教え上手

「……面倒なことに巻き込んで悪いな、黒川」


「どうして謝るんですか? 私、戸倉君に謝ってもらうような心当たりはありませんよ」


「綾音に無理矢理勉強会に参加させられただろ」


 ベランダで遭遇した際、綾音は真澄も勉強会に参加しないかと誘った。真澄は最初、三人の邪魔をしてはいけないと断ったが最終的に綾音の熱意に負けて頷き、現在は陽翔の部屋に四人でいる。


 陽翔が勉強を見ることになったから真澄を誘うのは諦めたと思っていたので、意表を突かれた形だ。本来なら陽翔が止めに入るべきだった。


 真澄は学年トップの成績を持つ優等生だ。綾音と違って、わざわざこんな勉強会に参加する必要もないはずだ。つまりこの勉強会は、綾音にとって無駄以外の何物でもない。


「私の意思で決めたんですから、無理矢理ではありませんよ。それに元々、この後も勉強は続けるつもりでしたから気にする必要はありません。ただ少し場所が変わっただけです」


「……多分綾音は、分からないところは黒川に訊いてくるぞ。かなり質問してくるだろうから、自分の勉強をする暇がないなんてこともあり得る。それでもいいのか?」


「はい。自分の勉強もいいですが、人に教えることでより深く理解できるようにもなるとも言いますから」


 流石は優等生。人に教えることすらも自分の糧にする姿勢は、賞賛するしかない。きっと彼女が学年トップの成績を維持し続けているのは、こういうところなんだろう。


 どこかの誰かにも見習ってほしいと思いつつ、視線をリビングのソファーに向ける。そこには綾音と大地、それに真那の三人が座っていた。


 この場に真那がいるのは、一人で留守番をさせるのが心配だったから……というのは建前で、実際は綾音と大地が真那と話をしたかっただけだ。


「真那ちゃんって小さくて可愛いね。今いくつなのかな?」


「ええと、六――七歳だよ」


「そっか、じゃあ今は小学一年生なんだ。学校は楽しい?」


「うん、楽しいよ! 友達のみんなと毎日授業するの、私大好きなんだ。綾音お姉ちゃんは、勉強は好きなの?」


「わ、私? 私も勉強は……スキダヨ?」


「綾音、目が泳いでるぞ」


 大地が指摘すると、綾音は「うぐ……ッ」と唸る。綾音は思わず目が泳いでしまうほど、勉強が嫌いのようだ。


 真澄と言葉を交わしている間に、三人は随分と打ち解けていた。特に真那はかなり綾音に懐いている。いつの間にやら『綾音お姉ちゃん』なんて呼んでいるのがいい証拠だ。


 三人で談笑する様子は、見ていて微笑ましさを覚える。仲がいいのは、大変結構なことだ。


 しかし陽翔が三人に向けるのは、険しい表情だった。


「おい綾音、大地。お前ら今日自分が何しに来たのか、忘れてないよな?」


 念のため、二人に訊ねてみる。大地は「覚えてるから、そんな怖い顔するなよ」と素直に勉強を再開する姿勢を見せたが、綾音は口角を吊り上げながら、口を開いた。


「もちろんだよ、陽翔。そんな大事なこと、私が忘れるわけないでしょ? 私たちが今日陽翔の部屋に来た理由、それは……」


「それは?」


「真那ちゃんと仲良くなること!」


「勉強するためだろうが、バカ」


 案の定、綾音は今日陽翔の元に訪れた目的をすっかり忘れていた。勉強会の言い出しっぺでありながらここまで綺麗に忘れていると、いっそ清々しさすら覚えてしまう。


「えー、勉強? 試験までまだ時間あるし、今日はもう良くない?」


「いいわけないだろ、バカ。そうやって油断してると、期末でいい点取れないどころか、赤点を取るハメになるぞ」


「うぐ……ッ」


 実際にあり得そうな未来だと思ったのか、綾音の表情が曇る。


「それが嫌ならさっさとこっち来い、さっきの続きをするぞ。言いだしっぺはお前なんだ、やる気を見せろ」


「ううう、でも……ほ、ほら、私真那ちゃんともっとお喋りしたいし……」


 往生際の悪い綾音は、逃げるように真那へ視線をやる。


「それに真那ちゃんだって、私とお喋りしたいよね?」


「綾音、お前な……」


「綾音、流石にそれは俺もどうかと思うぞ」


 真那を勉強をしないためのダシにしようとする綾音に、男二人は揃って呆れた視線を送る。ここまで勉強を嫌がるのは、ある意味凄いかもしれない。


「ダメだよ、綾音お姉ちゃん。ちゃんと勉強はしないと」


「え……」


「それに綾音お姉ちゃん、さっき勉強好きって言ってたよね? それなら、勉強するのも嫌じゃないよね?」


「ええと、それは……」


 綾音が面白いくらい狼狽える。まさか真那に勉強するよう諭されるとは思わなかったんだろう。


「前にお姉ちゃんが言ってたよ。勉強はちゃんとしておかないと、将来苦労することになるのは自分だって。だから勉強はやらないとダメだよ」


「そ、そうだね。ちゃんと勉強はしないとね……」


 ぐうの音も出ないほどの正論に何一つ反論できず、綾音は真那の言葉に同意した。心なしか、表情も暗い。


 しかしそんな綾音とは対照的に、真那は無邪気に笑った。


「勉強頑張ってね、綾音お姉ちゃん」


「……うん、お姉ちゃん頑張るね」


 真那のエール。先程までなら元気良くしていた返事も、今ばかりは弱々しい。


 ところで、自分の半分の年齢も達していない女の子に諭されるのは、いったいどんな気分なんだろうか。


 項垂れる綾音を見ながら、陽翔はそんなことを思うのだった。






 ――それから数時間後。真澄も交えた四人での勉強会は、大きな問題もなく順調に進んでいた。


「あれ、もうこんなに時間経ってたんだ」


 外はすっかり暗くなっており、月が顔を出している。時計を見れば、時刻は午後七時時前。もう夜と言っても、差し障りのない時間だ。


「私、こんなに長時間集中して勉強したの初めてかも。これも全部、黒川さんのおかげだね! ありがとう、黒川さん」


「いえ、私は大したことはしていません。頑張ったのは、天道さんですよ」


 真澄らしい謙虚な発言。しかし綾音はそれを否定するように、首を横に振る。


「そんなことないよ。黒川さん、私が分からないところを訊いたら、全部丁寧に教えてくれたじゃん。あれのおかげで、難しい問題も理解できたよ」


「確かに今日の綾音は黒川さんに分からないところを丁寧に教えてもらったから、いつになく勉強に集中してたよな」


 うんうんと、大地も同意するように頷いた。


 実際、今日の綾音はちょっと前まで勉強したくないと喚いていたのが嘘のような集中力を発揮していた。これもひとえに、真澄が親身になって綾音の勉強を見たおかげだろう。


「教え方は陽翔よりも全然分かりやすかったし、黒川さんって人に教えたりするの得意なの?」


「得意というわけではありませんが……真那に勉強を教えることはよくありますから、それで慣れているのかもしれません」


「へえ、そうなんだ。だからあんなに分かりやすかったんだね。黒川さん、勉強ができるだけじゃなくて教えるのも上手なんて凄いね」


 にっこりと笑いながら放たれた、裏表のない純粋な称賛の言葉。


 一瞬目を丸くした後、真澄の頬にほんのりと赤みが差し込む。


「……力になれたのなら、何よりです」


「うん、黒川さんのおかげで今度の期末はいい点数が取れそうだよ。今日は本当にありがとうね、黒川さん」


 告げられた感謝に、真澄の頬が一層赤く染まるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る