは嬉しいけど、お母さんあなたが友達と上手くやれているか心配よ?」


「もちろんいるよ。今日だって休み時間にクラスのみんなといっぱい遊んだんだ」


「そう、それなら良かったわ。けど毎日病院まで来るのは大変でしょう? あまり無理はしないでいいのよ?」


「大丈夫だよ。お母さんに会えるんだから、全然辛くないよ」


 嘘ではない。下校ついでで寄るにはこの病院は少し距離があるが、母親に会いたいという強い想いの前では全く苦にならない。


「それよりお母さん、今度学校で運動会があるんだ。僕クラスで一番足が早いから、五十メートル走に出るんだ!」


「そう、陽翔は足が早いのね。凄いわ」


 我がことのように喜んでくれる母親を見て、少年は満面の笑みを浮かべる。


「だからさ、お母さんも僕が走るところ見に来てくれないかな?」


「……ごめんなさいね、陽翔。お母さんもできれば陽翔の走る姿を見てあげたいけど、お医者さんに安静しているように言われてるの。だから……」


「そっか……」


 母親は、少年が物心ついた頃から病院にいることの方が多い人だった。生まれつき身体が弱いらしく、長時間の外出も難しいらしい。


 故に今の言葉も半ば予想できていたことではあったが、それでも少年は落胆の色は隠しきれなかった。


 そんな少年に、母親は先程までよりもやや明るい声音で話す。


「でも安心して。私は無理だけど、代わりにお父さんに見に行けるようお願いしてみるわ」


「…………」


 父親の話をした途端、少年の表情が曇る。


「……お父さんは別に来なくてもいいよ」


「もう、またそんなこと言って。お父さんのこと、そんなに嫌いなの?」


「だってお父さん、一回もお母さんのお見舞いに来ないじゃん……」


「それはお父さんが仕事で忙しいからよ。私がこうして病院にいられるのも、陽翔が何の不自由もなく学校に行けてるのも、お父さんが仕事を頑張ってくれているからなのよ?」


 幼い少年でも、母親の言いたいことは理解できる。できるが、それでも気に入らないものは気に入らないのだ。


「そんなんじゃ、私がいなくなった後が心配だわ」


「いなくなった後なんて言わないでよ、お母さん……」


 少年の顔がクシャリと、今にも泣きそうなものへと歪む。


「そうね……ごめんなさい。今のはお母さんが悪かったわ」


 子供に告げるにはあまりにも残酷な失言を謝罪をしてから、「でも――」と続ける。


「あの人意外と寂しがり屋さんだから、あまり冷たくしないであげてね? ああ見えてとても繊細な人だから、陽翔に冷たくされたら落ち込んじゃうと思うわ」


「…………」


 言いながら落ち込んだ父親でも思い出したのか、母親はクスクスと口元に手を当てて笑う。今日一番の笑顔だ。


 少年は無意識の内に拳を強く握り、歯を食いしばった。なぜ、母親は毎日お見舞いに来ている自分よりも、入院してから一度も顔を見せない父親のことを話すときの方が楽しそうにしているのだろうか。


(僕の方が絶対にお母さんのことを大事に思ってるのに……)


 自分よりも愛されている父親に、嫉妬混じりの怒りを覚える。幼稚な感情ではあるが、子供に自制なんてできるわけもない。


 それからしばらくして、母親は亡くなった。静かに、眠るようにして息を引き取ったのだ。


 結局父親は母親が亡くなるまで、一度も彼女の元を訪れることがなかった。母親の想いを踏みにじるような行い、当然少年は許せるはずもなく父親に憎しみにも似た想いを抱くようになった。






「クソ……」


 耳朶を打つ目覚ましの音で夢から覚めた陽翔の第一声は、毒吐きだった。これだけで、彼の目覚めがどんなものだったかは一目瞭然だ。


 久々に見た悪夢に苛立ちが募る。今までにも何度か見たことがあるが、いつまで経っても慣れることはない。


「何で新学期初日にこんな夢を見るんだよ……」


 何か不吉なことの前触れではないのかと、ガリガリと頭を掻きながら不安を覚える陽翔だった。

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